ロラ ヒラリア・ブスタマンテ
ロラはタガログ語で「おばあさん」の意味です。
2023年3月18日(土)、ヒラリア・ビレイ・ブスタマンテさんがお亡くなりになりました。享年97歳でした。
ヒラリア・ブスタマンテさんは、1993年に日本政府の謝罪と賠償を求めた裁判の原告の一人です。
亡くなったロラたちの思いも引き継ぎ、日本軍の性暴力を受けた事に対する日本政府への謝罪と賠償、正義を求める闘いを続けました。
ヒラリアさんは、高齢になっても、正義を求める行動をつづけました。
ヒラリア・ブスタマンテさんの被害
1926年2月、マニラ市に生まれました。
1943年から1944年にかけて日本軍の性暴力被害に遭いました。
1943年10月頃、バターン州のヘルモサにいた父のいとこの家にいたときのことです。
17歳頃のとき、田んぼでの作業を終え、家に帰ろうとしているときに日本兵が乗ったトラックが私の目の前で止まりました。そこから日本兵が3人降りてきて、2人が私に近寄りトラックに無理やり乗せようとしました。
乗りたくなかったので抵抗すると、お腹を殴られて気を失いそうになりました。そして、そのまま二人の日本兵は無理やり私の手足をつかんで、まるで豚を放り込むようにして、トラックに乗せました。
トラックは動き出し、どこに連れて行くのかと思っていると、ある検問所の横を通り抜けました。そして日本軍駐屯地のニッパハウスに連れて行かれました。1時間くらいかかる遠い場所でした。
他に3人の女性がいる部屋に監禁されました。彼女らは17歳から20歳で自分が最年少でした。
夜8時ごろから、大体3人くらいの日本兵たちが毎晩のように私たちをレイプしに来ました。昼間は洗濯と、彼らの食事をつくらされました。駐屯地は有刺鉄線で囲まれており、逃げるのは不可能でした。私たちは、従うしかありませんでした。
1年2か月後、駐屯地のガードをしていたマカピリ(注:日本軍への協力者の人を指す。戦時中に日本軍に協力していたフィリピン人組織「比国愛国同志会」のこと)が米軍がくるという知らせが駐屯地に届いた日の夜に逃げるのを助けてくれました。
父親のいとこたちの家に直接帰りました。そのうちの一人にレイプされたことは言いましたが、日本軍の性奴隷だったことは言いませんでした。
解放後(終戦後の時期)、1945年に父がマニラの家族のもとに自分を連れて行き、母に自分の経験を話した時、母は泣いていました。その後、マニラで米軍の洗濯や彼らの制服の繕いなどをして働きました。
1949年に結婚し1972年に亡くなった最初の夫との間に3人の子どもが生まれましたが、夫には戦時中の過酷な経験をしたことは言いませんでした。
その後、アドルフォ・ブスタマンテ(Adolfo Bustamante)さんと再婚しましたが、過去について話すのは恥ずかしく思い、話さなかったので夫は何も知りませんでした。
94年に夫が亡くなるまで22年間共に暮らしました。
やはりサバイバーである友人のVioletaさんに励まされて名乗り出ました。
ロラズ・センターでのロラ・ヒラリア
ロラズセンターではいつも、静かに座って手作業をしていたロラ・ヒラリア。リラ・ピリピーナの活動費捻出のために、ハギレを使ったカラフルな布巾を作っていることが多く、何時間も黙々と作業している様子にいつも驚かされていました(by福田美智子)。
*詳細は、福田美智子さんが書いた「【コラム】「慰安婦」サバイバー、ロラ・ヒラリアのこと」をお読み下さい。
ヒラリア・ブスタマンテさんへ
2012年8月13日、首都圏ケソン市ロラズセンター、柴﨑温子撮影
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愛するヒラリア・ブスタマンテさんへ💟
2月14日に、97歳のお誕生日
メッセージを送ったばかり、
3月18日にロラの訃報を知り、
悲しみの内にいます。
終にロラの正義を回復する事が出来ないままにロラの人生の幕は下ろされました。
申し訳ございません。
ロラとの出会いは27年前でした。裁判の原告で日本に来日し、証言集会へと精力的に活動をしてくださった姿は今でも忘れません。
外見は控え目でおとなしそうですが、ロラが一旦証言を始めると内から闘志がみなぎっていました。東京高裁で棄却判決が突きつけられた時には、口を一文字にして抗議した姿は忘れません。
またロラは、心の癒しを求めてロラズ・ハウスで過ごす事が多かったですが、ロラ・センターに移動してからは思うように過ごす事が出来ませんでした。
2019年にロラのご自宅で
再会できましたが、最後まで
『サナエ』の名を忘れずにいてくれたことに、ロラのアテンドをして良かったと心から思います。
ロラ❗長い旅路をお疲れさまでした。
どうぞゆっくりお休み下さい。
伊藤早苗(マキータの会)
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ブスタマンテさん、直接お会いしたのは2019年の2月でしたね。
フィリピン支援3団体(柴崎温子さん、伊藤早苗さんと山田久仁子)は、2019年に、ロラズセンター支援100人委員会からの調査として支援の3年を経て訪問のおりに、マニラから、お住まいのカビテ州まで3時間かけ、ロラ・ブスタマンテのご自宅で再会の喜びを分かち合ったのです。
93歳で右腰が痛いと聞いてましたので、ベッドに横たわっているかしら?とおもっていましたが、美しく着飾って肘掛け椅子にきちんと腰掛けて、にこやかに待っていてくれました。
日本には5回も行ったのよ、東京、大阪、沖縄、皇居などとよどみなくお話しされ、とてもお元気でした。
長女のテレシータさんと同居し15人家族。顔色も良く安心して帰ってきたことを思い出します。
ずっと、静かな中にも闘志がみなぎっていました。
どうぞ、安らかにお眠り下さい。
(ロラネット 山田久仁子)