川田文子さん(2018年)




42日にノンフィクション作家の川田文子さんが亡くなられました。

79歳でした。



川田文子さんといっても、日本軍「慰安婦」問題に関心がなければ知らない人も多いと思います。今日はみなさんに川田さんのことをぜひ知っていただきたく、アピールさせていただきます。




1,赤瓦の家(筑摩書房1987年発行)


私が川田文子さんのことを知ったのは大学生のころ。川田さんの著作『赤瓦の家』を読んだからです。


私が大学生活を過ごした1980年代後半は、戦後補償問題への関心が高まっていた時期でした。それまで日本の反戦平和運動が原爆や空襲などの被害の面が強調されていたことを反省し、日本の侵略戦争や植民地支配など加害の面が強調されてきた中にあって、私は戦後補償の問題として日本軍「慰安婦」問題に関心を持ちました。



1991814日に金学順さんが名乗り出られる前のことです。日本軍「慰安婦」問題とはいったい何なのか、本を通じて知るほかない時代でした。当時、千田夏光の『従軍慰安婦』などの出版物がありましたが、川田文子さんの『赤瓦の家』はどの本とも全く違っていました。



「こんな悲惨でかわいそうな女性たちがいた」という本はありました。「日本帝国主義は朝鮮人女性の性を略奪することで民族の滅亡を図ろうとした」というような論調の本もありました。『赤瓦の家』はそのどれとも違うのです。そしてこの本が、私の人生を決定づけたといっても過言ではありません。



『赤瓦の家』は、植民地朝鮮の貧困家庭に生まれ、沖縄の渡嘉敷島の慰安所に連れてこられたペ・ポンギさんの生涯を描いた作品です。


ペ・ポンギさんがどのような家庭環境で育ったのか。  

                                     ペ・ポンギさん

どのようにして沖縄に連れてこられ、そして渡嘉敷島の慰安所がどのようなところだったのか。

戦争をどのようにして生き延びたのか。戦後、土地も言葉もわからないところに取り残されて女性一人でどうやって生きてきたのか。





その筆致はとてもリアリティにあふれています。川田文子さんがペ・ポンギさんの言葉や眉の動かしかた、呼吸ひとつまでも余すところなくとらえようと必死になっているということが、紙面からもひしひしと伝わってくる……そういう本です。



「だまされて日本軍に連れられて来て、知らん国に棄てられた」と語るペ・ポンギさん。戦争が終わって石川収容所を出て、ひとりでどうやって生きてきたのか。本の中にはその心情を、ポンギさんのこのような言葉で表現しています。長くなりますが引用します。




「一番初めは、もうどこへ行っても落ち着かんさね。あっちへいって一晩、こっちへ行って三晩。よくおったのが一週間。もう歩きどおしさね。名護にも行く。屋慶名にも行く。歩きどおしだったよ。はじめはどこか行って、「女中に使ってくれんか」って言ったら、まだ若いから「どうぞ」と言って入れるさね。「女中はいるから上でサービスしなさい」って言うさ。もう一日中歩きどおしだから、客場におって居眠りした時もたくさんあったよ。お客が酒飲んでるのに、その場で居眠りして夢まで見る。それで、一晩泊まって朝起きたら、またどこかへ行きたい。昨日来て「使ってくれ」って入って、そこを出る時、家へ行って着替え取ってくる」、そんな噓ついて出てくる。一日中歩いて暗くなる。暗くなっても寝るところがない。また飲みに行くのよ。小遣いは一銭もないさね。二、三日おってバス賃ができたら、また他所へ行く。着替えも何もない。風呂敷包みひとつ頭にのせて、一か年はずーっと歩きどおしだった。どこへ行っても落ちつかない。落ち着かんのよ。ああ、その当時は地下足袋履いてたよ。友軍の地下足袋。それを手に持ってわざと裸足で歩く。知らんくにへきて、知ってる人もいない。言葉も通じない、金もない、なんにもないさね。やけくそになってるさ。そうなるんですよ、人間。」

 



日本軍「慰安婦」問題とは、直接的には日本軍が戦争遂行のために慰安所を作り、そこに女性を入れたという問題です。けれどそれは慰安所で女性たちがどのような被害を受けたのかという問題だけでなく、その人の人生を狂わせ、心を狂わせ、取り返しのつかない被害を与えている。日本という国家が女性に対して、取り返しのつかない被害を与えているということなのです。


取り返しのつかない被害を与えているのに、解決も何もあったものではありません。そうじゃないですか?


ぺ・ポンギさんは晩年、PTSDと思われる神経痛に苦しんでいたそうです。ぺ・ポンギさんの人生をひとことで言い表したような川田文子さんの表現が、日本軍「慰安婦」問題とは何であるのかさえも見事に言い表しているように思えるので、その箇所も引用します。



一言一言を慎重に選び、すべてを言い表したい。そういう川田文子さんの表現に対する姿勢がにじみ出ている文章だと、私は思います。

 


「家族がともに暮らすこともできぬほどの貧困、幼い時の一家離散、飢え、奉公、自らの性を鬻(ひさ)ぐこと、戦争、見知らぬくにの焼跡に放り出され、一宿一飯を得るためだけに酔客に身を委ねた日々、そして、戦後の沖縄での長い飲み屋暮らし……。生まれてこの方、ポンギさんは、いつもいつも、ひとかたならない苦難の中に身を置いてきたように思われた。しかし、苦渋に満ちた六十数年のどの時より、今が苦しいのだと、襲いかかる発作に抗い、夜叉のような面相で呻いた。」

 


『赤瓦の家』はいつまでも読みつがれるべき一冊です。いま教科書には日本軍「慰安婦」問題に関わる記述はほとんどありませんが、『赤瓦の家』は国語の教科書に掲載されるべき名作だと私は自信を持って言えます。

 

 


2,皇軍慰安所の女たち(筑摩書房1993年発行)

 


その後、私は川田文子さんの『皇軍慰安所の女たち』を読むことになりました。書かれたのは1993年。宋神道さんの裁判提訴に合わせて出版された本で、宋神道さんのほか、サイパン帰りのたま子さん、国内の慰安所にいたタミさんのことを描いた一冊です。




                  宋神道(ソン・シンド)さん





宋神道さんの人生については、宋さんの10年にわたる裁判闘争を描いた映画『オレの心は負けてない』で余すところなく描かれているので、映画を観た多くの人が宋神道さんの人となりに魅了されたことと思います。しかし日本軍「慰安婦」問題が〈始まった〉ばかりとも言える1993年の時点でこの本が出版されたことは、とても意味のあることでした。




日本軍「慰安婦」問題と、「女性を生きる」ということを結び付けて伝えてくれるのは、川田さんの本だけでした。「だけ」というのは言い過ぎかもしれませんけれど、文字の力をもって「文学」として成立させていたのは、やはり川田文子さんだけだったように思えてなりません。他にも素晴らしい本はたくさんありますが、川田文子さんは私にとっては別格なのです。




日本軍「慰安婦」問題が政治的イシューとして取り上げられる中で、川田さんも運動の中に全身を投じながら、けれど自分の書くものに対しては誠実で妥協のない人でした。政治的な必要性に応じて文章を書くのではなく、きちんと自分の心の中に落として、作家・川田文子の表現をする、そういう人でした。

川田文子さんの文章のすばらしさは、そのリアリズムゆえです。ある意味被害者自身の証言よりも、キチンとその意味を私たちに伝えてくれるのです。それは川田文子さんの「力」です。



たとえば『皇軍慰安所の女たち』にこのような一文があります。

 


「身体の小さかった神道は、発育が遅れていたのか、それとも未成熟なうちに酷使したためか、初潮を見たのは世界館で働き始めてだいぶ経ってからだ。それから何か月も経たぬうちに生理が止まった。怪訝に思っていると、そのうち下腹に重みを感じるようになった。妊娠したのだ。

 (中略)

 しかし、妊娠中でも容赦なく仕事はさせられた。それが祟ったのだろう、七か月目の時に下腹に異常な鈍痛を覚えた。腹が妙に冷たかった。痛みは次第に激しくなり、こらえきれぬほどになった。部屋で神道は歯をくいしばった。声をもらすまいもらすまいと思っても呻いてしまう。あられもない姿を人に見られたくはない。どうあろうとも一人で産まなければと思った。

 激痛のきわみで片足が出てきた。逆児だったのだ。両方の足をひっぱらなければ身体が出てこない。激痛で思考力はほとんどなかったが、そう直感した。腹に力を入れ、いきんだ。どうやら両足が出た。それをひっぱったが、腹が減って力が入らない。部屋に置いてあっためしを喰った。めしを喰らって、力をつけていきんだ。長い時間かかってようやく頭が出た。ぶどう色をした子はすでに死んでおり、ナマコのようだった。臍の緒が途中で切れて母体に残れば自分も死ぬ。臍の緒を注意深くひっぱった。運良く臍の緒は切れず胎盤が出てきた。疲れ果てていたが、身体はすっと軽くなった。

 神道はナマコのような遺体を土に埋めた。」

 



川田文子さんが亡くなったいま、この一文を読み返してみて、川田さんはどんな思いで宋神道さんの証言を聴き、そんな思いでこのような文章を書いたのだろうと想像します。このような、読む人の心に刺さる文章には、なかなか出会えません。


日本軍「慰安婦」問題とは「慰安婦」にさせられ、生きてきた、ひとりひとりの女性の問題なのだと、川田文子さんの文章を読むと実感します。 

 

 


3,生活者としての女性を描くこと

 


2005年、川田文子さんは『イアンフとよばれた戦場の少女』(高文研2005年発行)を執筆しました。川田文子さんの活動の集大成のような一冊で、他人になにか一冊勧めてほしいと言われたら私はこの本をお勧めします。



先述したペ・ポンギさんと宋神道さんに加えて、南京大虐殺の幸存者の石秀英さんや中国・山西省のダーニャン(大娘)たち、インドネシアの被害者たちの被害を描き、しかもそれを日本の侵略戦争の中にしっかり位置づけています。



川田さんの著作の特徴でもあるのですけれど、日本軍がそこで何をしていたのか、歴史の中にしっかり位置づけて、被害をよりリアリティあるものとして描くのです。川田文子さんはノンフィクションライターとして一流ですが、歴史研究家としても一流でした。

そして『イアンフとよばれた戦場の少女』のもう一つの特徴は、川田さんが撮影した写真がふんだんに使われていることです。写真は撮影される者の内面を映し出すだけでなく、撮影者の内面をも映し出します。川田さんがどんなに被害者たちに寄り添っていたか、写真を見るだけでもわかります。

 

その後、川田さんは『ハルモニの唄』(岩波書店2014年発行)を出版しました。在日朝鮮人一世の女性たちがどのように生きてきたのかを描いたルポルタージュです。貧乏でも、厳しい差別の中でも、たくましく生きてきたハルモニたちをいきいきと描いた作品です。



川田さんの仕事の真骨頂は「生活者としての女性を描くこと」です。

それは『赤瓦の家』にも『皇軍慰安所の女たち』にも通底しています。私は日本軍「慰安婦」被害者としてのペ・ポンギさんや宋神道さんを知りたくて本を読むのですけれど、たとえば川田さんは宋さんが海でワカメなどの海鮮物を取って、それを売って生計を立てていた時期があることとかにも注目するのです。被害だけでなく、その人の人生として捉え直すのです。



どういった経過だったのかは忘れてしまったのですけれど、私は川田文子さんの在日朝鮮人一世ハルモニに対する取材に立ち会ったことがあります。といっても遠くから眺めていた程度なのですけれど。川田さんは話を無理に引きだそうとか誘導したりしようとか言うことは一切ありませんでした。ただただ聴く、そんな感じでした。語られることを全身で受け止め、その人生を文字化する。これが川田さんの仕事なのだなと感動したものです。

 


つい先日、『女たちが語る歴史』が発刊されました。川田さんの過去の作品である『つい昨日の女たち』(1979)『女たちの子守唄』(1982)『琉球弧の女たち』(1983)を再編集したものだそうです。これについてはまだ未読ですが、手元においた数日後に川田さんの訃報に触れました。


これから心して読みたいと思います。

 

 

4,川田文子さんの思い出

 

私自身の思い出話をもう少しさせてください。

私は川田さんを何度かお招きして講演会を企画しました。

川田さんは写真を撮るのが好きでした。プロのルポライターなのだから当然と言えば当然ですが、とても上手です。講演会を企画すると、必ずプロジェクターでご自身が撮った写真を写しながら、ペ・ポンギさんや宋神道さんのお話をしました。話し出すと止まりません。脱線することは日常茶飯事。それでも思いが詰まっているから、私たちも聞くことをやめられません。川田さんの講演会が時間通りに進行することなどまずありませんから、最初っからスケジュールのすべてを川田さんのお話に当てていました。



ペ・ポンギさんと宋神道さんのことを話していただいた内容を文字起こしして、講演録を作ったことがあります。文字起こししただけではもちろん読み物にはなりませんから、私なりに手を加えて読み物として面白いものにして、原稿を川田さんに郵送しました。するとその原稿が真っ赤になって帰ってきました。表現にこだわるという、作家としての基本的な姿勢に、私は感動しました。そして修正点の一字一句に修正する意味があって、それにとても納得されるのです。



私は自分の文章を修正されることが嫌いです。意味のある修正ならいいのですけれど、私の思いを無視するような修正にはおもわず拒否反応が出てしまいます。けれど川田文子さんの修正には、すべてにおいて意味があり、すべての点において納得でした。修正する意味が、私にもよく理解できるのです。これがプロの仕事なのだと感動しました。日本語を操り、感情の細やかなところも含めてきちんと正しく伝えるということ。それが川田文子さんなのだなあと思います。私だって素人なりに文字でいろいろなことを伝えてきました。けれど川田文子さんは全然違うレベルのところで勝負してきたのです。


尊敬の気持ちしかありません。

 

2019年、私たち「慰安婦」問題を考える会・神戸は、『宋神道さんを心に刻む』と題して、神戸学青年センターで宋神道さんの写真展を開催しました。その写真の中には当然川田さんが撮ったものもありますし、もともと東京で開催された同写真展の中心も川田文子さんでした。川田さんは胃がんを患って全摘して、老いもあって衰えてきていることはわかっていましたけれど、あえて神戸に来て講演してほしいと頼みました。2015年に日韓合意があり、宋神道さんをはじめ日本軍「慰安婦」が次々と亡くなり、日本軍「慰安婦」問題を考えるうえで宋神道さんのリアルを私たちの心に落とし込みたいと考えたからです。



けれど直前に川田さんが体調を悪くして、来神することはかないませんでした。川田さんと相談してピンチヒッターを私も大好きなSさんに努めていただきました。そのSさんもいま大病を患っています。日本軍「慰安婦」被害者だけでなく、被害者に寄り添って活動してきた支援者も鬼籍に入られる年齢になってしました。それもまた仕方のないことですし、不思議と悲しくはありません。大きな仕事を成し遂げ、生を全うしたのですから。ただただ尊敬しかありません。

 


実は私は川田文子さんにずっとお願いをしていたことがありました。宋神道さんの人生をもう一度書いてほしいと。


『皇軍慰安所の女たち』は宋さんの提訴に合わせて出版された本です。私たちは宋神道さんが10年に及ぶ裁判を闘い抜き、裁判が終わった後にも東北大震災の津波の被害から生き延びた宋さんを知っていますから、正直に言えば物足りない気持ちもあります。


『イアンフとよばれた戦場の少女』にも宋神道さんのことは書かれていますけれど、私が読みたいのは一冊まるまる宋神道さんなのです。

裁判中も、それが終わってからも、川田文子さんは宋神道さんに寄り添ってきました。宋神道さんの人生を伝記にできるのは、川田文子さんをおいて他にはありません。



川田さん自身、古いメモやテープを点検し直して、思い違いや新たな発見もあるとおっしゃっていました。けれど、昔のような体力や気力も残されていないのだとも、おっしゃっていましたっけ。

あなたがなくなった今、あなたの新作を読む機会は永遠に失われてしまったのですね。それが悲しくてなりません。

 


女性を生きるということ、しかも名のある人ではなく、貧困や過酷な労働、あるいは地獄のような慰安所を生き抜いた人々を誰よりもリアルに描ききった川田文子さん。あなたはこんな言われ方は嫌がるかもしれませんし、男性の私が言うのも違うかもしれませんが、ずっと尊敬を込めて思ってきたことなので言わせてください。私にとってはあなたこそがフェミニズムでした。



川田文子さん、たくさんのことを教えてくれて、本当にありがとうございました。そちらにおられる宋神道さんに逢って、尽きぬ話を楽しんでください。私たちはもう少しこちら側でがんばります。

 



(2023419日 171回神戸水曜デモアピール原稿として)

おかだ だい

 


*ペ・ポンギさんと宋神道さんの写真は川田文子さんによる撮影です。