尹美香議員の最終陳述全文



尊敬する裁判長と二方の判事殿

 


 まず私に最終陳述の機会を下さったことに感謝します。

 


 最終陳述で話したいことは沢山あります。しかし先に弁護団が検察の起訴に対して多くの事柄を弁論して下さったので、私は起訴内容について細かく述べません。

しかし過去30年間、国際社会の支持を受けて日本軍「慰安婦」ハルモニたちと一緒に築いてきた暖かい正義が、この法廷で回復することを望む心情で、裁判長と判事へ私の最後の訴えを伝えたいと思います。

 


2年余り続いたとても長い裁判でした。

しかし私にはこの2年半は、現実的より何倍も長く感じられました。何より、酷い経験を経て人権運動家の人生を生きた日本軍「慰安婦」被害者たちが、私の事件のために、また傷を受けたらどうしようという恐れに、毎晩私は悪夢に苦しみました。また過去30年間、国際的女性人権運動としての地位を占めた日本軍「慰安婦」問題解決運動に、被害を与えたらどうしようという憂慮は、ひと時も私の心を離れませんでした。

 


 そんな状況だったので、この法廷で私の声を伝えることができたのは、苦痛でありながらも慰労になり、本当に有り難い時間でした。長い裁判を公明正大に進め、被告人に弁論の機会を下さった裁判長と二人の判事に感謝します。

 


 私個人が受ける残酷さと苦しみは、私が敢て甘受すべきものでしたが、私のために過去2年半、被害者たちと挺対協運動が受けた傷と痛みは、私にはどうすることもできません。だから途方に暮れ、その解決の道をこの法廷で探そうとしました。

 


 私が挺対協で会った被害者たちは日帝植民地時代、空腹で貧しかった民衆の娘として生まれ、ようやく幼い時代を過ごし、戦場へ連行されて日本軍「慰安婦」として虐待されて生き残った方たちでした。戦争が終わって故郷に戻っても、今度は韓国社会のあらゆる蔑視と冷遇の中で生き残りました。それだけに被害意識も大きく、人に対する不信感も大きかったのです。被害申告した240名一人ひとりのトラウマも様々でした。



 活動家たちはハルモニに暴力を受けることもあり、1時間余りも電話で酷い悪口を聞かされて全身にマヒが生じたこともありました。「私らのお陰で稼いでいる奴」という悪口は、多分私を含めて全活動家がハルモニたちに1回以上は受けた傷でしょう。

しかし挺対協の活動家たちはハルモニたちのそんな姿をハルモニたち個人の責任にしませんでした。日本軍「慰安婦」被害のトラウマと韓国社会による2次、3次加害の公的な責任として認識し、これは韓国社会の構成員である挺対協活動家の責任でもあると考えました。

 


 年月が流れ、ハルモニたちと活動家たちの持続的な努力の末に、互いに家族のような関係になり、悪口を言って悪かったという告白を聞くようになりました。街角で、国連で、米国と欧州など世界各地で共に手を握って駆け抜ける同志になりました。

2012年から蝶になってコンゴ、ウガンダ、コソボ、ナイジェリアなどを訪れた金福童、吉元玉ハルモニのナビ基金は、戦時性暴力被害者たちに勇気を与える希望になりました。



 尊敬する裁判長と判事へ訴えます。


ハルモニたちが歩んだ人権運動家の人生、世界から英雄・希望と評価された日本軍「慰安婦」被害者たちの活動が、自覚なく没主体的で、活動家に操られた運動と卑下されることがないように、被害者たちの人権と名誉が毀損されないように援けて下さるよう、切にお願いします。

 


 いま日本軍「慰安婦」問題解決のための運動は、とても困難な状況に置かれています。

 


 もう被害者たちは何人も残っていません。韓国の場合、240人が申告した被害者のうち、先週に1名が亡くなって、現在10名だけが生存しています。

 


 ところが被害者たちの体が弱ってきたスキに乗じて日本政府は、謝罪・賠償もしないで、少女像撤去、最終的不可逆的解決、国際社会での非難中止、裏取引で性奴隷用語の使用禁止などを密約した2015「慰安婦」問題韓日合意をもって、すべてのことが最終的に終わったと主張しています。

そして日本政府は韓国政府にその合意を守れと要求し、世界各地に建てられた少女像撤去のために外交力を展開しています。

 


 駐韓日本大使館前の「平和路」には水曜日毎に「慰安婦タカリ・尹美香を逮捕しろ」という大きな垂幕委と一緒に金学順、金福童ハルモニなど被害者たちに対するヘイトと非難、人権蹂躙のスローガンが溢れています。

最近では独ベルリン少女像の所まで韓国極右団体が押しかけて少女像撤去要求集会をし、慰安婦被害者の人権を蹂躙する妄言を注ぎ込んで独市民に衝撃を与えました。

 


 美しい韓国の青年たちが創った小さな企業のマリーモンドは、歴史で傷を受けたハルモニたちの生涯を崇高さで飾るためにハルモニ一人ひとりを美しい花で表現し、企業の収益金は女性人権活動に還元して成長してきました。

しかし、私の事件を通じて火の手が燃え上がり、サイバー上のヘイトと攻撃は、結局その企業の門を閉じさせました。青年たちは職場を失って日本軍「慰安婦」ハルモニたちの側を離れざるを得ませんでした。

 


 私個人の苦痛とは別に、私の事件によって起きたことを見守るには余りにも辛いこの2年半でした。

 

 被害者たちと活動家たち、日本軍「慰安婦」問題解決運動が受けているこの苦痛の時間を止めるため、私は死を考えたこともあります。しかし金福童ハルモニの死を前にして「希望になる」といった約束、姜徳景ハルモニの最後の病床で「ハルモニが亡くなってもハルモニの分まで頑張ります。信じてください」といった約束、黄錦周ハルモニへ「ハルモニが亡くなっても日本政府の謝罪を必ず受けます」と言った約束を守らなくてはという考えで耐え、そのために裁判に最善を尽くして誠実に望んできました。

 

 公義の象徴である裁判長と判事に訴えます。

 

 私を含んで45名に過ぎない事務所活動家たちは内部の沢山の会議を準備し、毎週水曜日の水曜デモ進行、全国の被害者訪問と福祉活動、博物館建立と運営、平和の少女像建立と被害者顕彰活動、アジア被害者支援と連帯、未来世代教育活動、日本政府に謝罪と賠償・歴史教育履行要求活動、国連と国際人権機構活動、会員参与活動など夜10時以後までで夜勤もほとんど毎日、博物館運営のために週末にも出勤して仕事するなど、沢山の活動をしなくてはいけません。全国の生存者を訪問する時には、何日間か帰宅できないまま全国を運転して回りました。

 


 その過程で行政面と会計上の未熟などの不足があったことを、この2年間の裁判を通じて骨身にしみて確認できました。それに対する責任があるなら、それはすべて代表だった私にあります。しかし未熟さや不充分さはありましたが、検察が主張するような、私欲を求める意図で挺対協で活動したことはありません。

 


 裁判長と判事に切にお願いします。


私と私の同僚たちが再び日本軍「慰安婦」被害者たちと交わした約束を守り、平和の羽ばたきを力いっぱいできるよう、裁判長と判事が賢明な判決で援けて下さるよう訴えます。

 


 202057日からこの2年半の間、私が経験したのは人生の崩壊も同然でした。連日検証されない何十もの悪意ある記事がさく裂していちいち対応する余裕もありませんでした。すでに嫌疑なしで不起訴になった事柄までも世論受けを狙って記事化し、その記事は大衆間と政治圏で私を魔女として攻撃する弓矢になって飛んできました。

 


 私の家族もまたあまりに酷い苦しみを受けました。娘(尹美香)を援けようとしたことが娘の横領に関連したかのようにメディアにねつ造・攻撃された私の父親は検察調査を受けてから体調を壊して病院生活を送っています。

私の娘は慰安婦ハルモニの後援金を横領して留学する図々しい人間へ歪曲されて非難を受け、問題をすべて克服して入学手続きまで済ませたのに、進学の夢を放棄せざるを得ませんでした。

事柄が嫌疑なしで不起訴になっても、それに関連したフェイク記事を書いた記者もメディアも釈明記事を出さず、謝罪もしません。依然としてインターネット上ではフェイク記事が2次、3次と再生産され、悪意ある書込みの場になっています。

 


 慰安婦被害者を利用してタカリ行為をしたとアパートの前まで来て集会をする保守ユーチューバーのために私と私の家族の私生活は周囲に全部さらけ出され、アパートの玄関まで押しかけてきて呼び鈴を鳴らす記者たちのために、家に一人でいた私の娘は恐怖に震えました。私の娘の実名と写真をインターネット上に掲示し、「尹美香の娘を日本へ性売春遠征団で送ろう」などのサイバー性暴力が繰り広げられ、私の娘に対する「殺害」とテロを煽る文まで、いちいち対応できない無数の状況が展開されました。

 


 母の胎内にいる時からキリスト教信仰の中で育った私は、中学生時分には女性牧師になる夢を持ち始めました。そして1998年に日本の男性たちが韓国に妓生観光に来るという話を聞き、余りに恥ずかしかったです。その恥ずかしさが私を、妓生観光に反対する韓国教会女性たちの活動に参加させました。

 


 それ以降、先の公判で陳述した通り、1992年から挺対協で幹事として活動し、事務所長、代表を歴任するようになりました。もう辞めたいと思うことも多かったです。他の安定した職業を何回か勧められたこともあります。しかし教会の牧師でない、街頭でハルモニたちと一緒に居ることにした決心を棄てることができず、ハルモニたちの被害意識に私まで加担できないとの思いで2020年春まで挺対協、正義連で活動を続けました。



 

 私は挺対協で、私欲や政治的目的のために活動したことはありません。どうすればハルモニたちが一人でもより生きていらっしゃる時に日本政府がハルモニたちが望む解決をできるだろうか、70年前の歴史問題をどうすれば2000年代に生きる人たちに関心を持たすことができるのか、どうすれば青少年たちが余り負担に感じないでハルモニたちの歴史に関心を持てるのか、どうすれば韓国とアジア女性たちが受けた問題を世界が自分の問題に認識し、その国やその地域の問題として認識して連帯できるのか、そんな沢山の悩みをしながら過去30年間活動しました。

 

 

 国会議員になったのも、日本軍「慰安婦」問題解決のための活動家の延長線だと考えます。しかし事件発生からこの2年半、この活動を思うようにできませんでした。だからとても辛いです。

 

 

 尊敬する裁判長と判事に訴えます。


私は今後も機会があれば私の人生が終わるその日まで、ハルモニと交わした約束を実現する人生を送りたいです。そうできるよう暖かい正義がこの法廷を通じて実現できることを切実に訴えます。長い陳述を聞いて下さって有難うございます。

 


(訳 権龍夫)

 

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