〈ドキュメンタリー「金福童」〉監督 宋元根(ソン・ウォングン)「金福童」その名を記憶する人になってください
こんにちは。
私はドキュメンタリー映画『金福童』を演出した宋元根(ソン・ウォングン)です。
2019年8月、映画『金福童』が公開されてから年数では4年という歳月が流れました。
本当にずいぶんと長い時間が過ぎました。
昨秋、やっと『金福童』上映会ができそうだという梁澄子・日本軍「慰安婦」問題解決全国行動共同代表のメッセージが飛び込んできた時には、どれほど嬉しかったか分かりません。上映会を実現するために日本の全国各地で物心両面にわたりご尽力くださった全ての方に心からの感謝を申し上げます。
映画『金福童』は、日本軍「慰安婦」被害者である金福童ハルモニの人生を描いた映画です。単にハルモニの人生を扱うことに留まらず、日本軍「慰安婦」問題を解決するために活動したハルモニの足跡を通して、ハルモニが人々と共に運動した27年という時間を振り返ります。被害者の痛みが発生した80年前の悲劇的な状況に集中する映画ではなく、今も続く現在進行形の物語を盛り込んでいます。
実際、私は金福童ハルモニに出会う前までは、この問題について深くは知らない人間でした。ただニュースに出て来る程度の情報だけに基づいて「深刻な葛藤だな」と思う程度でした。
「2015日韓合意」が発表された時にも、ニュースで報道されている通りに「やっと合意がなされたんだな」と思った程度でした。おそらく韓国内の多くの既成世代が私と同じように、よく分かってもいないくせに分かった気になって生きていると思います。日本軍「慰安婦」問題が直面した最も辛い側面は、まさに人々が分かっていると思い込んでいることにあるのではないかと思います。
映画は、金福童ハルモニの人生がわずか3カ月ほどしか残っていない時期に撮影を開始しました。当時は金福童ハルモニの追悼ドキュメンタリーを製作するといった程度の考えでした。当時、この映画を共同で企画した正義記憶連帯側から金福童ハルモニのこれまでの活動記録を資料として受け取って中身を見ました。同時に、私が属している「ニュースタパ」というメディアのデータチームで、ハルモニのこれまでの活動記録を収集し、調査しました。ハルモニの活動の中でどの部分に集中するべきなのか決定する必要があったからです。
当時、ハルモニの活動を調べ始めた私は、映像の中から非常に特異なハルモニの姿を発見することになりました。それは2018年夏、東京で在日朝鮮学校の生徒たちに奨学金を手渡す会場で生徒たちを見たハルモニが涙を流す姿でした。嬉しくて泣いているのか、悲しくて泣いているのか分からないけれど、ハルモニは生徒たちの手をきつく握って涙を流していました。
ハルモニはなぜ涙を流しているのだろう?
それが、私がこのドキュメンタリーを製作する過程で最初に抱いた問いでした。
ハルモニは病床にあっても、自身の最後の財産を日本の朝鮮学校のために寄付しました。
その理由が知りたくて、私は金福童ハルモニに質問しました。ハルモニはこう答えました。
「どういうわけか、あの子たちのことを考えると、ただ涙が出る」
しかし、私はハルモニの返事を聞いても、よく理解できませんでした。韓国にも厳しい生活をする人は多い、なのにあえて在日朝鮮人に手を差し伸べる理由が、当時の私には納得できなかったからです。そして、ハルモニのこのような気持ちや活動には、明らかに私には分からない理由があるのだと思うようになりました。それが何なのか、どうしても自分の目で確かめたいと思いました。ハルモニに涙を流させたその生徒たちに絶対に会わなければならないと思ったのです。ドキュメンタリーの最初の取材は日本に定めました。その理由が分からなければ、きちんと描くことはできないと思ったからです。
2019年1月、京都の「朝鮮中高級学校」を訪ねました。銀閣寺の脇の整備もされていない道に沿って上って行くと、見るからに劣悪な古い校舎が現れました。茂みの中に学校が現れたので驚きました。それだけでも在日朝鮮人の状況が感じられました。学校の裏手には前年夏の水害の跡が未だ整理されずに残っていました。先生方は予算が足りなくて仕方ないのだとおっしゃいました。日本政府の無償化教育政策から排除された朝鮮学校の現実が生々しく目に飛び込んできました。
そして、金福童ハルモニから奨学金を受け取った生徒たちに会いました。チマチョゴリの制服を着て、たどたどしい朝鮮語で話す姿が印象的でした。なんとかして朝鮮語を忘れまいと努力している姿が目に焼き付きました。金福童ハルモニも、一言、一言を朝鮮語で語るこの生徒たちの姿を見たのだなと思うと、当時のハルモニの気持ちが感じられるように思いました。
すぐに生徒たちに、私が訪ねて来た理由を説明しました。末期癌で入院し、目を開けることも厳しくなっているハルモニの病状について説明し、「あの子たちのことを考えると、ただ涙が出る」というハルモニの言葉も伝えました。
そしてゆっくりと生徒たちを見渡すと、突然、熱いものが込み上げて目の前がぼやけてきました。必死に涙を堪えようとしましたが、ある瞬間、涙腺が決壊してしまいました。私の突然の涙に、生徒たちは慌てたにちがいありません。けれども涙は止まりません。そんなふうに私はしばらくその場で泣いていました。
生徒たちの前に立ってやっと、ハルモニの「どういうわけか、ただ涙が出る」という理由が少し分かったような気がしました。
その理由は、まさに目の前にチマチョゴリを着て立っている生徒たちだったのです。15,6歳の少女たちがチマチョゴリを着て、日本語を話す人々の間でしんどく生きていかなければならない、その姿から、金福童ハルモニは自身の姿を見いだしたのではないでしょうか。満14歳で戦場に連れて行かれた金福童ハルモニにとって、目の前のあどけない表情の生徒たちは、何をかけてでも絶対に守り抜いてあげなければならない存在だったのではないでしょうか。「私は守ってもらえなかったけれども、あなたたちは私が必ず守ってあげる。二度と、私のような目には遭わせない」というハルモニの気持ちを、私は感じることができました。
その日以降、このドキュメンタリー映画『金福童』に対する私の姿勢は完全に変わりました。金福童ハルモニが感じられたであろう気持ちまで、観客にきちんと伝えなければならないという義務感に加え、必ず良い映画を製作しなければならないという責任感も生まれました。そして何よりも、「真心」を込めて映画を製作しなければならないと何度も心に誓いました。そのような意味で、当時の在日朝鮮学校生徒たちとの出会いは、この映画『金福童』の始まりであると同時に終わりでもあります。映画をご覧くださった皆さんには、私のこの言葉の意味がおそらくおわかりいただけると思います。
それゆえ映画『金福童』の日本上映は、私にとって本当に貴重でありがたいものなのです。一人でも多くの方がこの映画を見て、金福童ハルモニの名前を記憶し、その足跡を辿ってくださることを願っています。
この映画は政治的な目的や、論争を生み出す目的でつくった映画ではありません。誰かを責めたり貶めたりする映画でもありません。ただ、「金福童」という一人の人間が自身の傷を克服する過程を紹介し、その過程を共にした人々の物語を観客に伝えます。これを通して今日を生きる私たちが日本軍「慰安婦」問題をどう受け止めるべきなのか、という問いを投げかける映画です。
「金福童」という名前を呼ぶ時、私たちはこの問題をありのままに記憶することができると思います。より多くの日本の市民がこの映画を見て、感想を分かち合えること、そして映画が皆さんの真心に近づけることを願っています。
2022年11月