理念で引き裂かれた社会が少しずつ回復していくのを見て悦んだのもつかの間でした。



 いまや私たちは「嫌悪」で裂かれています。



 考えるなら長い間、「嫌悪」は私たちの社会を貫いてきた一つの暴力です。



 しかしいまや私たちは好き嫌いを越え、「嫌悪」を利用して利得を得て、戯画化と愚弄をもて遊び恥じることを忘れました。




 彼らは、多様な人と団体の努力を、ただ純粋でロマンチックな遊びのように作り替えるのが得意です。




 しかし再度私たちは今日、このように集まって、私たちが訴えているのは嘲笑の対象ではなく、彼らによって受けた傷であることを語ろうと思います。



 「草の根大衆運動には善意ある沢山の人の協力が必要だ」というフランシスコ教皇の言葉について話したいと思います。

教皇は「賛美を受けなさい」という会則で、私たちはすべて、それぞれの文化、経験、計画、能力で神の道具になって、被創造物保護のために協力できると述べました。

しかしどうしたことか、私たちは何が起きているのか知らないで、そして何が起きているのか知りたくない誘惑に落ちます。そして目前の利得の前で私たちは道を失って右往左往します。




 だから日本軍性奴隷制問題は、もう過去のことだと言う人がいるのでしょうか?




 日本軍性奴隷制問題が彼らの言うとおり、単純に未来の足を引っ張る過去の一断面でしかないのでしょうか?

「慰安婦」には幾つもの差別が一つに存在し、この差別は私たちの中に起こっていることを気づいていません。「慰安婦」には貧しさ、異民族、女性だから受ける痛みがあります。いまは嘲弄と弱肉強食の論理で口を塞ごうとします。




 何故、犠牲者の主張がいつも埋められ、犠牲を強要されなくてはいけないのですか。



 私らが受けた傷は、これまで集団と勢力によって突放され、踏みにじられるのが日常になりましたが、私たちはたゆまず前へ進みます。




 自分らの利害関係で、私たちに一時期近づいて、また離れて行くことが繰り返されるでしょうが、失望せずに私たちは変わることなく進みます。



 未来に何を残したいですか?




 平和を装った屈従と事大ですか?平和のために正義を叫ぶ勇気ですか?




 イザヤ書421節から4節までの言葉で終わります。


1. 見よ、私の僕、私が支える者を。

  私が選び、喜び迎える者を。

    彼の上に私の霊は置かれ、

    彼は国々の裁きを導き出す。


2. 彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。


3. 傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すこ となく、

  裁きを導き出して、確かなものとする。


4. 暗くなることも、傷つき果てることもない、

  この地に裁きを置く時までは、

  島々は彼の教えを待ち望む。




2022427

日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯・韓国天主教女子修道会連合会 参加者一同



(訳 権龍夫)