4月10日の朝7時にお亡くなりになったそうです。

推定94才。


 現地の支援団体のヌールさんによると、朝、お花の世話をしていた時に体調をくずして入院され、2日後に亡くなったそうです。インドネシアの慣習ではすぐに埋葬するということで、タシアマさんはすでに故郷のパロポに埋葬されています。


2019年に訪問したマカッサルで、昨年亡くなられたミンチェさんとタシアマさんにお会いしました。タシアマさんは一時期、家がないミンチェさんを自宅に呼んで一緒に暮らしておられたそうで、お会いした時もミンチェさんを支えるように斜め後ろに静かに座っておられ、お二人の日頃の関係が伺えました。



ミンチエさん(左)、タシアマさん(右)



タシアマさん(南スラウェシ州マカッサル市に居住)


 ルウ県スリから奥に入った村で生まれました。

スリには大勢の日本兵がいました。ブンガマリーという美人の女性を連れて、いつも馬で移動していた将校もいました。

中学校に入学したばかりの13才の頃、スリの市場で捕まりました。5人ぐらい一緒にいたと思います。日本兵は何も使わなかったけれど、私たちが抵抗すると怒り、怖かったです。

後ろから追い立てて、私たちをトラックに乗せました。日本軍の駐屯地には、兵舎と防空壕と長い家(慰安所)がありました。たくさんの女性がいましたが、全員スリの女性でした。

日本兵はひどかったです。ちょっと間違うと、「バケロー」と言いました。敗戦で日本軍が去ったので、慰安所にいたのはそんなに長くはなかったです。日本兵の子どもを産んだ人もいましたが、私はまだ生理がなかったので妊娠はしませんでした。


日本軍がいなくなった後、町は暴動や独立の運動で混乱していました。私はプロテスタントなので危険だということで、慰安所を出た後、人々が北のセリティ村に逃がしてくれました。それから、家に帰り、親に話しました。父は死んでいませんでした。母は怒りましたが、兵補だったいとこの人が擁護してくれました。






その後、マロスの農業高校に入学しました。100人受験して、男性は7人、女性は1人合格し、それが私でした。

卒業して、東ルウ県マリリで農業指導員の仕事に就きました。しかし、スラウェシは反スカルノ運動の拠点で、町で暴動がよく起きるようになり、近くのパロポにいた家族から戻って来るように言われました。暴動が怖くて3年間で仕事を辞め、マカッサルに来ました。その後、結婚をして5人の子どもがいます。




 

「農業指導員をしていたことは、今でも私の家に来たらわかるよ。植えているパパイヤや庭をぜひ見に来て欲しい」と言われたタシアマさんに、長い人生の間、自らを支えてこられたものの一端を見た思いがしました。帰国直前であまり時間がなく、残念ながらパパイヤや庭を見に行けず、もっと詳しく聞きたいと思いながら別れました。次に機会があったら、ぜひタシアマさんの庭に訪問させてもらおうと思っていたのに、とても残念で悔しく思います。


タシアマさんのご冥福を心からお祈りいたします。




(インドネシア・南スラウェシの日本軍「慰安婦」被害者への緊急支援プロジェクト2021チームより)