「慰安婦」最後の7名、その傍からの記録 「私の母が鬼神になっても、日本の謝罪を受け取る」···「慰安婦」の息子(62)は泣いた
崔ウンソ記者 (韓国日報 2025.4.24)
編集部注;慰安婦被害の生存者はあと7人。 世界中の日本軍「慰安婦」被害者は約20万人(注:原文ママ)に達すると推定されますが、国内で申告・登録された被害者数はわずか240人(2022年基準)。そのほとんどが日本の謝罪も賠償もまともに受けられずに亡くなっています。 残された7人のハルモニも平均年齢95.7歳です。長い間闘ってきたハルモニたちと、その傍を守ってきた人たちに会いました。
先月15日、日本軍「慰安婦」被害の生存者である朴ピルグン(97)ハルモニが、慶尚北道浦項市北区竹長面自宅で韓国日報・コリアタイムズとインタビューをしている。手にしている額の写真は、過去の朴ハルモニの姿だ。
浦項=沈ヒョンチョル・コリアタイムズ記者
「(あの記者は)何言ってるんだ?、言葉では言い尽くせないんだよ!」
「お母さん!全部話してくれたじゃないか。あの時のことを話してみてよ!」
今年97歳になった日本軍「慰安婦」被害生存者の朴ピルグン・ハルモニは、すでに耳が遠くなり、コミュニケーションも容易ではなかった。餅と果物を差し出し、見知らぬ記者を温かく迎えてくれたが、記者の質問には「言葉では言い尽くせない」という答えを繰り返し、インタビューに難色を示した。
南ミョンシク(62)さんはそんな朴さんを横で切なそうに眺めていた。毎週末に一週間分の食べ物を買ってきて朴さんを気遣う朴さんの末っ子だった。南さんは、記者の質問を大きな声で伝えたり、朴さんの短い答えを文章に直してくれたりと、積極的にインタビューを手助けした。朴さんが曲がった指を差し出すだけで、「指が曲がるほど仕事を頑張ったそうですよ」と教えてくれるような感じだった。
1991年の故・金学順(キム・ハクスン)ハルモニの最初の告発以来、日本軍「慰安婦」被害が知られてから34年が経った。学界によって解釈は異なるが、当時の日本軍の兵士数をもとに計算すると、世界各地の日本軍「慰安婦」被害者は約20万人(注:原文ママ)に達すると推定される。
しかし、国内で申告・登録された被害者数は240人(2022年基準)に過ぎない。このうち、2月に故・吉元玉ハルモニが亡くなって生存者は現在7人しか残っていない。今年の彼らの平均年齢は「95.7歳」。証言を聞くことができたのは、朴ピルグン・ハルモニと李容洙(97)ハルモニの2人だけだった。李玉善(98)-姜日出(97)-金ギョンエ(95)ハルモニは健康の悪化で意思疎通と移動が難しいと伝えられ、残り二人は身元や行動が外部に公開されたことがない。
韓国日報は接触可能な「慰安婦」生存者と、その傍を守ってきた家族・知人に会った。
高齢の生存者に代わって、彼らの人生を証言できる人たちだ。彼らは『母・祖母が亡くなっても、「慰安婦」の歴史は私たちの生活を通じて続く』とし、「被害者たちが果たせなかった願いを必ず実現する」と話した。
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小言が多く頑張り屋だったお母さん... 「残った息子にも禍が降りかかるのではと怖くて」
日本軍「慰安婦」被害生存者の朴ピルグン(97)ハルモニとその子息・南ミョンシク(62)氏が韓国日報・コリアタイムズ記者とインタビューをしている。南氏は朴氏が「慰安婦被害者」だと初めて知った時を思い起こして涙を流した。
先月15日午後、訪れた慶尚北道浦項市北区竹長面の朴氏宅。朴氏の実家の同姓村であるここで、彼女は1928年に9人兄弟の末娘として生まれ、裕福に育った。 しかし15歳の時に日本軍に連行され、約2年間、日本にある慰安所で耐え難い苦難を受けた。朴ピルグン氏は2度の試みの末、他の被害者数人と一緒に便所の便槽に身を沈め、やっと慰安所を脱出した。
苦労して故郷に戻ったが、苦しい生活が続いた。慰安所でずっと懐かしかった母は、娘を失った悲しみで倒れてしまい、朴さんが帰ってきて間もなく亡くなった。
その後、朴さんはイカ漁船に乗る男と出会い、7人の子どもを産んだ。しかし麻疹で5人を失い、その後、子どもたちの父親も早く天国に旅立った。朴さんは、「末の女の子と末っ子の男の子だけやっと残った」と話した。
南ミョンシク氏が5歳頃に母の朴ピルグン氏と撮った写真。南氏は子供時分の時の母を思い起し、「小言がひどく多かった」と回想し、「息子がどうなるのか心配する気持ちを今だから理解できる」と言った。浦項=崔ウンソ記者
朴さんがどんなお母さんだったかと尋ねると、南さんは姿勢を正して「口うるさかった」と即答した。ナムさんが小学生の頃、友達が釣竿を持って池に遊びに行くのを追いかけて行くと、朴さんは「水に落ちて死ぬ」と言いながらすぐに息子を探しに来た。
下校後は自転車のペダルを強く踏んで早く家に着かなければならなかった。少しでも遅れると、朴さんが誰彼構わず「なぜウチの息子が帰らないのか」と聞いてくるからだ。
口うるさく、杓子定規だった母。二人の子供を養うために他人の畑を耕し、山菜を採りに行き、指が曲がっても、朴さんは苦しい素振りを見せなかったという。南さんはいつの間にか老いた母親をじっと見つめながら言った。「結局、子供たちが先に逝き、残った子供たちも禍を受けるのを恐れてそうしたようです。
あのお母さんの気持ちが今なら分かります。」
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「日本人は執拗だった」...母の言葉は「慰安婦」証言だった。
日本軍「慰安婦」生存者の朴ピルグン氏が慶尚北道浦項市北区竹長面で韓国日報・コリアタイムスとのインタビュー中、息子と撮った昔の写真を見ている。朴氏は幼い南氏に日本について「執拗だ」とか訳の分からないことを言ったが、南氏は深刻に受け止めなかった。浦項=沈ヒョンチョル・コリアタイムス記者
朴さんは幼い南さんを前に、たまに意味不明なことを言うことがあった。「あのね、日本に行ってひどい目に遭ったよ」、「日本人は執拗だ」。当時、南さんは「日本は礼儀正しい国だと習ったのに、なぜ?」と思うだけで、大したことではないと思った。時々、母が基本的な日本語はもちろん、日本語の悪口までよく知っていることが不思議で仕方なかった。
それがどういうことなのか?20年以上経って南さんが30歳を過ぎてから分かった。大邱で宅配便の自営業で生計を立てるのに忙しかった南さんが、たまたま実家に立ち寄った時、郵便受けから一枚の紙を見つけた。朴さんが苦労して面事務所で登録した日本軍「慰安婦」被害者申告書類だった。
「天が崩れ落ちたような気持ちだった。」
南さんは当時を思い出し、ようやく言葉を発し、涙した。
なぜもっと早く母に日本で何があったのか聞かなかったのだろう。 とめどない悔恨の念に長い間苦しんできたという。「今はこう言うけど、当時はみんな(「慰安婦」被害を)忌み嫌ったんだよ。友人たちにも、あえて話さなかったんです」。
その日以来、南さんは朴さんを大邱の自宅に送り届ける日には、浦項から大邱まで高速道路を走り、被害内容を詳しく質問した。息子が聞いてくれるのを待っていたのだろうか。朴さんは南さんにだけは、慰安所での状況や心情を具体的に打ち明けた。
そうして1時間以上の録音ファイルが3つできた。
南さんは誰かに聞かれるのを恐れて、録音ファイルの音を最低に下げて、一人でそのファイルを何度も何度も聞いた。10年以上も聞き続けていたファイルは3年ほど前、携帯電話の故障で無残にも消えてしまった。南さんは「大金を失ったよりももったいなかった」と話した。あの時のような具体的な証言を再び聞く機会がもうないだろうと思ったからだ。
この日のインタビューのように、朴さんが見知らぬ人の前で言葉を惜しむと、南さんの心はさらに苦しくなる。「お母さんは『知らない』、『言葉では尽くせない』とか言っていますが、私は一から十まで全部知っているんです。
お母さんが他人には100%オープンにならないので、私と同じように率直に話してくれたらいいのにと思います。」
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息子の切実な願い..."後世が母の歴史を知ってほしい」
朴さんは、もしかしたら「慰安婦」被害の事実が子供たちに禍を及ぼすかもしれないと申告した後も、南さんが表面に立つのを妨げて来た。南さんが「慰安婦」被害関連行事や集会に出ようとするたびに、パクさんは「我慢しろ」「良いから良いから」と止め続けてきた。南さんは「テレビに映りそうな時は手で顔を隠しながら、お母さんに隠れて行事に参加した」と話した。
当面の生業が忙しい昨今、南さんは毎回上京するのが難しく、ユーチューブで水曜集会を見ることが多い。画面には、水曜集会だけでなく、道の向い側で「慰安婦はサギ」と叫ぶ反対集会の様子も一緒に映し出される。南さんにとっては、とても目を開けて見ていられない光景だ。
彼は「骨に沁み、血が逆流する」と話した。
朴さんが亡くなっても、「慰安婦」の歴史を最後まで伝えなければならないという決意がさらに固まったのもそのためだ。ナムさんは声を強めた。「政治をする偉い人たちの話だけが歴史ですか。
後世の人々が私の母の歴史も正しく知るべきです。」
この日、朴さんはインタビューが難しい中、「私が死んで鬼神になっても(日本が謝罪を)してほしい」、「死んで鬼神になっても知らせて欲しい」という言葉だけははっきりと言った。これに南氏も同調した。「母が『死んで鬼神になっても知らせてくれ』と言いました。私は母が死んだら、より大きな声で日本に要求し、堂々と日本から補償も謝罪も受けます。
母の墓前で「母さん、日本の謝罪を受けたよと報告します」。
浦項=崔ウンソ記者
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