〈戦時性暴力問題連絡協議会〉第86回 水曜行動 in 新宿 月間報告(池田恵理子)2025.4.16
3月30日には「令和の百姓一揆」が起こりました。日本の農業と暮らしを守るために農家の人たちが東京に結集し、トラクターも動員してデモをしたのです。日本の最低賃金を1050円にするかどうかの議論がある一方で、「米作り農家の時給はたったの10円」というニュースを知って驚愕しました。一体、日本政府は何をやっているの?!・・・という怒りを抑えられません。
「慰安婦」問題では、来週の水曜日、4月23日に「4・23アクション」が新宿で行われます。4月23日というのは、1977年に沖縄に残留した在日朝鮮人の「慰安婦」被害者・裴奉奇(ペポンギ)さんが初めて公に顔を出して証言して新聞に載った日なので、この日が記念日になったのです。「日本軍の性奴隷制を許さない4・23アクション」が呼びかけて、4月19日には飯田橋でフォーラム、23日には新宿駅の東口広場でデモが行われます。
私は1990年代後半から「山西省・明らかにする会」の一員として、中国山西省・盂県の被害女性たちの裁判支援や生活支援の活動に加わってきました。今では、日本政府を訴える裁判を闘った10人の被害女性たちは全員が亡くなってしまいましたが、遺された遺族たちが頑張っています。
その中で、被害女性の養女だった楊秀蓮さんのおつれあいの楊建英さんが、3月末に交通事故で亡くなった・・・という訃報を受け取り、私たちは大きなショックを受けて、悲しみにくれました。
楊秀蓮さんの養母・南二僕さんはとても奇麗な方で、17歳の時に侵攻してきた日本軍に捕まり、隊長専属で強かんされ続けました。南さんは妊娠しますが赤ちゃんは亡くなってしまい、隊長がいなくなった後には多くの兵士たちに性の相手をさせられたり、他の地域に連れて行かれたり…という厳しい暮らしを強いられました。家族や親族がお金を支払って日本軍から彼女を引き取ろうとしましたが帰されませんでした。
しかし戦後の中国では、南二僕さんは「日本軍の協力者だった」「反革命」といった中傷を受け、投獄までされました。南さんの養女になった楊秀蓮さんが数えで4歳の時、南さんは婦人病が悪化したこともあり、「反革命」と名指しされたこともあって、自ら命を絶ってしまうんですね。
楊秀蓮さんは20代の後半になって、養父が亡くなる前に養母・南二僕さんが亡くなるまでの経緯を初めて聴いて仰天します。それから南さんのことを、夫の楊建英さんと一緒に調べ上げ、日本政府を訴える性暴力被害者の裁判支援の原告になりました。楊さん夫妻は農業を営んでいい家庭を築いていましたが、私たちが強烈な印象を受けたのは、楊建英さんの作る料理がともかく美味い!ということでした。彼は素晴らしい腕前の料理人だったのです。
私たちが30年余りの間に60回以上は訪ねた盂県の村々には、外国人が宿泊できるホテルもなければ、レストランや食堂も全くありません。そこへ行くのも、今は高速道路がありますから数時間で行けますが、それまでは片道7~8時間もかけて通いました。盂県の村々へ行く時には、私たちはカップヌードルを持っていって、現地でお湯をいただいて食事することにしていました。ところが楊建英さんはご自宅の台所でほんとうに素晴らしい料理を、たくさんのお皿にいっぱい作って、私たちを歓迎してくれました。楊さんご夫婦は仲睦まじく、楽しい方たちでした。楊秀蓮さんは10人の原告の中では唯一の遺族として、元気にいろいろな活動をされました。日本には何度も来て、証言もしてくれました。その彼女の闘いをずっと支えてきたのは、おつれあいの楊建英さんでした。
私たち「山西省・明らかにする会」にとって楊建英さんは大事な、かけがえのない人で、その人が63歳という若さで交通事故で亡くなられたのです。楊秀蓮さんがどれほど悲しんでいることだろう・・・と思うと辛くてなりません。近年はコロナのせいもあって訪中は中断してきましたが、私たちは悲しくて胸が詰まる思いでいっぱいになりました。
このように・・・これはどの国の性暴力被害者でも同じですが、今年で戦後80年にもなりますから、被害当事者の方のほとんどは亡くなられています。しかし、遺された遺族の方々はお母さんやおばあちゃんの遺志を引き継いで、今も闘いを続けています。日本政府が「慰安婦」問題の解決に向けて何もしていない上に、「慰安婦」制度をなかったことにしようという姿勢が露わになっている・・・という現在の状況を変えていこうと、一生懸命この問題に取り組んでいます。
ですから私たちも、この問題の解決にはまだまだ時間がかかるかもしれないですが、日本の中でも声をあげ続けて支援者を増やし、理解してくれる方々を増やしていかなければなりません。遺族の方たちと一緒にこの問題に取り組んでいくのです。中国だけでなく、他のアジアの国々の人たちとも一緒になってやっていくのです。
この問題に興味を持たれた方は是非、今、お配りしているチラシを受け取って読んでください。「何らかできることがあるかもしれない」と思われたら、私たちに声をかけてください。是非、ご一緒に取り組んでいきましょう。この問題は、解決されない以上は私たち・戦後に生まれた者たちにも「戦後責任」が問われることです。
私たちもやり続けていかねばならない・・・と思っています。どうぞよろしくお願いします。