〈戦時性暴力問題連絡協議会〉第86 回 水曜行動 in 新宿 〈サバイバーを記憶する〉台湾の陳蓮花さん (柴 洋子)2025.4.16
きょうは台湾の陳蓮花(チン・レンファ)さんについてお話ししたいと思います。
チン・レンファさんは1924年台北市に生まれました。
お母さんが早く亡くなったため、お父さんは炭焼きなどとても苦労して生計を支えましたが、長女である姉は養女に出され、レンファさん自身も4ヶ月の赤ん坊の時に養女に出されました。養父母の家もやはり貧しい暮らしでしたが、レンファさんは大事にされて育ったようです。養母の写真を見つめるレンファさんの目はなつかしくてたまらないと言っているようでした。
レンファさんが19歳のとき、南港(ナンカン)というところにある縄をなう工場に通い、働いていました。収入はわずかでしたが、養母が病気でもあり、いくらかでも家計の足しになるので一生懸命働きました。
ある日、一人の日本人が工場にきて、「フィリピンで看護助手をする女子を募集している」と言いました。
この頃(1943年頃)は戦争中で、「日本人はお国につくせ、戦地の兵隊さんのために全身全霊を捧げよ」と声高に宣伝していたときでした。翌日、その日本人は一枚の書類を持ってレンファさんの家にやってきて、「フイリピンの仕事に選ばれたが20歳未満なので出国するには親の承諾が必要」ということで書類にサインをするようにと迫りました。契約書なるものにサインさせて親を説得するという連行の仕方は台湾の阿嬤の中でもレンファさんからしかきいていません。
養父は、レンファさんをフィリピンに行かせたくないため、書類にすぐにはサインをしませんでした。「長男は召集令状がきてすでにセブ島で従軍しており、家計を支える者がいなくて今も苦しいのにこれ以上娘までいなくなるのは困る」とか、「まだ未成年だし、看護婦の知識もない。兵隊さんの役にたたない」等いろいろ理由をつけて娘がフィリピンへいくことを断ったのです。
しかし、その日本人は「仕事は簡単だ。包帯をまく手伝いくらい、すぐできるようになるだろう」「国家のため、国のため、命がけで戦っている兵士のためだ」としつっこく、執拗に迫り、だんだん脅迫もされ、養父はとうとうやむを得ずハンコを押してしまいました。
こうして、けなげに家族のために、家計を助けるために、働いていたレンファさんの悲劇が始まったのです。ろくに出発の準備も出来ず、2枚の服だけをもって基隆(キールン)の港から20数名の女性たちと共に出発しました。1週間ほど、船酔いに苦しみ、さらにアメリカ軍の潜水艦の攻撃に遭ったりするなど恐怖の中でセブ島につきました。
船からおりるとき、台湾人日本兵が下船する人の手をとって船から下りるのを手伝ってくれたのですが、そのときレンファさんに「何しにきたの?」と聞かれ、「看護婦の仕事をしにきた」と答えたら、びっくりしたように「看護婦ではないよ。慰安婦だよ!」と大きな声で言ったのだそうです。
「慰安婦だよ」といわれてもレンファさんはその意味が理解出来ず、トラックに乗り、「慰安所」にされている大きな建物に入り、一人一部屋ずつあてがわれました。ここで、台湾から一緒に来た日本人夫婦から仕事は兵隊たちの性接待であることを知らされ、レンファさんたちは驚愕し、みな大きな声で泣き出したりしましたが、周囲は海、帰るすべも逃げ出すすべもありません。
こうして絶望の中で従わざるを得ない日々が始まりました。
セブに着いたとき、手を引いてくれた台湾人男性は、通訳の仕事をしており、その後もしばしばレンファさんに会いに来ました。
やがて、レンファさんはこの男性とお互いに心を寄せ合うようになり、離ればなれになるなど紆余曲折はあったのですが、戦争が終わり、台湾に帰ってから二人は結婚しました。この2人の話も帰国してからの苦しい生活の様子と共にいろいろ話をしてくれたのですが、長くなるので今回はこの話は省略します。いずれにしろ絶望的な状況の中で「生きて国へ帰る」という強い意志の原動力になった事は確かだと思います。
セブではアメリカ軍の艦砲射撃がひどくなり、日本兵は「慰安婦」を連れて逃げ惑った。逃げる途中で身体が弱ったり、動けなくなったりすると日本軍は足手まといになるという理由で銃殺してしまう。20人以上いた女性たちはレンファさんともう一人の2人だけだったというすさまじさでした。
日本の敗戦で戦争は終わり、収容所で夫になる男性と再会し、ようやく台湾へ戻ることが出来たレンファさんは、家族には被害のことを話しましたが、近所の人たちはもちろん他の誰にも、自分が日本軍の性暴力被害を受けてきたことを知られることのないように細心の注意を払って生きてきていました。
子どもは出来なかったので2人の養女を育て、洋裁や鶏を飼ったりと帰国してからの生活は働きづめでしたが、近所の廟(びょう)にいき、熱心に祈り、またボランテイアで廟の掃除をするなど信仰の厚い暮らしをしていました。
セブ島で一緒だった女性がアメリカの艦砲射撃の中を逃げ惑うとき、銃撃を受けて亡くなってしまいました。レンファさんは彼女の爪と髪の毛をたばこの缶に入れて持ち帰りました。しかし、彼女の肉親を捜し当てることが出来ず、自分が通っている廟に髪などおさめ、「かわいそうに」といいながらずっと祈り続けてきました。
レンファさんは、台湾の阿嬤たちが来日し、集会に参加するとき、一緒に来日していながら台湾の一団から離れた席に座っていました。顔を出して公に語ることもありませんでした。
しかし、「国民基金」反対の声を上げていたときに「国民基金」の事務所に他の国のサバイバーといっしょにレンフアさんも台湾のメンバーたちとやってきました。みんなが声をあげてるときに、それまで黙っていたレンファさんも突然、大きな声を張り上げて「国民基金」のやりかたを非難したのです。いつも穏やかなレンファさんの中にフツフツと燃えている怒りをみた思いでした。
レンファさんが、公に証言したのは京都の証言集会に参加したときでした。台湾語の中にときおり「カンポウシャゲキ」と日本語も交えながら涙とともにしっかり語ってくれました。
そんなレンファさんに、「なぜ、みんなの前で話してもいいと思ったの?」と聞いたことがあります。「ウン、もう歳とったからね」とだけ答えてくれました。私には「もう歳をとったからね」の一言にレンファさんの歴史がぎっしり込められれているような気がしました。
婦援会が行うワークショップでは同じ被害を受け、共通の痛みを秘めた阿嬤たちが語り合います。レンファさんは毎回参加していましたが、最初の頃は自分は余り語らず、みんなの話を聞いていました。しかし、あるとき、ふとしたときに涙を流しながら語りはじめ、その時から語ることを躊躇しなくなり、どんどん強くなっていったように思います。
率直で、かわいくて、おしゃれで、とにかく歌が好きで台湾の歌はもちろん日本の歌もたくさん歌います。自分で日本の歌の歌詞をカタカナでビッシリ書いたノートを大事にしていました。
2016年12月、台北市に「阿嬤の家」、AMAMuseumがオープンしたとき、オープンセレモニーに笑顔で娘さんと共に出席したレンファさんの姿は忘れられません。
翌2017年4月に93歳で亡くなりました。「阿嬤の家」のオープンを自分の目で見てもらえたことが、せめてもの慰めとなりました。
レンファさんの穏やかさの中に秘められた怒りをもっと伝えて行かなければいけないと思っています。(