2021.5.15オンラインセミナー 「バンカ島虐殺事件」




私たちが戦争について考えるとき、兵隊が戦いあうことを考えます。通常、そうした戦争活動の間に、傷つき殺される、罪のない、たまたまそこに居合わせた市民については考えません。



市民はごく普通の人たちで、敵に捕まったとしても、戦争になった地域に前から住んで働いていた人たち、あるいはたまたまそこに居合わせた人たちです。彼らは偶然戦争に巻き込まれてしまった人たちです。



       ジューディー・キャンベルさん



現在も戦争が起きときには、私たちはその影響について新聞やテレビで知ります。

戦争は常に悲劇であり、多くの兵士だけではなく市民もまた死んでいきます。しかし、過去の戦争について考え理解を深めることは、そうした戦争が再び起きないようにするためにも重要です。

戦争では人が苦しみ死ぬだけではなく、何世代にもわたってその影響が続きます。戦争を生き延びた者や遺族にとっては、精神的に苦しい多くの記憶とともに生活することを余儀なくされ、平凡で幸せな生活を送ることができなくなります。



私の祖父は、第2次世界1944年8月、インドネシア、バンカ島のムントクという町の日本軍の市民収容所で亡くなりました。その祖父のことをお話ししたいと思います。私の祖父の話は、第2次世界大戦中に東アジアの日本軍捕虜収容所で苦しみ亡くなっていった大勢の人たちの経験と、その亡くなっていった人たちの家族が今も苦しみ続けていることの典型的な例と言えるものです。



私の祖父に何が起きたのかみなさんに知っていただきたいのです。同じ収容所に入れられた人たちよって書かれた本や日記を、これまで長年の間、私はたくさん読んできました。また収容所で当時はまだ子どもだった3人の人たちと会い、収容所がどんなところだったのか詳しく教えてもらいました。さらには、収容所に入れられた人たちが描いた絵もたくさん目にしてきました。



収容所のことに私が興味がある理由は、戦争が私の家族に大きな影響を及ぼしたからです。



1942年2月、祖父はギアン・ビーという輸送船でシンガポールを離れましたが、その船は爆撃され、祖父は日本軍に捕まり、収容所に入れられました。そのとき私の16歳で、オーストラリアで学校に通っていました。1943年に、祖父はパレンバンから一枚の葉書だけを家族に送ることが許されました。この葉書が着くまで、家族は祖父が溺れ死んだものと思っていました。葉書を受け取った家族はもちろん嬉しかったのですが、終戦になってから、祖父が1944年に亡くなっていたことを知らされました。



私の父は、自分の父を失ったことの打撃から回復することはなく、一生、深刻なうつ病に悩まされ続けました。私は、終戦からそれほど経っていない1956年に生まれました。当時、そして今もそうですが、うつ病がどんな病気かほとんどの人はよく知りません。親戚も私たちを訪問することは嫌がったため、私は孤独な中で育ちました。



私の祖母は、船の周りに落とされた爆弾のせいで耳が聞こえなくなりました。彼女は祖父とは別の船に乗っていたので無事にオーストラリアに着きましたが、その後の彼女の人生はいつも怒りと悲しみに満ちたものでした。私はこれまでに、収容所に入れられた人たちの家族で祖母と同じように苦しんだ家族とたくさん出会ってきました。



第2次世界大戦前と大戦中、マラヤとシンガポールでの市民防衛は志願兵軍によって行われました。そうした英国と豪州の志願兵の家族で作っている歴史研究グループがあり、「マラヤ志願兵グループ」と呼んでいます。


このグループの活動を通して私は、爆撃や収容所で親族を失うという同じような戦争体験をした多くの家族と出会いました。家族体験を共有しあい、支援し合うということをやっています。お互いに共通した過去が理解できる、大家族の一員になったような気持ちです。


「マラヤ志願兵グループ」の活動で、バンカ島のムントクの街中に私たちは小さな記念博物館を建てました。

収容所があったところに、ムントクで亡くなった捕虜の名前を刻んだ標識をたて、その人たちのお墓が石油スタンドのそばに設置され、合同のお墓も設置されています。

ムントクの地元の私たちの友人を助け、私たちの家族の記念のためにも、ムントクのみなさんを支援する活動を行っています。

新しい井戸を掘り、学校の設備の修理を行うためにお金を送り、また最近はコロナ感染症に対応するために救急車を購入して送りました。

このようにして捕虜の記憶を継承し、彼らの死にもかかわらず、良い結果が生み出されるように努力しています。



ここで私の祖父の背景についてお話ししたいと思います。

彼の名前はコリン・ダグラス・キャンベルで、1892年にマラヤに生まれましたが、父はスコットランド人、母はオーストラリア人でした。祖父の父はジョホールの君主に仕える鉄道技師でした。祖父は、マラヤのペラク州でゴム園耕作者となり、オーストラリア人のアンと結婚し、2人の男の子がいましたが、その子どもたちをオーストラリアの学校に入れました。幸せで平穏な生活をおくっていました。



1941年12月8日、日本軍はマラヤに侵攻しました。

この日、日本軍は米国の真珠湾、香港、フィリッピンも攻撃しました。それから70日の間、マレー半島で日本軍と英豪軍(地域住民軍を含む)の間での戦闘が続きました。日本軍はシンガポールに向けて侵攻し、途中で幾つもの町を占領して行きました。



英国政府はマラヤとシンガポールに在住する西欧人に対して、安全であるからオーストラリア、インド、南アフリカ、英国などに逃げる必要はないと言っていました。



ところがマラヤ爆撃で多くの市民が死亡し、人々はシンガポールに逃げ込んで退避許可を得ようとしました。

日本軍がシンガポールに近づくにつれ、小島のシンガポールの飲料水が断水になるのではないかと心配しました。そのとき英国政府は、ようやく西欧人に逃避するよう指示し、「我々はあなたたちを救えないので、神の御加護があるように祈る」と言ったのです。



1942年1月、祖父は妻と他の女性や子供たちを車に乗せ、戦闘を避けながらシンガポールに行き、オーストラリアに安全に逃げれるように船に乗せました。逃避する人はスーツケース1個だけを持っていくことが許されました。港に着くまでに、幾度も、爆撃を受けた建物、道路に横たわっている車や死体の間をぬけて車で通過しなければなりませんでした。日本軍による空爆を避けるために、幾度か車を止めて道路脇の排水路に身を隠しました。



祖母が船で出発した後、祖父はゴム園に戻り、設備や貯蔵物を破壊してから逃れる準備をしました。飼い犬を獣医のところに連れて行き、処分してもらって土に埋め、貴重品も土に埋めました。それから、将来また戻ってこれることを望みながら、働いていた労働者に礼を述べてお金を払いました。家族の所持品、家具、書籍、写真などはそのまま残していくより他はありませんでした。



1942年2月15日にシンガポールが日本軍に攻略される直前の13日、祖父はシンガポールに戻り、ギアン・ビー号という貨物船に乗って逃げました。

シンガポールに戻るまでに、再度爆撃で殺された多くの人の死体を避けながら、シンガポールに着いたときは市内全体が火事でした。

ギアン・ビー号は、主に女性・子供・老人を乗せてシンガポールから逃避する40隻余りの船のうちの一つでした。これらの船は、数日のうちに日本軍の飛行機や戦艦に爆撃され、インドネシアのバンカ島近海で沈没させられました。



日本軍の飛行機や戦艦はスマトラ島のパレンバンの油田を占領するために出撃していたのですが、それらが避難者を乗せた船を襲ったのです。

ギアン・ビー号の船長は、その船が軍用船でないことを日本軍が分かるように、女性・子供の全員が甲板に立つように指示しました。にもかかわらず、ギアン・ビー号ほか40隻あまりの船が爆撃され沈没させられました。日本軍の飛行機は、海に飛び込んだ女性・子どもすら銃撃して殺しました。



その結果、約4千名から5千名の人が亡くなりました。救命ボートに乗ったり、破壊された船の板切れにつかまったり、あるいは3日もの間泳いだりしてなんとか海岸にたどり着いて生き延びた人たちもいました。


祖父はギアン・ビー号が沈没した後、海に飛び込み、乗船客でいっぱいだった救命ボートに引き上げられました。しかし、それ以上救命ボートに乗れない人は、ボートにつかまりながら海に浮かんでいましたが、力尽きて溺れ死にました。

祖父が乗っていた救命ボートは数日後にバンカ島にたどり着きました。乗船客たちは島民によって小さな船に乗せられてゼブスという町までつれていかれました。その町で、地元の中国人の世話になりましたが、やがて日本軍がやってきて祖父たち乗船客をトラックに乗せてムントクの刑務所に連れて行きました。



私はこれまでにムントクを9回訪問しています。

2020年には、ゼブスの中国人女性と出会い、彼女が年老いた“マリクお爺さん”を紹介してくれました。“マリクお爺さん”さんは、1942年当時5歳でしたが、お爺さんの家族が乗船客の世話をしたのを覚えていました。その乗船客の一人がオーストラリア人で、その人にビスケットをもらったことを覚えていました。このオーストラリア人は、私の祖父ではなかったかと思います。ゼブスに着いた乗船客を知っている人と知り合うことができて、とても嬉しかったです。



40隻ほどの乗船客のうち約千人がバンカ島のムントクに連れてこられましたが、ほとんどが女性、子ども、老人で、オーストラリアと英国の役人である市民もその中にはいました。この人たちは、生活環境条件がひじょうに悪い収容所を転々と移動させられました。

最初はムントク、それからスマトラのパレンバン、再びムントクに戻され、最後はルブック・リンガウのベララウという順番です。収容所では、これらの人たちに、インドネシア各地に住んで働いていたオランダ人が加わりました。



市民男性たちは、女性と子供とは別の収容所に入れられました。数ヶ月ごとに毎回違った収容所に移動させられるたびに、生活条件は悪化しました。男の子は13〜4歳になると、母親から引き離され男たちの収容所に送られました。息子から離された母親たちは心が痛みました。

収容所で配給される食糧も医薬品もごくわずかで、3年半にわたる戦争期間中、男たちの半数、女たちの3分の1がマラリア、赤痢、脚気(ビタミン欠乏)、肺炎、飢餓などが原因で亡くなりした。

子供たちの中にも死亡者が出ました。

毎日の配給食糧は、石や草が混じった汚い米が少量と腐った野菜の切れ端だけでした。肉やタンパク質のものはほとんど与えられませんでした。そのため、草やネズミ、カタツムリ、蛇など、見つけられものはなんでも食糧にしました。


収容されている人たちは酷い取り扱いを受け、毎日、点呼のときに日本軍監視兵に深くお辞儀をしなかった場合は、暑い太陽の下に何時間も立たされたり、ひどく殴られたりしました。

女性の中にはあまりにも強くぶたれたため、歯が折れたり、顎が壊れてしまった人もいました。


死人が出た場合には、土を掘って死体を埋めることだけができました。

私の友人であるクイーンズランドに住むニール・ホッブズはほぼ97歳です。彼は、収容所に父親と一緒に入れられた1942年当時は17歳でした。多くの仲間が死にかかったとき、彼は墓掘り人のグループに加わりました。そうすれば余分な食糧品をもらえたからです。この余分の食糧品を彼は父親に与えることで、二人は戦争を生き抜くことができました。



私の祖父はそれほど幸運ではありませんでした。

彼は、1944年8月に、赤痢と脚気でムントク男子収容所で、53歳で亡くなりました。このとき、毎日、6人が亡くなっていきました。ニール・ホッブズは、おそらく私の祖父も、ムントクの町の墓地に埋めたのだと思います。

2014年にニール・ホッブズは、私と一緒にムントクを訪問しましたが、そのとき彼は89歳でした。私たちは、彼らが収容されていたムントク刑務所を訪れました。現在の環境条件は当時よりよくなっているはずですが、建物自体は昔のままです。ニールは自分が入れられていた第9号室を見つけましたが、彼の多くの仲間がそこで死んだものと思われます。



私たちは戦争に怒りを覚えるのではなく、戦争で起きたことに悲しみを感じ、なぜ人は他人に対してそんな酷い態度がとれるようになるかを理解するのにとても苦しみます。



1945年9月に、最後の収容所であるベララウで生存者を救い出した豪州軍兵たちは、収容所にいた人たちがまるで骸骨のような「灰色の幽霊」のように見えたと報告しています。あまりにも酷い取り扱いで、病気におかされ弱りきっていたのです。

私の友人、ボブ・パタソンは、この収容所で2歳から5歳までを過ごしました。収容所が解放されたとき、ボブは病気で歩くのもままならず、彼の母親も彼を抱いて歩く力もありませんでした。

もう一人の友人、ラルフ・アームストロングは戦争が終わったとき13歳でした。男子収容所から女子収容所に行ってみましたが、母親も2人の姉も死んだと知らされ、二度と会うことができませんでした。



私は定期的に遺族仲間とともにバンカ島を訪問します。

私たちは「バンカ島の友」というグループを作り、このグループには「マラヤ志願兵グループ」、(バンカ島で溺れ、虐殺され、あるいは収容所で亡くなった)豪州陸軍看護師の遺族家族、歴史家や地元のインドネシアの人たちが加わっています。



パレンバン収容所では、女性たちが合唱団を結成し、クラッシック音楽を歌いました。2013年には、イギリスで「マラヤ志願兵グループ」がコンサートを開き、4人の収容所生存者と多くの遺族家族が参加しました。このコンサートで集められた募金が、ムントクの墓碑建設やその他の地域プロジェクト支援のために送られました。



ヴィクター・フランケルという精神科医は戦時中にドイツの収容所で彼の家族をなくしています。

戦後彼は、過去にどんなことがあったにせよ、人生に意義を見出すことが重要だと私たちに教えました。

私たちの哀しみは、過去のことを記憶しより良い将来を築くために努力するような、あたたかい新しい友情によって癒されます。かくして友情と私たちの努力は常に広がって行きます。



毎年、追悼式と「人道の歩み」が、1942年2月に豪州陸軍看護師、一般市民、兵士たちが虐殺された海岸で行われます。この「人道の歩み」では、参加者全員が手をつなぎ世界平和を願います。2020年には、インドネシアのオーストラリア、ニュージーランド、英国、日本の大使館が平和を願う植樹を行いました。

今年は追悼式はZOOM で行われました。参加者全員が自宅で平和を願うロウソクを灯しました。

2009年には、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)がムントクを訪れ、歴史を重要視する町とさまざまな違った宗教を信じる人たちが一緒に平和に暮らしていることを賛美しました。



収容所生存者の一人で、戦後にカソリック神父になったウイリアム・マクドゥーガルの伝記を書いたガリー・トッピング教授は、「ムントクが恐怖の場所であるだけではなく、美と教育の場所になったことはマクドゥーガルの心を喜ばせた」と書いています。



過去の恐怖にもかかわらず、「バンカ島の友」の会はより良い将来を築くために援助を続けたいと思います。

ベララウ収容所で亡くなったマーガレット・ジェニングスは、自分の聖書に多くの詩を書き残しました。そのうちの一つの詩の最後の数行は、私たちのいまの気持ちを表しています。



「ある日いつか、この全てが終わらなくてはならず、

これから後の年月を目にして生きる私たちは

新しい世界を、血と涙から 永遠の平和を

作り上げる努力をせねばならない」_