かなしいお知らせです。



6月19日午前9時40(現地時間)に、インドネシア・南スラウェシのミンチェさんが亡くなられました。




ミンチェさんは、モスクのバルコニーで生活されていましたが、少し前に体調を崩し、支援者のニェントさん宅に身を寄せて病院にかかるなどされていました。



2019年に訪問したメンバーが呼びかけて、ミンチェさんに安心して暮らしていただけるよう、1年間限定で生活資金を毎月送る「緊急支援プロジェクト2021」を4月に始め1回目の送金をしました。



その後、床に横たわる痛々しい姿が写真で送られてきたのを見て、私たちは尋常ではないと大変心配しました。




私たちの支援活動を現地で手伝ってくれているヌールさんとも相談し、静養をして、少し体調が戻ったら、部屋を借りて落ち着いていただこうとしていたところでした。



ニェントさんからヌールさん、そして長い間インドネシアの「慰安婦」問題の調査を・支援をしてきていた鈴木隆史さんに連絡があり、私たちも突然の訃報を知りました。




私たちとともに、ミンチェさんにお気持ちを寄せてくださった方々、本当にありがとうございます。



ミンチェさんのゆく道が寂しくないよう、ともに祈ってください。

 



インドネシア・南スラウェシの日本軍「慰安婦」被害者への緊急支援プロジェクト2021 呼びかけ人一同

 








ミンチェさん 南スラウェシ州マカッサル市に居住)





14歳の時、マカッサルの家の前で友だちと遊んでいたところ、日本軍がやって来て捕まりました。

驚いて出てきた母親は銃床で殴られ、ミンチェさんは無理矢理トラックに乗せられて、司令部があったセンカンという場所の慰安所に連れて行かれました。



慰安所では「ハルコ」と呼ばれ、やがてイサカという司令官の専属になりました。


6ヵ月後くらいのある夜、日本兵が酒盛りをしている隙に近所の家へ逃げ、男の服を着てトラックに乗せてもらい、マカッサルへ帰ることができました。しかし、3ヵ月後に母親が亡くなり、「シリ(「恥」の意味)」「殺す」と言われ、家を追い出されました。妊娠していることもわかり、自分で堕胎しました。




その後は、着替え数枚をビニール袋に入れて、手伝いをしながら友だちや知り合いの家を転々として生きてきました。



時々亡くなった両親のお墓で「ごめんなさい」と言ってお祈りをしていますが、「いつも憂うつ。一人で泣いている」と、今も「慰安婦」にされたことを思い出して苦しんでいました。




20145月には、東京での第12回日本軍「慰安婦」問題アジア連帯会議に参加して証言をしました