[キム・スジョンの女性のための弁論] 
「私たちがハルモニたちのヘラクレスにならなければならない」



キム・スジョン弁護士  |  2020-07-07 09:13:00


2020年は東京で「女性国際戦犯法廷」が開かれてから20年になる年だ。

2000年12月、 東京で日本軍の戦時性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷(訳者注:以下、戦犯法廷)が開かれた。

 当時、私は司法研修院修了を控えていたが、先輩弁護士から上記の戦犯法廷について話を聞き、飛行機のチケットを取って東京に向かった。 私の東京行きは「日本軍慰安婦」問題に対する専門的知見や、激しい怒りや情熱のようなものではなく、韓国女性のDNAに刻まれている自然な反応のようなものであり、心の中では半分だけ参観し、半分は浅草、原宿、渋谷で遊んで近くの富士山雪景観光などで埋めるつもりでいっぱいだった。 このような安易な気持ちで戦犯法廷を参観したのだから、初日の法廷の向こう側に集まっていた日本の右翼と、彼らの戦犯法廷に反対するスローガンから吐き出される殺気に、どれほど心臓が縮みあがったことか。


戦犯法廷は日本の女性運動家松井やよりさんの提案で、韓国挺身隊問題対策協議会(略称「挺対協」、正義記憶連帯の前身)など、アジア太平洋地域の民間団体と法律専門家らが中心となって開催されたが、1991年故金学順ハルモニが日本軍「慰安婦」被害を初めて公開告発してから10年ぶりに行われたものである。 太平洋戦争直後に開かれた東京裁判で、日本の天皇ヒロヒトが起訴すらされなかったことに着目し、日本国と天皇の処罰と賠償責任を問うため、同じ東京で民間人が設けた法廷だった。 戦犯法廷が開かれた場所は「九段会館」というところだったが、肉眼で見えるところにその有名な靖国神社があった。 靖国神社は、日本の右翼たちには聖地のような所だ。 こうした点を考慮して靖国神社の付近で象徴的に戦犯法廷を開催したもので、聖地に侵入されたと感じた日本の右翼たちが大挙、九段会館の前に群がってきたのではないかと思った。


法廷参観を口実にした東京旅行計画は完全に失敗した。 法廷が開かれた5日間、法廷を離れることができず、5日間経っても、ある決意に満ちた思いのため、東京渋谷の街では、遊ぶことができなくなった。 戦犯法廷には北朝鮮、中国、台湾、フィリピン、インドネシア、マレーシア、オランダ、東ティモールなどから64人の被害者が証言のために参加した。 今は亡き金福童さん、ハ・サンスクさん、そしてオランダのジャン・ラフ・オハーンさん、何よりも北朝鮮から来たパク・ヨンシムさんが強烈に記憶に残った。 「日本軍慰安婦」被害資料のうち、戦争で廃墟になったところで臨月の「慰安婦」が救出されたかなり有名な写真の実存する人物だったのだ。 大きな画面に写真が映し出され、パク・ヨンシムさんが証言のために法廷に立ったその瞬間を長い間忘れることができなかった。

 17歳で「日本軍慰安婦」として連れて行かれ、中国、ミャンマー、シンガポールなどを引き回され連合軍に救出された。パク・ヨンシムさんは、日本軍に刃物で刺されたお腹の傷を見せたりもしたが、その幼い体に残った50センチ以上の切り傷が、今はしわだらけの体にもそのまま残っていた。 健康な生存が奇跡のようで、またその悲惨な生涯を考えるとため息が漏れた。

最近、KBSが米国国立文書記録管理庁(NARA)で1944年の米中連合軍によって救出される「慰安婦」被害者たちの姿が映し出された映像を発掘、報道したが、中国雲南省の松山で撮影されたこの映像の中には驚いたことに、臨月のパク・ヨンシムさんが万歳を叫ぶ姿が確認された。 亡くなってから数年たつが、このような姿でまた発見されたのが、今、「慰安婦」運動に降りかかった試練を思うと、まるで何かの啓示のように感じられた。


被害者が口にすることができない、しかし忘れたくても絶対忘れられないその残酷な被害状況を証言する時、1000人余りの参観人と100人余りの記者たちはもちろん、法廷の検事、判事まで皆が涙せざるを得なかった。 被害者たちは、母親にさえも打ち明けることができなかったという話、目を開けても閉じても思い出すというその日の生々しい記憶を話した。 私はほとんどが知っていた事実にもかかわらず、肉声で聴く証言の強い力に捕らわれ、体がぐらつくほどだった。 強制的に、あるいは騙されて連れていかれた被害者たちは、軍の監視下で座ることも立つこともできない状況でも、性的暴行を受けなければならなかったという残酷な証言をし、日本に責任を問い、謝罪を受けたいと話した。 日本軍による強制的な「慰安婦」動員だったということが被害者たちが口をそろえて語った真実であり、これは、随所で発見される文書によって確認される事実だった。


戦犯法廷は日本の天皇ヒロヒトが有罪であり、日本政府に国家的な責任があると1次判決を下し、1年後の2001年12月にオランダ・ハーグで最終判決として日本が第2次世界大戦中にアジア各地で犯した日本軍の組織的な強姦、性奴隷制、人身売買、拷問など、有罪認定の証拠とその理由について具体的な内容を記録した。


私はこのとてつもない歴史的現場を目撃する幸運を味わった喜びを抱き、「これなら日本はすぐに被害者たちに謝罪し、賠償するしかないだろう」という純真な思いで、韓国行きの飛行機に乗った。 しかし、その時はまだ分からなかった。 その時、会った証言者のハルモニたちが亡くなった後も、20年が経った後も相変わらず「真相を明らかにせよ」「謝罪せよ」「賠償せよ」と叫んで闘っているとは。


韓国に帰った私は「日本軍慰安婦」被害者の女性たちがまぶしい証言活動をするのをはじめ、女性人権活動家、平和運動家として生まれ変わっていく姿を見て、恥ずかしくも度々一緒にする機会はなかった。 ただ、時々寄付をし、恥ずかしさを繕う程度だった。 そんな私にまたチャンスが訪れた。 2014年「基地村慰安婦」被害者の代理として、大韓民国を相手に国家賠償訴訟を起こすことになり、再び「日本軍慰安婦」被害者の女性たちにお会いした。 「基地村慰安婦」被害者たちが「慰安婦」という用語を使うのに対して「日本軍慰安婦」被害者たちを辱めることだとし、後ろ指を指された時、支持して連帯してくれた方がまさに「日本軍慰安婦」被害女性たちだった。 どれほど大きな力になったことか。軍「慰安婦」問題は国家の軍事主義と戦争に動員された女性の人権問題だということをハルモニたちが最もよく理解したのだ。 金福童さんの寄付で始まった「ナビ平和賞」の最初の受賞者(2016年)が「基地村慰安婦」被害者の人権回復に向けて努めていたトゥレバン、セムウト、ヘッサル社会福祉会だった。 「基地村慰安婦」被害者の訴訟は現在1、2審で一部勝訴し、大法院の判決を待っている。


基地村訴訟を始めた当時は、果たしてこの訴訟で国家の責任を問うことができるだろうか。 確信できなかった。 ところが、「ヤンゴンジュ」、「ヤンセクシ」として生きた過去を恥じて訴訟を起こしながらも、帽子を深くかぶってサングラスをかけて自らを隠して法廷にいらっしゃったのが、後に国家に責任を問うとして法廷で公開的な証言をし、利用だけして捨てた国家に責任を取るよう堂々と要求された。 裁判所も応答して日本が直接女性たちを強制的に連れて行き、性売春を強要した「日本軍慰安婦」被害者と「基地村慰安婦」被害者は、別としながらも「国家が積極的に違法な性売買を正当化して助長しており、人間の尊厳性を軍事同盟の公示および国家安全保障の強化、そして基地村内の性売買活性化を通じた外貨稼ぎの手段とした」とし、国は基地村元慰安婦たちの精神的被害に対して賠償せよと判決した。 「基地村慰安婦」問題に連帯した「日本軍慰安婦」被害者らの闘争と連帯があったからこそ可能だった。


基地村の訴訟を進行していた2015年12月28日、韓国と日本の外交部長官はいわゆる日本軍「慰安婦」問題の「最終的および不可逆的解決」に合意したとし、日本が10億円を拠出して財団を設立し、被害者たちを支援して、韓国内の日本大使館前に設置された少女像を撤去することにしたという合意(以下合意)を発表した。

 被害者たちは、日本国の責任ある謝罪と賠償を求めてきた被害者の意思を無視した合意に憤り、青年たちは少女像を守ると言って、その寒い冬、少女像の周辺で野宿して闘った。

私は弁護士らとともに金福童、李容洙、吉元玉、クァク・イェナム、姜日出さんなどの代理で、上記の合意が憲法に違反した合意であると主張する違憲訴訟、大韓民国と日本に対する損害賠償訴訟に参加することになった。 文在寅大統領が就任して以後、事実上、合意は無効になり、大韓民国は、損害賠償訴訟で「国際社会の普遍的原則に反しており、被害者中心主義原則に反する上の合意で、原告らが精神的苦痛を経験したということを謙虚に認めて被害者の尊厳と名誉を回復するため、対内外的努力を継続する」と裁判所の調停決定を受け入れ、4年間の訴訟に決着をつけた。


ただ残っているのは日本国を相手取った訴訟だ。 日本国を相手に韓国より先に訴訟を起こした事件がもう一つある。 ところが、実にあきれたことに、その事件の進行中、いわゆる司法壟断(梁承泰最高裁判所長官のもとで裁判所行政処が裁判に関与した事件)の期間中、裁判所行政処が該当訴訟に介入し、訴訟を無力化させようと計画したことが明らかになった。 当時、法院行政処は上記の訴訟について対外秘文書を作成したが、「国家免除理論で却下」するのが当然だとか、「却下されない場合」1968年の韓日請求権協定で被害者一人ひとりが損害賠償を請求する権限がなくなり、民事上の損害賠償の消滅時効も過ぎたという根拠で棄却できるとし、「棄却」と「却下」に対する論理を作り、「韓国の対外的信任度、外交摩擦などを考慮して外交的経路による訴訟取り下げの試みが必要だ」という内容が記載されていた。

 被害者の権利を救済するために先頭に立っても足りない裁判所が、訴訟を無力化できる論理まで作って事件に関与しようとしたのか。大法院長が、望みを成し遂げるため、朴槿恵政権の外交的負担を減らそうとしてそうなのか、いろんな話が交錯するが、地位の高い方たちの国の心配は全く一般庶民とは別世界のことだと改めて実感したのだった。


日本では1年以上原告らが送った訴状が送達されておらず、長い間裁判を進められなかった。 結局、法院の決定によって、公示送達(裁判所の掲示板に掲示する方法)で送達し、裁判を進めることになったが、公示送達の効力が発生するやいなや、日本国は大韓民国の外交部に対し、「国家免除(ある国家の領土内で他国およびその財産に対して同等な主権国家に対して司法管轄権および執行権を免除すること)に該当する事案であるため、不適切な訴訟だ」として解決を求めたりもした。

 このように、日本国は裁判が進行していることを知りながら、これを回避し、大韓民国政府に圧力をかけたのだ。 日本国なしに進行する訴訟の初弁論期日、李容洙、吉元玉、李玉善「日本軍慰安婦」被害者ハルモニたちが裁判に出席した。

 皆さん、お年寄りで車椅子に乗って苦労して法廷に出廷したが、90歳以上の李容洙さんが突然車椅子から立ち上がり、判事の前にひざまずいて両手を合わせて「どうか悔しさを晴らしてほしい」と訴えた。 みんな驚いて、李容洙さんを抱きしめた。 なぜ被害者が法廷に出なければならず、なぜひざまずかなければならないのか。 日本国が出席しない法廷で、被害者や代理人の弁護士は依然として孤独に、しかし、激しく闘っている。 日本軍の被害者に対する強制動員と性的搾取の責任を問い、人道的犯罪では国家免除が適用されないことを国際人権法の法理、国際裁判の事例などを主張して争っている。


15年末に始まった訴訟が4年以上続き、原告らのリストが一つ二つと消されている。 金福童ハルモニをはじめ、何人かの方が亡くなっている。 弁論の期日ごとに判事は亡くなった方々を原告らのリストから整理するよう促しているが、代理人たちは相続人の確認が難しい問題があるとして、整理を先送りし続けている。 相続人の確認が難しい事情も事実だが、これは言い訳にすぎず、実は原告リストからハルモニの名前を一つ一つ消すのが胸に重い石ころを一つずつ積み上げていくように重いためだった。 名前だけでもつかんでいたいからだった。


先日、李容洙さんが日本軍慰安婦運動の問題点を指摘する記者会見をして以降に挺対協、正義連に対するあらゆる話が出て、やがては「日本軍慰安婦」運動自体を貶めて、ハルモニたちが物乞いをしたといった話まで出てくるのを見ながら、まるで私が侮辱されたようなひどい屈辱を感じた。
挺対協や正義連の内部事情を私はよく知らない。 ただ人権運動家として、活動家として、証言者として生きてきたハルモニたちが、一瞬にして、ただ金儲けで翻弄されたかわいそうなハルモニへと転落していくのは、耐え難いことだ。 その方たちがそういう方たちなのか。 堂々と問題提起をして記者会見をした李容洙さんを見て。
あの方たちはくみしやすい方たちではない。 その過酷な歳月を重ねて生きてこられた強靭な方々だ。 少なくとも私の目に映ったあの方々はそんな姿だった。

李容洙さんの内心まで、私に分かるはずがない。 ただ、私は「慰安婦は汚れた名前だ」、「慰安婦が、世界の女性に害を与えたらすまない」、「慰安婦の汚名をはらしたい」、李容洙さんの口から押えることのできず深い胸のどこからか棘のように刺さっていたが、飛び出した言葉。 これらの言葉から、自らを人権活動家として紹介し、被害者より人権活動家と呼んでほしいと言われるが、依然としてあの苦しみから抜け出せていないことを痛切に感じる。 ハルモニのこのような言葉は、本当に誰を狙っているのか。 これまでの「慰安婦」運動なのか、謝罪も賠償もしない日本国か。 これまでもこの問題を解決できなかった無能な大韓民国の為政者たちなのか。


ハルモニたちを見て、ゼウスから火を盗み、人間にもたらした罪で、岩に鎖で縛られ、鷲に毎日肝臓を噛まれるプロメテウスを思い出す。 ハルモニたちは戦時中の女性への性暴力の残虐ぶりを証言し、世界における戦時性暴力被害者と連帯して戦争と軍事主義に対する警告をし、平和を教えた。 それは火だ。 その見返りとして、いざ自分たちの被害に対しては謝罪も賠償も受けられないまま、永遠の苦痛を受けているのかもしれない。 もしかすると私たちはハルモニたちに苦痛を与えているゼウスなのかもしれない。 私は今からでもハルモニたちを救うヘラクレスになりたい。 ハルモニたち自身以外に誰がハルモニたちを救うことができるだろうか。 しかしそれでも、今からでも私が、私たちがハルモニたちのヘラクレスになるべきではないだろうか。





(拙訳:Kitamura Megumi)
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〈原文〉
https://m.pressian.com/m/pages/articles/2020070613390710868


20주년 맞는 2000년 '도쿄 여성국제전범법정'을 기억하며…

[김수정의 여성을 위한 변론] "우리가 할머니들의 헤라클레스가 되어야 한다"

김수정 변호사 |  2020-07-07 09:13:00



2020년은 도쿄 여성국제전범법정이 열린 지 20년이 되는 해이다. 2000년 12월 일본 도쿄에서 일본군의 전시 성 노예제를 재판하는 여성국제전범법정이 열렸다. 당시 나는 사법연수원 수료를 앞두고 있었는데, 선배 변호사로부터 위 전범법정에 대한 이야기를 듣고는 무작정 비행기 티켓을 끊어 도쿄로 향했다. 나의 도쿄행은 '일본군 위안부' 문제에 대한 전문적 식견이나, 열띤 분노나 열정 같은 것이 아니라, 한국 여성의 DNA에 새겨져 있는 자연스러운 반응 같은 것이어서, 마음속으로는 절반만 참관하고 절반은 아사쿠사, 하라주쿠, 시부야에서 놀고 인근의 후지산 설경 관광 등으로 채울 요량으로 가득했다. 이런 안이한 마음으로 전범법정에 참관했으니, 첫날 법정 건너편에 모여 있던 일본 우익들과 그들의 전범법정을 반대하는 구호에서 품어져 나오는 살기에 얼마나 심장이 쪼그라들었겠는가.


전범법정은 일본의 여성운동가 마쯔이 야요리 씨의 제안으로 한국정신대문제대책협의회(약칭 '정대협', 現 정의기억연대(정의연) 전신) 등 아시아 태평양 지역 민간단체와 법률 전문가들이 중심이 되어 개최되었는데, 1991년 고(故) 김학순 할머니가 일본군 위안부 피해를 처음으로 공개 고발한 지 10년 만에 이루어진 것이다. 태평양 전쟁 직후 열린 도쿄전범재판에서 일본 천황 히로히토가 기소조차 되지 않은 것에서 착안하여 일본국과 천황의 처벌과 배상책임을 묻고자 같은 도쿄에서 민간인들이 마련한 법정이었다. 법정이 열리던 장소는 '구단회관'이라는 곳이었는데, 육안으로 보이는 곳에 그 유명한 야스쿠니 신사가 있었다. 야스쿠니 신사는 일본 우익들에게는 성지 같은 곳이다. 이러한 점을 고려하여 야스쿠니 신사 부근에서 상징적으로 전범법정을 개최한 것이고, 성지를 침입당했다고 느낀 일본의 우익들이 대거 구단회관 앞으로 몰려온 것이 아닌가 싶었다.


법정 참관을 빙자한 도쿄 여행 계획은 완전히 실패했다. 법정이 열린 5일 내내 법정을 떠날 수가 없었고, 5일이 지난 후에도 어떤 결의로 가득 찬 마음 때문에 도쿄 시부야 거리에서 흥청망청 놀 수가 없게 되었다. 전범법정에는 북한, 중국, 대만, 필리핀, 인도네시아, 말레이시아, 네덜란드, 동티모르 등에서 64명의 피해자가 증언을 하기 위해 참석했다. 이제는 돌아가신 김복동 할머니, 하상숙 할머니, 그리고 네덜란드 얀 루프-오헨 할머니, 무엇보다 북한에서 오신 박영심 할머니가 강렬하게 기억에 남았다. ' 일본군 위안부’ 피해 자료 중 전쟁으로 폐허가 된 곳에서 만삭의 '위안부’가 구출된 꽤 유명한 사진의 실존 인물이셨던 것이다. 커다란 화면에 사진이 띄워지고 박영심 할머니께서 증언을 위해 재판정에 섰던 그 순간을 상당히 오랫동안 잊지 못했다. 17세에 '일본군 위안부’로 끌려가 중국, 미얀마, 싱가포르 등을 끌려 다니다 연합군에 구출되었다. 박영심 할머니는 일본군에게 칼로 찔린 배의 상처를 보여 주기도 했는데 그 어린 몸에 베인 50센티 이상의 칼자국이 이제는 주름 가득한 몸에도 그대로 남아 있었다. 그분의 건강한 생존이 기적과도 같았고, 또 그 처절한 생애를 생각하니 탄식이 절로 나왔다. 최근 KBS가 미국 국립문서기록관리청(NARA)에서 1944년 미중 연합군에 의해 구출되는 위안부 피해자들의 모습이 담긴 영상을 발굴 보도했는데, 중국 윈난성 송산에서 촬영된 이 영상 속에는 놀랍게도 배가 부른 박영심 할머니께서 만세를 부르는 모습이 확인되었다. 돌아가신 지 수년인데 이런 모습으로 다시 발견되신 것이, 지금 위안부 운동에 닥친 시련을 생각하니 마치 무슨 계시인 것처럼 느껴졌다.


피해자들이 차마 입에 담기 어려운, 그러나 잊고 싶어도 절대 잊히지 않는 그 잔혹한 피해상황을 증언할 때 1000여 명의 참관인들과 100여 명의 기자들은 물론 법정의 검사, 판사들까지 모두 눈물을 흘리지 않을 수 없었다. 피해자들은 엄마에게도 털어놓지 못했다는 이야기, 눈을 떠도 감아도 떠오른다는 그날의 생생한 기억들을 꺼내놓았다. 나는 대부분 알던 사실이었음에도 육성으로 듣는 증언의 강력한 힘에 사로잡혀 몸이 휘청거릴 지경이었다. 강제로 혹은 속아서 끌려간 피해자들은 군의 감시 하에 앉지도 서지도 못하는 상황에서도 성폭행당해야 했다는 참혹한 증언을 하면서 일본에 책임을 물어 달라고, 사과를 받고 싶다고, 배상을 받고 싶다고 했다. 일본군에 의한 강제적 위안부 동원이었다는 것이 피해자들이 입을 모아 말하는 진실이었으며, 이는 곳곳에서 발견되는 문서들에 의해 확인되는 사실이었다. 법정은 일본 천황 히로히토가 유죄이며, 일본 정부에 국가적 책임이 있다고 1차 판결을 했고 1년 뒤인 2001년 12월 네덜란드 헤이그에서 최종 판결을 하면서 일본이 2차 대전 중에 아시아 각지에서 저지른 일본군의 조직적인 강간, 성노예제, 인신매매, 고문 등 유죄 인정의 증거와 사유에 대해 구체적인 내용을 기록했다.


나는 이 어마어마한 역사적 현장을 목격하는 행운을 누린 뿌듯함을 가득 안고, 이 정도면 일본은 곧 피해자들에게 사과하고 배상할 수밖에 없을 것이라는 순진한 생각을 하면서 한국행 비행기에 올랐다. 그런데 그때는 미처 몰랐다. 그때 뵈었던 증언자 할머니들이 돌아가신 뒤에도, 20년이 흐른 뒤에도 여전히 "진상을 밝혀라", "사죄하라", "배상하라" 외치며 싸우고 있을 줄은.


한국으로 돌아온 나는 '일본군 위안부’ 피해자 할머니들이 눈부신 증언 활동을 하시는 것을 비롯해 여성인권 활동가, 평화운동가로 거듭나시는 모습을 지켜보며 부끄럽게도 자주 함께하지 못했다. 그저 기부나 가끔 하면서 부끄러움을 피하고 위안을 삼는 정도였다. 그러던 내게 다시 계기가 찾아왔다. 2014년 '기지촌 위안부’ 피해자들을 대리하여 대한민국을 상대로 국가배상 소송을 하게 되면서 다시 '일본군 위안부’ 피해자 할머니들을 뵙게 되었다. '기지촌 위안부’ 피해자들이 '위안부'라는 용어를 쓰는 것에 대해 '일본군 위안부' 피해자들을 욕되게 하는 것이라며 손가락질할 때 지지하고 연대해준 분들이 바로 '일본군 위안부’ 피해자 할머니들이었다. 얼마나 큰 힘이 되었던가. 군 위안부 문제는 국가의 군사주의와 전쟁에 동원된 여성 인권 문제라는 것을 할머니들께서 가장 잘 이해하신 것이다. 김복동 할머니의 기부로 시작된 '나비평화상' 첫수상자(2016년)가 기지촌 위안부 피해자들의 인권 회복을 위해 애쓰던 두레방, 새움터, 햇살사회복지회였다. 기지촌 위안부 피해자들의 소송은 현재 1, 2심에서 일부 승소하여 대법원 판결을 기다리고 있다.


처음 기지촌 소송을 시작할 당시에는 과연 이 소송에서 국가의 책임을 물을 수 있을까. 확신하지 못했다. 그런데 '양공주', '양색시'로 살았던 과거가 부끄러워 소송을 제기하고서도 모자를 눌러쓰고 선글라스를 쓰고 자신을 감추고서야 법정에 오셨지만, 나중에는 국가에 책임을 묻겠다며 법정에서 공개적인 증언을 하고, 이용만 하고 버린 국가에 책임지라고 당당히 요구하셨다. 법원도 응답하여 일본이 직접 여성들을 강제로 끌고 가 성매매를 강요한 '일본군 위안부’ 피해자와 '기지촌 위안부’ 피해자는 다르다고 하면서도 '국가가 적극적으로 위법한 성매매를 정당화하고 조장했으며 인간적 존엄성을 군사동맹의 공고 및 국가안보 강화, 그리고 기지촌 내 성매매 활성화를 통한 외화벌이 수단으로 삼았다'면서 국가는 기지촌 위안부들의 정신적 피해에 대해 배상하라고 판결했다. 기지촌 위안부 문제에 연대했던 일본군 위안부 피해자 할머니들의 투쟁과 연대가 있었기에 가능한 일이었다.


기지촌 소송을 진행하던 2015년 12월 28일 한국과 일본 외교부 장관은 소위 일본군 위안부 문제의 '최종적 및 불가역적 해결'에 합의했다면서 일본에서 10억 엔을 거출하여 재단을 설립해 피해자들을 지원하고, 한국 내 일본대사관 앞에 설치된 소녀상을 철거하기로 했다는 합의(이하 '위 합의')를 발표했다. 피해자들은 일본국의 책임 있는 사과와 배상을 요구해왔던 피해자들의 의사를 무시한 위 합의에 분노했고, 청년들은 소녀상을 지키겠다며 그 추운 겨울 소녀상 주변에서 노숙하며 싸웠다. 나는 변호사들과 함께 김복동, 이용수, 길원옥, 곽예남, 강일출 할머니 등을 대리하여 위 합의가 헌법에 위반된 합의임을 주장하는 위헌 소송, 대한민국과 일본을 상대로 한 손해배상 소송에 참여하게 되었다. 문재인 대통령이 취임한 이후 사실상 위 합의는 무효가 되었고, 대한민국은 손해배상 소송에서 '국제 사회의 보편적 원칙에 위배되고 피해자 중심주의 원칙에 반하는 위 합의로 원고들이 정신적 고통을 겪었다는 것을 겸허히 인정하고 피해자들의 존엄과 명예를 회복하기 위해 대내외적 노력을 계속한다'는 법원 조정결정을 받아들여 4년간의 소송을 마무리 지었다.


오직 남아 있는 것은 일본국을 상대로 한 소송이다. 일본국을 상대로 우리보다 먼저 소송을 제기한 사건이 하나 더 있다. 그런데 정말 어처구니없게도 그 사건 진행 도중 소위 사법농단(양승태 대법원장의 하에서 법원행정처가 재판에 관여한 사건) 기간 중 법원 행정처가 해당 소송에 개입하여 소송을 무력화시키려고 계획한 것이 드러났다. 당시 법원행정처는 위 소송에 대해 대외비 문건을 만들었는데 '국가 면제이론으로 각하'하는 게 마땅하다거나 '각하가 안 되는 경우' 1968년 한·일청구권 협정으로 피해자 개개인이 손해배상을 낼 수 있는 권한이 없어졌고, 민사상 손해배상의 소멸시효도 지났다는 근거로 기각할 수 있다'며 '기각'과 '각하'에 대한 논리를 만들고, '한국의 대외적 신인도, 외교적 마찰 등을 고려하여 외교적 경로를 통한 소취하시도가 필요하다'는 내용이 기재된 것이었다. 피해자들의 권리를 구제하기 위해 앞장서도 모자랄 법원이 소송을 무력화할 수 있는 논리까지 만들어 사건에 관여하려고 했던 것인가. 대법원장이 원하는 바를 이루기 위해 박근혜 정권의 외교적 부담을 덜어주려고 그런 것이라는 둥 여러 이야기가 난무하지만 높은 분들의 나라 걱정은 사뭇 일반 백성들과는 딴 세상의 일임을 새삼 절감한 일이었다.


일본국은 1년 넘게 원고들이 보낸 소장을 송달받지 않아 오랫동안 재판을 진행하지 못했다. 결국 법원의 결정에 따라 공시송달(법원 게시판에 게시하는 방법)로 송달하고 재판을 진행하게 되었는데, 공시송달의 효력이 발생하자마자 일본국은 대한민국 외교부에 국가 면제(어느 국가의 영토 안에서 다른 국가 및 그 재산에 대하여 동등한 주권국가에 대해 사법관할권 및 집행권을 면제해주는 것)에 해당하는 사안이므로 부적절한 소송이라며 해결을 요구하기도 했다. 이처럼 일본국은 재판이 진행되고 있는 것을 알면서도 이를 회피하며 대한민국 정부를 압박한 것이다. 일본국 없이 진행하는 소송의 첫 변론기일, 이용수, 길원옥, 이옥선 '일본군 위안부’피해자 할머니들께서 재판에 출석하셨다. 다들 연세가 많으셔서 휠체어를 타고 힘들게 법정에 출석하셨는데, 90세가 넘은 이용수 할머니께서 갑자기 휠체어에서 일어나 판사 앞에 무릎을 꿇고 두 손 모아 제발 억울함을 풀어달라고 호소하셨다. 모두 깜짝 놀라 이용수 할머니를 부축했다. 대체 왜 아직도 피해자가 법정에 나와야 하고 왜 무릎을 꿇어야 한단 말인가. 일본국이 출석하지 않는 법정에서 피해자 할머니들과 그 대리인 변호사들은 여전히 외롭게, 그러나 치열하게 싸우고 있다. 일본군의 피해자들에 대한 강제 동원과 성 착취 책임을 묻고, 인도적 범죄에서는 국가 면제가 적용되지 않는다는 것을 국제인권법 법리, 국제 재판 사례 등을 주장하며 다투고 있다.


2015년 말에 시작한 소송이 4년 넘게 지속되면서 원고들 명단이 하나둘 지워지고 있다. 김복동 할머니를 비롯해 여러 분이 돌아가셨고, 또 돌아가시고 있다. 매 변론 기일마다 판사는 돌아가신 분들을 원고들 명단에서 정리해달라고 재촉하고 있는데, 대리인들은 상속인 확인이 어려운 문제가 있다며 정리를 계속 미루고 있다. 상속인 확인이 어려운 사정도 사실이지만, 이는 핑계일 뿐 실은 원고 명단에서 할머니들 이름을 하나둘 지우는 것이 가슴에 무거운 돌덩이를 하나씩 쌓아가는 것처럼 무겁기 때문이었다. 이름이라도 붙잡고 있고 싶기 때문이었다.


얼마 전 이용수 할머니께서 일본군 위안부 운동의 문제점을 지적하는 기자회견을 하신 이후로 정대협, 정의연에 대한 온갖 이야기가 나오고, 종내는 일본군 위안부 운동 자체를 폄하하고, 할머니들이 앵벌이 당했다는 식의 이야기까지 나오는 것을 보며 내가 모욕당한 거 같은 심한 모욕을 느꼈다. 정대협이나 정의연의 내부 사정을 나는 잘 모른다. 다만 인권운동가로, 활동가로, 증언자로 살아오신 할머니들이 순식간에 그저 돈벌이로 농락당한 불쌍한 할머니로 전락하고 있는 것은 참기 힘들다. 그분들이 그런 분들인가. 당당히 문제제기를 하고 기자회견을 하신 이용수 할머니를 보라. 그분들은 호락호락하신 분들이 아니다. 그 모진 세월 거듭거듭 살아내신 강인한 분들이다. 적어도 내 눈에 비친 그분들은 그런 모습이었다. 이용수 할머니의 내심까지 내가 어찌 다 알 수 있겠는가. 다만 나는 "위안부는 더러운 이름이다", "위안부가 세계 여성에게 해를 끼친다면 미안하다", "위안부 누명을 벗고 싶다"며 이용수 할머니의 입에서 통제되지 못하고 저 깊은 단전 어딘가에 가시처럼 박혀 있다가 튀어나온 말들. 그 말들에서 스스로를 인권운동가로 소개하고 피해자보다 인권운동가로 불러달라고 하시지만, 여전히 저 고통에서 헤어 나오지 못하고 계시다는 것을 뼈아프게 느낀다. 할머니의 이런 말들은 진정 누구를 겨누고 있는가. 그동안의 위안부 운동인가, 사과도 배상도 하지 않는 일본국인가. 지금까지도 이 문제를 해결하지 못한 무능한 대한민국 위정자들인가.


할머니들을 보며, 제우스에게서 불을 훔쳐 인간에게 가져다준 죄로, 바위에 쇠사슬로 묶여 독수리에게 매일 간을 쪼여 먹히는 프로메테우스를 떠올린다. 할머니들은 전시 여성 성폭력의 잔악상을 증언하고, 세계의 전시 성폭력 피해자와 연대하여 전쟁과 군사주의에 대한 경고를 하고 평화를 가르쳤다. 그것은 불이다. 그 대가로 정작 자신들의 피해에 대해서는 사과도 배상도 받지 못한 채 영원한 고통을 받고 있는지도 모른다. 어쩌면 우리는 할머니들에게 고통을 가하고 있는 제우스인지도 모른다. 나는 이제라도 할머니들 구하는 헤라클레스가 되고 싶다. 할머니들 스스로 외에 누가 할머니들을 구할 수 있겠는가. 그러나 그래도 이제라도 내가, 우리가 할머니들의 헤라클레스가 되어야 하지 않을까.