京郷新聞 2020.6.29 web掲載h


シリーズ:「慰安婦」運動の書き直し[‘위안부’ 운동 다시 쓰기] ⑥ 専門家寄稿

  日本の「慰安婦」問題解決運動からみた挺対協・正義連運動
         
                         金 富子(東京外国語大学教授)
               
                    





日本の「慰安婦」問題解決運動を担う市民たちは、胸が痛む日々を送っている。

「慰安婦」被害生存者の李容洙氏の記者会見が韓国の保守系メディアに悪用されて、正義連(日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯、旧・挺対協)を含む「慰安婦」問題解決運動・証言・研究の30年間の成果を全面否定するかのような事態に突き進んでいるからだ。『反日種族主義』が韓国以上にベストセラー(40万部)になった日本では、テレビでも今回の事態を第2の玉ねぎ(曺国)事件として大きく報道した。そのニュースソースは韓国の保守言論日本語版であり、国境を超えた「保守連帯」が進んでいる。この事態を最も喜んでいるのが、日本の加害責任を解除したい日本の歴史修正主義者たちなのだ。

挺対協30年と日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷(2000年法廷)20年を再検証するのに論ずべきことは多いが、紙幅の関係上、日本の「慰安婦」運動・2000年法廷と挺対協、挺対協運動と民族主義やフェミニズムの関係を振り返ってみたい。

日本の「慰安婦」運動・2000年法廷と挺対協

まず、加害国日本に「慰安婦」問題解決のための最初の問題提起をしたのは、挺対協だった。1970年代から日本では「慰安婦」問題が知られていたが、解決すべきという世論も運動も生まれなかった。ところが1990年6月、日本政府の「慰安婦は民間業者が連れ歩いた」という答弁をきっかけに、この発言に抗議するため韓国人女性たち(のちの挺対協)が来日した。この過程で講演会が何度か開かれ、同年12月に初めて日本人女性の「慰安婦」運動が生まれた。91年12月に金学順さんが来日・証言した衝撃は日本の運動や研究を方向づけ、翌92年1月の吉見義明教授による軍関与公文書資料の発見から、日本軍の関与と強制性を認めた「河野談話」の公表(93年8月)へとつながった。挺対協と被害者の登場は、日本で運動や研究がはじまる決定的な触媒となった。

2000年法廷につながる第二の問題提起をしたのも、挺対協と被害者だった。
1994年2月、韓国の被害者及び挺対協が日本の検察に対し「慰安婦」制度の責任者の処罰を求めて告訴・告発をおこなった。しかし当時の日本の運動は、運動を分裂させ弱体化させると懐疑的であった。戦後の日本が昭和天皇を含む過去の侵略戦争や植民地支配の責任を追及してこなかったことが関係する。

しかし、この問題提起に応えたのが2000年法廷だった。
VAWW-NET ジャパン(1998年6月結成)代表の松井やよりが加害国女性の責任として、単なる国際公聴会ではなく責任者処罰=裁きの場として「被害者をはじめ女性を主役とする国際戦犯法廷」を提案した。2000年法廷は東京裁判で不問にされた「天皇の免責、植民地の欠落、性暴力の不処罰」を女性・市民の力で裁き直したものであり、ジェンダー正義の視点で植民地主義の克服をめざした。挺対協は真っ先にこの提案に賛同し、被害国8カ国の代表として法廷を成功に導く強力な推進役になった。
2000年法廷以降も現在まで、日本の「慰安婦」運動は、挺対協と協力しながら進んだが、挺対協の運動方針に無批判だったわけではなく、以上のような独自性があった。

 挺対協運動は民族主義だけなのか  

京郷新聞「慰安婦運動の書き直し」シリーズで強調されていたところをみるに、韓国では挺対協を「民族主義のフレーム」でみているようだ。しかし、李容洙氏は挺対協の民族主義を批判していない。にもかかわらず、なぜいまこれが焦点化されるだろうか。一方、日本で挺対協は「反日ナショナリズム」とレッテル貼りされている。1990年代に「女性に対するアジア女性基金」(以下、国民基金)理事の大沼保昭氏、フェミニストの上野千鶴子氏などがそのように名指しし、今回の事態でも日本メディアは尹美香氏を「反日の急先鋒」とさえ呼ぶ。

これらについて、以下3点から考えたい。
第一に、挺対協運動の目標が日本政府の謝罪・補償の実現にある以上、「ナショナルな枠組み」にならざるをえないことだ。そもそも日本軍「慰安婦」制度は、帝国日本によるアジア諸国への支配/被支配、侵略/被侵略という植民地主義に基づく「ナショナルな枠組み」を前提とした戦争犯罪だった。「慰安婦」運動も日本政府に法的責任を問うという性格をもつため、「ナショナルな枠組み」が前提になるのは当然だ。挺対協が国民基金や日韓「合意」(2015年)に反対したのは、「反日」だからではなく、これらが被害者への謝罪・補償(法的責任)ではないからだ。挺対協運動を単純に「反日ナショナリズム」と決めつけるのは行き過ぎだ。
また、そもそも民族主義を一般化して批判することは、被支配民族が帝国の支配に抵抗することさえも民族主義であるという理由で排撃することになり、結局は被支配民族の抵抗する力を奪うことにつながる。民族の被害回復をめざす運動は、民族主義と無関係ではいられないのだ。

フェミニズム連帯と自己変革

第2に、運動の方法論において挺対協は、「慰安婦」問題や戦時性暴力をなくすための国境を越えた「フェミニズム的な連帯」を追求した。挺対協は、国際社会に積極的に「慰安婦」運動アピールし、世界的な女性人権平和運動に高め、世界史に貢献した。米国や欧州議会などで対日「慰安婦」決議がでた(2007年)のもその一例だ。
さらに、挺対協は2012年に「慰安婦」被害者の意思を受け止めてナビ基金を設立し、コンゴの戦時性暴力克服のための協力事業に取り組んだ。挺対協は、運動の方法論だけでなく目標でも、世界の戦時性暴力再発防止をめざす運動に成長した。

第3に、挺対協運動は30年間たえず自己変革をとげてきた。日本の論者に多いが、1990年代の運動だけで挺対協を判断するのは一面的だ。例えば、「法廷」に至る過程で、「慰安婦」制度の歴史的背景として公娼制を指摘した日本側に対し、韓国側からクレームがついた。これは「慰安婦」と公娼を区別したいという当時の挺対協の家父長的女性観と無関係ではないと思う(なお学問的論争は現在も継続中)。
ところが、2000年代に入ると、挺対協は米軍基地村女性、性売買女性運動と連携するなど韓国社会の性売買・性搾取を問うフェミニズム運動として自己成長していった。基地村出身女性が水曜デモで堂々とアピールできる空間をつくったのだ。これは日本のはるかに先を行く運動だ。そのような流れは、基地村女性研究で知られ韓国を代表するフェミニストの一人である李娜榮氏が今年4月に正義連理事長に就いたことに象徴的に現れている。

角を矯めて牛を殺すな  

どんな運動もそうであるように、挺対協運動にも矛盾や葛藤、軋轢、失敗はある。挺対協運動は被害当事者を中心におく運動だが、多様な状況にある被害当事者の要求をすべて代弁することは不可能だ。したがって、韓国社会やメディアが、挺対協・正義連30年間の運動史を「民族主義」の一言だけで、あるいは李容洙氏の今回の記者会見だけで、運動上の会計ミスを針小棒大に拡大して、運動・証言・研究の全面否定に走るのは危険だ。運動の変遷や一部しか見ない批判は、韓国から起こり世界史を変えた運動に対し「角を矯めて牛を殺す」ことになりかねない。
正義連は、韓国社会の誰よりも被害者に向き合ってきたからこそ李容洙氏によって運動が厳しく批判されたという真意を受け止め、李氏との関係を含め30年間の運動と方法論を自省的に振り返り、韓国社会とともに更なる自己変革することを心から願っている。そして、李氏が記者会見で述べた「(日本政府に)謝罪・賠償は百年でも千年たっても謝罪、賠償を受けるべき」という望みもともに実現してほしい。

多様な被害者の声を聞くこと

「慰安婦」生存者がいなくなろうとするこの時代に、韓国社会がこの問題の解決を望むなら、さまざまな被害者の声に耳を傾けるべきだと考える。
そのために、100人もの証言を含む『証言集』8冊のうち1冊でも読んでほしい。これら証言集は、挺対協運動を通じて、証言に誠実に向かい合った研究が生み出した世界史的な財産だ。さらには、未来世代のために、放送局が研究者・運動団体と協力して、被害者の声が直接聞こえる証言記録アーカイブス(映像つき)をインターネット上につくるのはどうだろうか。そうすれば、彼女たちが「主体性と尊厳性をもつ被害生存者」(梁鉉娥)だと実感できるだろう。

筆者は現在、こうした韓国の被害者の声を日本の読者に届けるために『証言4集』日本語版翻訳に関わり、さらに韓・日で「慰安婦」被害をどう聴いてきたのかを編集した『性暴力被害を聴く』を今秋に日本で出版する予定だ。