2021.5.15オンラインセミナー 「バンカ島虐殺事件」



ジョージーナ バンクスさん



私の名前はジョージーナ・バンクスです。


私の大叔母のドロシー・エルムスは豪州陸軍看護隊の看護師でした。家族から彼女はバッドという愛称で呼ばれていましたので、友達もみな彼女をバッディと呼んでいました。彼女は私の祖母のたった一人の姉でした。



バッドは最初マラヤに派遣され、それからシンガポールの第2・10豪州総合病院に勤務しました。

シンガポールが日本軍に攻略される直前の1942年2月12日、65名の豪州陸軍看護師がヴァイナー・ブルック号という船で撤退させられました。この船がバンカ海峡で爆撃され沈没し、バッドは同僚たちとバンカ島にたどり着き、2つの灯台の間にあるラジー海岸に上陸しました。豪州の看護師たちは同じ海岸にたどり着いた負傷者や瀕死の人たちを看護しましたが、食糧や医薬品はほとんどありませんでした。

当日と翌日にかけて、ヴァイナー・ブルック号や同じようにシンガポールを出港して途中で爆撃され沈没させられた他の船の乗船者のうち、80〜100名がバンカ島の海岸にたどり着きました。


2日後の1942年2月16日、みな空腹状態でしかも負傷者が大勢いたので、ヴァイナー・ブルック号の1等航海士であるセジマンという人にムントクの街まで行ってもらうことを決めました。日本軍はムントクをすでに占領していることを彼女たちは知っていましたので、日本軍に投降してジュネーブ協定に基づいて自分たちを保護してもらえるはずだと思ったからです。



セジマンは折田優大尉の指揮下に15名の日本兵と海岸に戻ってきました。この兵隊たちは日本陸軍38師団229歩兵連隊(田中部隊)に所属する兵隊たちでした。

折田は海岸にいた人たちを3つのグループ 、 男たちを2つのグループに、女たちを1つのグループに分けました。

男たちは海岸の別の場所に移動させられ、刺殺や銃殺されました。22名の看護師と1名の市民の女たちのグループは、海に向かって歩かされ、背後から銃撃されました。

私の大叔母はその27歳でした。

たった一人、ヴィヴィアン・ブルビンケルだけが生きのびましたが。

男のうち3人が生きのびました。



バッドと彼女がどうなったのかについては私の家族の間では決して話題になったことはありませんでした。私の祖母ジーンもバッドの名前さえ口にしませんでした。その祖母が晩年に入院したときに、叔母のサリーが、自分の母親(つまり私の祖母)が戸棚の中に隠していたバッドがマラヤやシンガポールから出した手紙と、バッドが「行方不明になっており死亡したものと思われる」という知らせの電報があるのを発見しました。

叔母のサリーもそれらを読んだのは初めてで、そのときバッドのことをようやく分かった気がしたのですが、同時にバッドを本当に「なくした」という気持ちにもなりました。



私が大叔母のことに関心を持ち始めたのは、思いがけなく2017年にラジー海岸で行われた75周年追悼記念儀式に招かれた時からでした。


バンカ島から戻って間もなくのことでしたが、テス・ローレンスという記者が「インデペンデント・オーストラリア」という新聞(2021年4月からオンライン新聞)に「ヴィヴィアン・ブルビンケル:バンカ島虐殺事件と生存者としての罪意識」と題した記事を発表しました。この記事の中でローレンスは、「“私たち” 、 つまり彼女自身と銃殺された女性たち  が日本軍兵によってその前に“犯された”という事実が間違って長く秘密にされてきた」と彼女が書いているのを読みました。


これを読んだとき、大叔母たちが海に向かって歩かされて背後から銃撃されたという私が信じてきた話、それ自体が酷い話ですが、それが神話だったのだと知らされ、私はひどくとり乱してしまいました。この恐ろしい野蛮な行為の話に私はうちのめされてしまいました。


私のこの心の傷は、1946年にヴィヴィアンが東京裁判で証言したときに、豪州政府の命令があったため、彼女と彼女の同僚たちが深い痛みを受けたことについて沈黙しなければならなかったというテス・ローレンスの記述のために、さらに深くなりました。


東京裁判で証言するブルヴィンケルさん


それ以来、私はその歴史的事実を証明するためにこの問題を直視するようになり、田中さんが説明したような研究にも関わるようになりました。

重要な状況証拠があるにもかかわらず、豪州戦争博物館などは「実際に何が起きたのかその明確な事実を確認できる記録が存在しない」と最近も主張しています。



私はいま、情報公開法に基づいて、ヴィヴィアン・ブルビンケルの診療記録が見れるようにという請願書を提出しようと計画しています。この診療記録が決定的な証拠になるだろうと私たちは考えているからです。

リネッテ・シルバーが強かんに関する多くの関係証拠を集めましたが、一人の女性が彼女にE メールを送ってきて、「1960年代に、ヴィヴィアンがフェアフィールド病院の看護婦長だったときに、フィリパという女性がメルボルンの帰還兵・看護師協会事務局の事務員だったそうです。

フィリパの上司のビル・サウスが、ある日彼女に<ブルビンケルの診療記録ファイルは、副局長補佐のコンデ氏の金庫にただちに戻さなければならない>と言ったそうです。(しかしどんな書類も通常は見ることができますので)「いったい、どうしてですか?」と尋ねたそうです。そのとき「分かっているだろうが、ヴィヴィアン・ブルビンケルがバンカ島で日本兵に強かんされたことは、極秘事項だからね」と言われたそうです。


日本の人たちに望むこと


日本の人たちに望むこと私たちは、この事件が実際に起きたということを日本政府に正式に認めてほしいのです。


日本では関係書類の多くが破棄されたことを知っていますが、もしも関係書類が残っているならば、それを見せていただきたい。

さらに、日本が第2次世界大戦に関する教育を改革し、広島・長崎原爆投下で日本の人たちが惨たらしい犠牲者になったという明らかな事実だけではなく、日本軍が犯した戦争犯罪の様々な具体的例も学校で教えることを、私たちは望んでいます。


私たちは世界中の「慰安婦(軍性奴隷)」の人たち、その遺族の人たちの声に、私たちも一緒に声をあげて参加したいです。どこで起きる戦争であれ、戦争が汚い秘密をもたらすということを広く知ってもらうために、主としてアジアの女性たち、戦争における性犯罪の被害者の人たちの声に加わりたいのです。


日本の人たちに共感を求め、私たちに何が起きたかについても耳を傾けて欲しいのです。

もちろん、その話は不快で心乱すものではありますが、それが事実なのですから。

このことを、憎悪と非難の気持ちからではなく、真実を求め和解をしたいという真の心からお願いするものです。私は相手を許し、歴史を正しく記憶しなければならないと思います。

何が実際に起きたのか、なぜそのような野蛮なことが犯されたのかという理由、この場合は第2次大戦での日本軍が犯した残虐行為を、正確に分析することが必要だと思います。

長い歴史においては、様々な国がいろいろな時期に残虐行為や戦争犯罪を犯してきました。オーストラリアは先住民の人たちを大量殺戮した暗い過去を認める必要があります。

私たちは全員が一緒に、そのような残虐行為を発生させた自分たちの政治制度、イデオロギー、社会的条件、支配的な心情信念を自己検討する必要があります。



私たちの活動内容


私たちの活動内容「バンカ島の友」という名称で知られている私たちの非公式のグループは、主としてバンカ島の抑留所に入れられた豪軍看護師とその他の抑留者の遺族で構成されています。


私たちの主要な活動の一つは、毎年バンカ島で追悼記念式典を行い(今年はコロナ感染症のためにZOOM での開催)、海岸で看護師たちが死に向かって最後に歩いたことを再現する「人道の歩み」という儀式を、世界各国の間の平和の象徴として行っています。これは、ラジー海岸の残虐行為は決してそれで終わりでないという意味を込めて、積極的反抗の表明として行っています。


私たちの最終目的は以下のようなものです.


1)バンカ島ならびにその近辺で1942年から1945年に起きたことの歴史に関心を持つ多くの市民と政府関連グループの間の仲介、調整。


2)1942年から1945年に亡くなった豪州陸軍看護師、市民、軍人、その他の人々の悲劇を追悼し、さらにその歴史的事実について研究すること。


3)オーストラリアとバンカ島、インドネシアの人々の間の交流と親善を深めること。


4)以上3つの上に、バンカ島の教育と医療サービスを向上させるために、地元の学校と医療施設に支援を行うこと。


5)全ての国々の人々の間に平和と調和を育む活動を行うこと。



ジューディーさんは私より昔から、この活動に最初から参加していますので、他の活動についてもお話されると思います。


私の曽祖母は望みを捨てたことはなく、長年、娘の死について詳しく説明されたにもかかわらず、いつの日かバッドが、ビクトリア州のチェスハントにある自分たちの農家に姿を見せるという希望を持ち続けました。