みなさん、こんばんは。 


まず、東ティモールという国はどこにあるか、ご存じですか? インドネシアのすぐ南で、オーストラリアの間にある横長のティモール島の東側半分の国です。岩手県とほぼ同じ面積です。

 

東ティモールはポルトガルの植民地でしたが、太平洋戦争が始まって間もなく1942年から敗戦までの3年半、日本軍が全島を占領しました。


占領まもなく、日本軍は制空権も制海権も失い、日本から物資の補給が途絶えたので、食料の調達をはじめ、東ティモールの人々に多大な犠牲を強いました。日本が負けた後は、オランダの植民地だったインドネシアに占領され、東ティモールとして独立したのは2002年で、まだ24歳の若い国です。

 


私が今日、東ティモールの紹介を希望した理由は2つあります。

今までの長い活動の中で、被害者の忘れられない言葉がいくつかありますが、その一つが 2000年に日本で「慰安婦」制度、つまり性奴隷制度の責任者を戦争犯罪人として裁く女性国際戦犯法廷が開かれた時のことで、64人の被害者が参加し証言したのですが、東ティモールからもお二人参加され、その一人マルタさんの言葉が、私にとって忘れられない言葉となったからです。


彼女は、開口一番、「私は日本に観光に来たのではありません!」ときっぱり宣言し、一瞬、会場は静まり返りました。すぐ、大きな拍手が起こったと思います。

さらに、「日本軍の兵士も母親から生まれたのに、なぜ 同じ女性に、こんな扱いができるのか」という言葉でした。




(イネスさん  写真:古沢希代子)


(マルタさん 写真:古沢希代子)



さて、もう一つの理由は、ちょうど10年前に、日本で、「日韓合意は解決ではない!アジアの被害者は訴える」という集会を開催し、私は東ティモールのイネスさんの付き添い担当になったからです。


当時85、6歳の彼女のある一日は、午前は外務省交渉で証言し、午後は大学のゼミの学生に証言し交流して、「学生たちが私の話を受け止めてくれて嬉しかった」と喜び、その夜は記者のインタビューを受ける、という強行スケジュールも、ものとはせず、食事も参鶏湯を好み、私たちと一緒に生ビールで、歌い、と、このお年で、エネルギッシュで、心がオープンな、好奇心旺盛な彼女に魅せられたからです。

当時、10人だった生存者が、現在、イネスさん1人となりました。95,6歳、今もお元気だそうです。


さて、肝心な彼女の証言ですが、彼女はまだ、生理もないときに、村長に連れ出されました。彼が慰安所の警備をしていたそうです。日本軍は村長に命令して、女性を集めたようです。



インタビューから紹介します。


「イネスさん、体験を話してください」 

「ずうっと昔、日本軍が来て、日中私たちは外で働かされ、夜は部屋に閉じこめられて、彼らは私たちをレイプしたんだ。動物のように。一晩に4~8人の相手をさせられた。」 


「日本軍は(あなたたち)にお金などをくれましたか。」

「全然!」 


「食べ物は?」 

「何もくれなかった」


「じゃ、どうしたんですか」 

「家から運んだんだ。 服も何もくれなかった。」



 また、別の証言ですが、「慰安所で、妊娠、出産したが、日本軍はその子を連れ去った。どうなったのか知りたい。」、「私は体験を語ることを恥だと思いません。すべてを知ってほしい。そして、日本政府には、きちんと謝罪してほしいです」と、しっかり、自分の考えを日本政府に要求されました。   

      

多くの東ティモールの被害者に共通するのは、女性たちは、昼は肉体労働、それもただ働き、夜は兵士の性の相手を強制され、酷使されたのです。


先のマルタさんは言います。

「動物のように扱われた。でも、動物だって夜はやすむだろう、私たちはそれすら許されなかった」、「多くの女性が慰安婦にされて、同室に数人いたが、後で、家に戻った後、一ヶ月もしないうちにみんな、病気で亡くなった。」 

 


みなさん、日本政府は、このように、まるで動物以下のような、人間の尊厳を踏みにじった扱いをして、東ティモールの被害者に一言の謝罪も、当然の賠償も一切していないのです。


彼女たちは人権をもった人間です!被害回復の請求権を持った被害者です。その当然の被害者の要求を、これまで平然と無視して、再び軍事大国・大日本帝国に向かおうとする、日本政府です。


 国旗損壊罪とか、皇室典範とか、辺野古基地強行を急ぐ前に、第一番にやることは、何でしょうか。

過去の戦争加害の責任を果たすことではないでしょうか。 


みなさん、ご一緒に、「慰安婦」問題の解決を要求しましょう。 


有難うございました!