〈報告〉戦時性暴力問題連絡協議会 第100回水曜行動 in 新宿 朝鮮人民民主主義共和国 朴永心(パク・ヨンシム)さん(金栄 代読:藤田千咲子)
1944年9月、ビルマとの国境に近い中国領の拉孟で保護された4人の朝鮮人「慰安婦」の写真。中でも裸足で臨月と思われる大きなおなかを苦しそうに抱えた女性の写真が目を引く。日本軍性奴隷制度を裁く2000年女性国際戦犯法廷の調査チームによって、この妊娠した女性がDPRKの南浦在住の朴永心さんであることが判明した。
朴永心さんは1921年12月15日平安南道南浦の極貧の小作農の家に生まれた。物心つく前に母が他界し、ほどなく父が再婚して異母妹2人が生まれ、14歳になると洋服店の奉公に出された。
18歳になる年の1939年8月、「お金が稼げる仕事がある」という日本人巡査の言葉を信じて平壌へ行くと同じ年頃の女性たち十数人とともに、有蓋貨車に乗せられて南京へ連れていかれた。南京大虐殺から8か月ほどしか経っていない南京にも、早々に「慰安所」が設置されていたのである。永心さんは、そのうちの一つの「キンスイ楼」という「慰安所」に入れられ、性奴隷生活が始まった。そして「歌丸」という源氏名がつけられ、長いおさげ髪も切られておかっぱ頭にされ、和服を着せられ、朝鮮語の使用も禁止されるという民族差別も受けることになった。
ある日、永心さんは不安と恐怖から日本軍兵士に必死で抵抗すると、その日本兵は刀を抜いて切りつけた。幸いにも刀は首をかすめただけで、命を落とすほどの深手には至らなかったが、その時の首の刀傷は生涯消えることなく残った。
永心さんが入れられた部屋は19号室。その向かい側の部屋の屋根裏には、「拷問部屋」と呼ばれた監禁部屋があった。刀傷を負った朴永心さんだったが、その後も何度も抵抗し、その都度「拷問部屋」に閉じ込められて暴行を受けた。
1942年初夏、永心さんは数人の女性たちと共にシンガポールとラングーンを経由してビルマ(現ミャンマー)と国境を接した中国・拉孟の「慰安所」に移させられる。拉孟は蒋介石率いる中国軍と対峙した最前線で、本来民間人を連れて行ってはならない。そこに日本軍兵士たちは自ら「慰安所」を建てて女性たちを入れたのである。
1944年5月、中国軍は猛反撃を加えて拉孟陣地を包囲しはじめる。その間「慰安婦」たちは豪から煙が漏れ出ないように入口に毛布を掛けて食事を作り、砲弾が飛び交うなか食事を兵士たちに運搬したり、負傷兵の世話をさせられた。すでに臨月に近い大きなおなかの永心さんも、サバ缶などで味付けをした握り飯を作って運んだと語っている。
9月初めに日本軍は全滅する。そのとき永心さんら数人の「慰安婦」たちは塹壕を飛び出して逃げ、中国軍に保護されたが、永心さんは出血していたため中国人医師に治療をうけるが子供は死産したのだった。
捕虜収容所生活を送ったのちの1946年に帰国することができた永心さんは、その後、故郷の共同農場ではたらき、朝鮮戦争休戦の年の1953年、31歳で5歳年上の男性と結婚する。子どもをさずかることができず、戦争孤児を養子に迎えるが、夫は結婚3年目に脳腫瘍で亡くなってしまう。その後は編み物工場で働きながら、養子を育てたが、心臓弁膜症、慢性頭痛に悩まされ続け、子宮摘出手術も行った。
元「慰安婦」だと名乗り出たことを後悔したことが何度もあった、と叫んでいた永心さん。2006年8月7日、養子夫婦と孫たちに見守られて、静かに息を引き取ったという。享年85歳。
永心さんを知る元日本兵が「歌のうまい勝ち気な女性」だったと懐かし気に語ったのに対して、2003年平壌でお会いした永心さんは、当時を「思い出したら、今でもこの窓から飛び降りて死にたい!」と叫んだ。
加害者と被害者のこの認識の隔たり、加害を加害としてとらえることすらできていないこの状況に、日本軍性奴隷制度問題がいまだに解決しない原因の一端を見る思いである。
★金栄さんの原稿を藤田さんが代読してくれました