〈報告〉戦時性暴力問題連絡協議会 第100回水曜行動 in 新宿 韓国 金学順(キム・ハクスン)さん(梁澄子)
本日、12名の日本軍「慰安婦」サバイバーについてお話するトップに韓国の金学順さんを位置付けたのはなぜか。もうお気付きの方も多いかと思いますが、1991年8月14日、金学順さんが記者会見を開いて、生き証人がここにいると訴えたことから、日本軍「慰安婦」問題解決運動が大きく前進することになったからです。
金学順さん(写真:柴﨑温子)
ではなぜ金学順さんは、戦後半世紀にもなろうとする1990年代に入ってやっと、名乗り出たのでしょうか。
それは、日本軍の「慰安婦」にされた女性たちの声に耳を傾けようとする人々が、この時期になってやっと現れたからでした。
1990年11月に結成された韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)は、日本政府に対して日本軍「慰安婦」問題の真相究明と謝罪など6項目の要求が盛り込まれた公開書簡を送り、それに対する文書回答を求めていました。
しかし文書回答はなく、口頭でなら回答するという連絡を受けて駐韓日本大使館に行ったところ、「証拠がないから認められない」と突き返されたのです。これに腹を立てた挺対協の活動家が、在韓被爆者の方たちが集まっている場で、「皆さんと同年代で『慰安婦』にされた被害者がいるのではないか」と声をかけたところ、「私の知人にいますよ」とあっさり答える人がいたんです。その方が挺対協に金学順さんを紹介しました。
つまり、金学順さんは誰にも言わずに黙々と耐えていたのではなく、自らの境遇を理解してくれそうな被爆者の方には話していたということなんです。しかし、その声は社会には届かなかった。1987年に民主化を勝ち取った韓国で、女性に対する暴力に抗議する声が上がり始め、日本軍「慰安婦」問題に対しても真相を究明しようとする動きが出てきたときに初めて、金学順さんの声は、声として届き、社会に伝わることになったのです。
金学順さんは1924年に生まれて、数え年17歳のころ、つまり1940年ころに、中国で養父と一緒にいるところを無理やり日本人に連れ去られ、日本軍の慰安所に入れられました。しかし、金学順さんは4カ月ほどで慰安所を脱出することに成功します。そして、その脱出を助けてくれた朝鮮人男性と生活を共にしますが、その男性も朝鮮戦争で亡くなり、たった一人の息子もその後、海の事故で失くしてしまいます。
それから、金学順さんはひとり孤独に、貧しく生きながら、何故自分一人生き残ってこんなふうに暮らしているのかとやりきれない思いを抱えていたそうです。ですから挺対協と出会ったとき、金学順さんの方から、世の中に訴えたい、この問題に対して闘うために神様が自分を生かしてくれたのだと思う、とおっしゃったそうです。
金学順さんは、名乗り出から6年後の1997年12月16日、「日本政府の謝罪を受けるまでは、まだ死ねない、私は百年でも二百年でも生きて、必ず謝罪を勝ち取らなければ死ぬわけにはいかない」と言いながら亡くなりました。
この後、引き続き、金学順さんの名乗り出に触発された各地のサバイバーたちのお話を聞いていただきたいと思います。