〈報告〉戦時性暴力問題連絡協議会 第100回水曜行動 in 新宿 インドネシア チンダさん(飯山由貴)
こんにちは、美術家でスアラネネ: インドネシア・南スラウェシ日本軍性暴力サヴァイバーのおばあさんを訪問するグループの飯山由貴と申します。
私は希望のたね基金が主催している、各地域の「被害者の証言を読むプロジェクト」に2024年の冬から参加しています。そちらのインドネシアに焦点を当てた会でチンダさんの証言を読みました。
また、その時期にちょうど縁あって、長年サバイバーの聞き取りと支援に携わられている鈴木隆史さん、「慰安婦」問題を記憶・継承する会・京都の蒔田直子さん、訪問後に南スラウェシのサバイバーを訪問する若い世代を支援する「ネネの会」を立ち上げた木村理恵さんたちと共に訪問し、パレパレにいらっしゃるチンダさんにお会いすることができました。
チンダさんはご自身が被害を受けた地域に、いまも暮らし続けています。13歳の時、木綿の布をつくるため、綿の実から糸を手紡ぎをする工場にお母さんが働いており、一緒に通ってお母さんの手伝いをしていました。その工場の向かいには日本軍の兵舎があり、たくさんの日本兵がいたそうです。
工場の敷地内には「ルマ・パンジャン」と呼ばれる建物がありました。インドネシア語で長い家という意味です。これは日本軍の「慰安所」を指します。
ある日、チンダさんのお母さんが病気になり、家に一緒にいるとき、チンダさんだけが工場に呼び戻されました。お母さんは泣いて拒否しましたが、無理やり連れていかれ、そこで入れられたのは工場ではなく、「ルマ・パンジャン」、慰安所でした。
そこには大きな部屋がひとつと小さな部屋が二つあり、大きな部屋にはチンダさんと同じくらいの年齢の子たちが座らされていました。インドネシア人の兵補に呼び出され、小さな部屋に入りました。
すると部屋に「オケダ」という名前の軍刀と銃を持った日本兵がやってきて、服を脱がないと首を切ると身振り手振りで脅され、オケダにレイプされました。その後も3人の兵士が続けてやってきて、チンダさんをレイプしました。とても、こわかった、恐ろしかったと話されています。そしてその日以降、昼も夜も、日本兵が来ました。
日本が敗戦し日本軍が撤退するまでの半年間、チンダさんは慰安所に監禁された状態でした。解放されて家に戻った時には父親と母親はすでに亡くなっており、近所の人からは「売春婦」と蔑まれ、その家に住み続けることはできませんでした。
他の人の家に住み込みながら手伝いをする生活を長年送ったあとは、市場で手作りのお菓子や氷を売って生計を立てていました。
チンダさんは「私の性器は破れてしまった」「医者がいたら破れたところを縫ってもらえたのに」「今でも私の性器は破れたまま」と、自分の性器のことを何度も話しています。「性器が破れている理由を話したくないから」と、チンダさんは結婚を申し出る人がいても断り、ずっと一人で生きてきました。
これ以上、自分の尊厳を傷つけられたくない、二度と屈辱と悲しみを味わいたくないという思いからこその、とても強く、とても悲しい選択ではないでしょうか。
いま、チンダさんは94歳です。インドネシア・南スラウェシのパレパレで、私たちと同じ時間を、同じ時代を生きていらっしゃいます。去年あたりから体調がとても悪くなり、入退院を繰り返し、慢性的な痛みに耐える毎日を送られています。看護に加えて食事や排泄などの介護も必要な容態です。
一人で強く生きてこられたことの反動なのか、いまは、チンダさんのお世話と看病をしているアニさんという娘同然の方が困るような振る舞いをされることもあるそうです。
時折意識が混乱し「お母さん、お母さん」「帰りたい」と子どものように泣き叫ぶ様子のビデオが鈴木さんを通して私の手元に届きます。ずっと秘めていたチンダさんの気持ちが、思いが、いま、この時になって表れているのかもしれません。
まだ、終わっていません。まだ、私たちがこの問題に出会い、おばあさんたちの声に出会い、それぞれができることを考え、行動すること、過去から続くその列に加わること、それが遅いということは、決してありません。
ありがとうございました。
