私はフィリピンで日本軍の性暴力被害者となったエステリータ・デイさんのことをお話しします。



フィリピンは第2次世界大戦当時、人口は1600万人でしたがなんと110万人以上の人が犠牲となった国なのです。



フィリピンは7000もの島々からなりますが島々の各所に「慰安所」「強姦所」を真っ先に作りました。エステリータさんが生まれた島はネグロス島でルソン島から南部に下がった大きな島です。ちょうど、香川県位の大きさです。サトウキビの産地で有名なところです。




エステリータ・デイさん(2024年11月93歳で死去)



1943年エステりータさんが12歳のとき日本軍がネグロス島に上陸してきました。

バコロドに飛行場を建設して、エステリータさんはお母さんと一緒にそこに働きに行っていました。その頃は1回働くと500gのコメがもらえたそうです。でも、翌年の1944年には「アメリカ軍がやってくる」ということで、そこでは働けなくなり、この頃から、日本軍は住民たちをゲリラの疑いをかけて、首を切ったり銃で撃ち殺したり、女性たちを製糖工場に拉致したりして、恐ろしい暴力的な振舞いをするようになりました。



1944年の秋ごろ、エステリータさんはお母さんと市場に鶏と卵を売りに行ったとき、トラックに乗っていた日本兵がバラバラと降りてきて女性たちを捕まえはじめました。エステリータさんは逃げ遅れて、捕まってしまいトラックに載せられてしまいました。そこには他の女性たちも乗っていました。



駐屯地の中の一軒の家の中に押し込められ、3週間もの間、昼は掃除、洗濯、夜は強姦の毎日でした。

ある日、米軍がやってくる、という噂が立って、日本兵たちは山岳地帯に逃げていきました。そこで、やっとエステリータさんは家に帰ることが出来て家族と再会出来ました。でも、戻ってきても戦時中の体験は誰にも打ち明けられず、5年後の1949年には誰も自分のことを知らないマニラに行こうと決断。


その後洗濯婦やいろいろなことをやって、1993年に名乗り出るまでの44年間生き延びてきたのです。


その力が今度は活動へと発揮されてリラピリピーナの中心的な存在となりました。日本にも何度も来て、普段は朴訥ではにかみ屋ですが、集会やラリーのときは、サバイバーとして、毅然と発言してきました。「起きたことを伝え、あとに続く女性たちの為にも、頑張る、日本政府は真の謝罪と責任を果たしてほしい」と。


2024年の11月にエステリータさんは闘病生活の後、93歳で家族や孫たち、支援者に見守られて亡くなられました。

名乗り出るまでの40年間、その後闘い続けた40年間、その壮絶な人生が実りあるものへと生かせるよう、あとに続く私たちは歩んでいきたいと思います。(ロラネット)