〈報告〉戦時性暴力問題連絡協議会 第100回水曜行動 in 新宿 台湾 イアン・アパイさん(山口明子)
もし、いま14,5歳の少女を監禁して引き続いて性暴力の対象にするという事件が起こったらどうでしょう? 82年前の台湾の山の村では実際にそれが起こりました。
50年のあいだ日本の植民地だった台湾では、二つのかたちの戦時性暴力の被害があります。
多数を占める中国大陸にルートをもつ漢族の女性たちは、インドネシアなど南方へ連行されて「慰安所」で働くことを余儀なくされました。一方、少数者の原住民の女性たちは、自分たちの住む村に押し入って来た日本の軍隊によって集団でレイプされました。
今日は、原住民の女性であるイアン・アパイさんのことをご紹介します。日本は台湾を統治するにあたって、平地の漢民族と原住民を分断し、原住民に対しては日本への同化政策を徹底的に行いました。「山のひと」といいますが、実は山奥に住んでいるわけではありません。狩猟民族だった人々は総督府によって山のふもとの方に移住させられ、農業に従事するようにされました。彼らは蕃人と呼ばれ、文字をもたないことを好都合に、日本語教育を強制されました。
住んでいる土地と生業を奪われ、言葉と文化を奪われ、名前を奪われ、信仰の自由や教育を受ける権利を奪われ、何もかも失った末に、命まで奪わることになったのです。
イアンさんは1929年の生まれで、3人の兄さんたちのいる末娘でしたが、3人のお兄さんは次々に日本の戦争にとられ、イアンさんを可愛がってくれた大きいお兄さんは、日本が勝って凱旋してくるときは、セーラー服をお土産に買ってくるよと言って出て行ったのですが、南方で戦死しましたし、次のお兄さんも戦争がもとで病気で亡くなりました。兄さんたちがいなくなって生活は苦しくなり、イアンさんは畑仕事の手伝いに追われていました。太平洋戦争の末期、村には、日本軍の補給部隊が駐屯して来ました。
山の村では駐在所の日本人巡査が村の最高権力者でしたが、ある日、その駐在所から、村の若い女の子たち数人に部隊で働くようにという話がありました。駐在所の命令に逆らうことは難しいのですが、それ以上に、当時の少女たちには、軍隊のお仕事をすることで、女ながらお国に奉仕できるというのは、名誉なことでしたし、給料も出るというので、女の子たちは張り切って出かけてゆきました。仕事は軍服の洗濯や繕い、掃除、炊事の手伝いなどでした。最初は村から通っていましたが、数か月後には宿舎が出来て、泊まり込みで働くようになりました。
病室でのイアン・アパイさん (写真:柴洋子)
宿舎に泊まるようになったある晩、兵隊に呼び出されて、山の中腹に倉庫として掘った洞穴に連れて行かれました。そこには、木のベッドが一つおかれていました。
何の用事なのか、何だか分からないうちに一人の兵隊が入ってきて、彼女を押し倒しました。びっくりして抵抗しましたが、相手の力にはかないません。次々に女の子たちが洞穴に引きずり込まれ、みんなが恐ろしい経験をしていることがよくわかりました。それからというもの、昼の仕事に加えて、一日か二日おきには、恐怖の夜が続きました。洞穴にやってくる中には、隊長のエラ、衛生兵の宮本などもいましたから、彼女たちはどこにも訴えるすべもありません。
何か月か後、日本が戦争に敗けて、軍隊は何も告げずに去って行きました。村に残った彼女たちにとっては辛い戦後の生活が始まったのです。当時の女の子にとっては自分たちの経験を話すことは恥ずかしく口にできないことでしたが、村の人たちは何が起こったのか、うすうす知っていて、彼女たちはひそかな好奇心と蔑みの目で見られました。イアンさんは、結婚しても、夫にそのことを知られて離婚を繰り返し、子宮の手術も受けました。
50年の沈黙の闇を破って、日本政府に裁判を起こしたとき、イアンさんはきっぱりと「ちゃんと謝ってほしい」、と言いました。真実を認めて、謝罪してほしい、その願いはついにかなえられませんでしたが、イアンさんの声は今も私の耳元にしっかり残っています。
裁判の原告となったイアンさんは、持ち前の明るさと闊達な性格を取り戻して、台湾のミンナン語、客家語、タロコ語と、言葉も出自も異なる被害者たちの間で、皆の、よい仲介者でもあったと思います。