チンダ・レンゲさんは、今日の黄色いチラシの4頁にお写真と説明が記載されていますが、2016年にチンダさん84歳のときに、初来日し、証言されました。


私もお会いし手作りのお菓子を頂きました。チンダさんは今もお元気です。少し説明します。



私たち戦時性暴力問題連絡協議会も加わっている全国のネットワーク組織・日本軍「慰安婦」問題解決全国行動は、チンダさんを始めとしたインドネシア・南スラウェシ州の被害者たちに対する支援活動をしていまして、20199月に南スラウェシの被害者訪問をしています。


その時には、6名の被害者にお会いし、134歳の頃の過酷な性暴力被害やその後の長い苦しい生活について聞いてきました。その時にはお元気であったジャヘランさんは、20204月に90歳で亡くなり、今、川見さんからお話のあったミンチェさんは2021622日に亡くなりました。



今年(2023)8月に全国行動の仲間が、2回目の訪問をしました。ミンチェさんのお墓参りをしたあと、パレパレに住むチンダさん (南スラウェシ州パレパレ市に居住)に会うことができました。共同住宅に暮らす人々が助け合って生きていて、チンダさんも元気だったとのことです。痛風と白内障があり、病院通いをしているそうです。はっきりはしませんが、現在91歳くらいだと思われます。

 


チンダさんの被害証言より


13 歳の頃、お母さんと一緒にパレパレにあった糸を紡ぐ工場に働きに行った時、お母さんが病気になり家にいたところ、チンダさんだけが連れ戻され、敷地内の別の建物(慰安所)に連れて行かれ、将校オケダ(チンダさんが覚えている名前)たちにレイプされました。


オケダという兵士は、チンダさんが服を脱ぐのを嫌がると首に刀を当てて脅したそうです。お父さんが亡くなったということを噂で聞き、家に帰りたいと頼みましたが許されなかったそうです。その場所(慰安所)には、小さな部屋があり沢山の少女がいたそうです。




1 年間の監禁後、日本の敗戦で解放されましたが、両親はすでに亡くなり、「日本兵と寝た汚れた女」と親族からも追われ、その時、14歳でした。住込みの家事手伝いやお菓子売りをしていたところ、出会った女性が「お菓子を自分で作って売って、自立しなさい」と家に連れて行き、地域の伝統的なお菓子の作り方を教えてくれました。それから、お菓子を作り市場などで売って生きてきました。約 20 数年前から今の借間に住んでいますが、足が痛くなってお菓子を作ってももう売りに行けません。大家さんの家族にお菓子の作り方を教えて、子守りし、大家さんにめんどうをみてもらっているそうです。



2016 11 月、84歳の時に初来日し、大阪と東京で自らの被害を証言しました。


チンダさんはその時、戦後も「日本軍の残りかす」とさげすまれた生きてきた体験を話され、「正義と真実を求めてやって来た」と明確に話し、とても感動したことを覚えています。

 


私は、このような被害者たちの訴え、悲痛な叫びを、わたし事として受け止めて、伝え、二度とこのような被害者を出さないこと、そして何より戦争をしない社会をつくることに繋げていくことが必要だと思っています。



(報告 田巻恵子)