松野明久さん(大阪大学名誉教授)

 



今日は、東ティモールの「慰安婦」問題についてしゃべります。


 

しかし、その前段として、今年の日本のジェンダーギャップ指数(男女の格差を数値で表したもの)の話をします。



日本の順位は、今年世界146カ国中125位という過去最低にまで落ち込みました。それだけ日本政府が女性の人権を尊重していないことがわかります。



「慰安婦」問題はその象徴です。日本が「慰安婦」問題を解決できないことは、国際的には大変恥ずかしいことです。

「慰安婦」にされた被害者が高齢になって、亡くなっている今、解決の最後のチャンスであり、ジェンダーギャップ指数をあげるよう取り組むのであれば、「慰安婦」問題を解決して国際社会に恥ずかしくないようにしてもらいたいと思います。




私はこの間よく海外に出かけて仕事をしてきましたが、ジェンダーギャップ指数のことを言われると本当に恥ずかしいと思ってきました。日本の現状はどうなっているのかと聞かれても、答えられない。これだけ女性の人権が侵害されている、女性が働けない、能力が発揮できない。日本の社会では人権が後退している。それが日本の衰退を表している。



政府は、口では「女性の人権」と言っていますが、なかなか良くならない、それどころか今年はジェンダーギャップ指数が過去最低になるというありさまです。日本より下位の国々には、世界から指弾されている酷い人権の国を含めて20カ国ぐらいしかありません。現状がどんなに酷いことなのかをまず認識しないと、今後、女性の人権状況を良くすることは不可能です。




その象徴として「慰安婦」問題を解決できない日本があるのです。国際社会からいろいろ言われても、国連から言われても、被害者の尊厳を守ることができない、権利を回復することができない。そういう日本政府のこの間のやり方、これがいつまで続くのかわかりませんが、「慰安婦」被害者の権利を主張している人々を無視していることが大きな問題であることをまず申し上げて、東ティモールの話に行きたいと思います。



東ティモールは、インドネシアとオーストラリアの間にある小さな国で、今の人口は約140万人です。

東南アジアに侵略した日本軍は、フィリピンやインドネシア、マレーシア、ベトナムと一緒に東ティモールを占領しました。フィリピンやマレーシアに日本軍が侵略したということはわりあい知られていますが、東ティモールに日本軍が侵略したことはあまり知られていません。そして「慰安婦」とされた被害者が多くいたこともあまり知られていません。



東ティモールには1942年から1945年まで日本軍の兵隊が常時1万から1万2000人駐留していました。


当時の東ティモールは人口約40万人。日本の占領の前と後では住民の人口が約4万人が減っています。4万人が日本軍に殺されたわけではないと思いますが、その数字は日本軍の侵略がいかに負担であったか、ただでさえ農村でギリギリで生活している人々のところに日本軍が侵略してどれだけ負担であったかを示しています。



しかし日本は東ティモールの人びとと戦争したわけではなく、相手はオーストラリアでした。東ティモールの宗主国ポルトガルは中立国でした。


そのためオーストラリアに行くと、太平洋戦争のことを言われます。オランダ領東インド、つまりインドネシアは日本が占領していたので、オランダに行けばそのことが言われます。捕虜や抑留所のことですね。こうした第二次世界戦争中の問題を解決しなければ日本の活躍はないでしょう。


いま日本が何となく世界で地位があるのはお金があるからで、日本は決して尊敬されているわけではない。「慰安婦」問題はその障害の一つです。




日本軍は東ティモールでも「慰安婦」制度を導入しました。ただジャワ、シンガポール、中国などと違うのは、東ティモールは首都以外大きな町がないということ。ですから村々では女の子を指名して、数ヶ月から半年、場合によっては3年、接収したポルトガルの施設や民家に監禁して占有していたというのが実態です。



東ティモールでかつて調べられたところでは、数百人の被害者がいたということが分かっています。私たちが証言を取り、その後連絡を保っているサバイバーは20人で、今ではその内たった1人しか存命ではありません。




東ティモールの首都の慰安所には、朝鮮人、ジャワ人、ティモール人の慰安所がありました。別な町には中国人の慰安所もありました。朝鮮人「慰安婦」というのはもともといた人たちではなく、朝鮮半島から連れて来られた女性たちです。その後、彼女たちがどうなったかは全くわかりません。


オランダ領東インド側の西ティモールの慰安所では、多くの朝鮮人「慰安婦」がオーストラリア軍によって解放されました。その時の写真が残されています。東ティモールの被害者たちは、昼間は牛馬のように働かされ、夜は兵士の相手をさせられる生活でした。




東ティモールに行っていた元日本軍兵士の方々にも会いました。

「慰安婦」問題については、語る人、語らない人、いろいろいました。写真パネルにある岩村さんという人は語ってくれた数少ない人でした。








日本軍は温泉が大好きで、東ティモールの山奥にある温泉の保養所を慰安所にしました。そこに沢山の女性たちを詰め込んで兵士の相手をさせました。写真パネルにあるマルタ・アブ・ベレさんという方は、すでに亡くなりましたが、昼間は牛馬のごとく働かされて、夜はそこで兵士の相手をさせられた人です。


強制労働と性的暴力で1112歳の女の子たちが病気になるのは当たり前です。このマルタさんも、3カ月くらいで病気になって頼み込んで家に帰らせてもらったそうです。マルタさんの場合、食事も与えられませんでした。自分の家から持ってこいと言うのです。







写真パネルのクレメンティーナ・カルドーゾさんは手が曲がっています。とても可愛そうな人です。手は日本軍の刀で切られた跡です。この人は「慰安婦」にされかけたのですが、結婚していたので夫が心配して日本軍に抗議をし、夫が刀で切られようとした。それを彼女がかばったところに刀が振り落とされ、手首にあたり、その結果一生治らない傷となりました。日本軍の暴力のせいで、彼女は普通には生活できなくなり、ずっと親戚にお世話になったのです。




クレメンティーナ・カルドーゾさん






写真パネルにあるエスメラルダ・ボエさんという人は、昼間畑にいたところを目を付けられ、夜迎えに来られ、そのまま司令官のところに行かれ、3年程、代わる代わる3人の司令官の相手をさせられた。日本軍の「慰安婦」になったということは、村の中でも恥ずかしいこととされ、周りから陰口をたたかれ、いつも他人の目が気になっていたそうです。すでに亡くなっています。



エスメラルダ・ボエさん






写真パネルにあるイネス・マガリャンイスさんは、唯一人の生存者です。12歳頃「慰安婦」にされ、妊娠して子どもを生んだのですが、子どもは日本兵に取り上げられてその後どうなったかわかりません。日本に来た時に、外務省に会って、子どものことを調べてほしいと訴えましたが、全くなしのつぶてです。



イネス・マガリャンイスさん






東ティモールはあまり知られていない国かも知れませんが、日本軍が3年半占領していたということ、そして「慰安婦」制度をやっていたということを、日本政府は無視してします。そして責任を取ろうとしません。



私たちは東ティモールに毎年のように行って、若い人たちと「慰安婦」問題について話しています。東ティモールの若い人々は関心を持って聞いてくれます。現地の人権団体は大学でのセミナー、シンポジウム、教員研修、テレビ討論などを通じて「慰安婦」問題を訴えています。そういう若い人たちがいる一方で、何にも知らないかのように否定する日本政府は本当に恥ずかしい。何とか日本の中でも、伝えていきたいと思っています。



(写真は松野明久さん提供)