先月、11月16日の水曜行動で、婚外子差別をなくそうと30年間運動してきた「なくそう戸籍と婚外子差別・交流会」の福喜多昇さんにご参加いただき、スピーチをしていただきました。


そのときお話し下さった内容をあらためてわかりやすく書いてくださいました。


11月16日の水曜行動の様子は





       
11月16日の水曜行動でスピーチをする福喜多さん。






1,遅きに失した最高裁相続差別違憲決定とその後



 201394日最高裁大法廷は、「嫡出でない子の相続分は嫡出子の2分の1」とする民法の規定を憲法違反と決定した。歴史的決定ではあったが、その後判決文を読んでみると違憲という結論以外は見るべきもののない空疎なものだった。



この時点で婚外子相続の差別を残す国は、「インド、フィリピンなどごくわずか」(法務省回答)という状態であったし、婚外子を「嫡出でない子」などと呼ぶ国も皆無に近い状況だった。遡って最高裁が相続差別を合憲と判断した1995年の時点で、すでに先進国で相続差別を残すのは、日本を除けばドイツ、フランスのみであり、それも一律に2分の1というようなものではなかった。極東アジアと言われる地域で相続差別を残すのは、1992年に韓国が相続差別を撤廃して以来、日本だけという状態だった。




また、1993年には東京高裁で違憲判断が出ており、双方が上告せず、高裁判決が確定するということがあった。同年には、市民的及び政治的権利に関する国際規約に基づく第3回定期日本審査では、初めて国際的に日本の婚外子差別が本格的に議論された。その結果、この条約の委員会は、「婚外子に対する差別的な法制度、特に、出生届と戸籍にかかわる法文・慣行、婚外子の相続差別は規約違反である。」として法改正と世論の方向付けを勧告した。審査に加わった委員全員が婚外子差別に触れ、条約違反を指摘している。こうした状況を考えれば、1995年の最高裁大法廷で違憲判断が出てしかるべきだった。




ようやく2013年の違憲決定だが、婚外子差別はいけない、とも、これからなくしていくべき、とも述べてはいない。1995年以降続いた合憲判断への遠回しな弁解のようにも見える。いろいろと違憲と判断する理由を挙げながら、どれも決定的な理由にはならないが総合的に判断すれば、2001年以降は違憲だという。それなら1995年の時点でも違憲だったのでは?という疑問には答えていない。




例えば、(家族形態の多様化に基づく)国民意識の変化を上げているが、違憲か合憲かは国民の多数決で決めるものではあるまい。また、人権関係の国際条約の各委員会から、1993年以降10回にわたって指摘された、とも述べているが、一度でも条約違反だと言われれば、もっと早く理解すべきではなかったのか。なぜ10回も指摘されるまで放置されたのか。ようするに突っ込みどころが満載で、説得力に欠けるのである。




 憲法学者の木村草太さんは、「違憲理由なき違憲決定」と呼び、元最高裁判事で「相続差別は違憲」との少数意見を何度も書いたことのある泉徳治さんは、「現憲法制定以来この規定は違憲だった。人(裁判官)がついていけなかっただけ。」と指摘している。




 こうした婚外子差別に対する理解を欠いた最高裁の危うさは、直後に露呈する。同じ月の26日、出生届に「嫡出子・嫡出でない子」の別をチェックしなければならない記載欄について、最高裁小法廷は「記載は必要不可欠ではない」としながら、合憲と判断したのだ。「嫡出でない子」との用語についても「単に親が婚姻していないという意味で、差別性はない。」とした。

さらに、最高裁の差別的体質を決定的に露わにしたのは、20151216日の大法廷判決である。直接婚外子差別を争った裁判ではないが、「夫婦同氏を強制している民法の規定は合憲」と判断した判決理由で次のように述べている。「婚姻の重要な効果として夫婦間の子が夫婦共同の親権に服する嫡出子となるということがあるところ、嫡出子であることを示すために子が両親双方と同氏である仕組みを確保することにも一定の意義がある」「夫婦同氏の下においては、子の立場として、いずれの親とも等しく氏を同じくすることによる利益を享受しやすい」と。裏返せば、「どちらかの親と氏を異にすることで『嫡出でない子』であることが明らかになり、不利益を受けやすくなる。」と言っているのだ。婚外子差別を前提として夫婦同氏強制を合憲としたことは、二重の意味で罪が深い。



 

2、「嫡出でない子」に差別的意味はないのか


『 「嫡出でない子」とは単に父母が婚姻していないということを意味するもので差別ではない。』果たしてそうだろうか。すでにふれたように、2015年判決によって、最高裁自身が、「嫡出子」と「嫡出でない子」の間に一方のみが得られる利益があると認め、しかもそれを是認している。これで「嫡出でない子」に差別的意味がないとどうして断言できるのだろうか。



またこういう制度がある。婚姻中のものが養子を迎えるときは、夫婦で養子縁組をしなくてはいけないことになっているが、一方の親子関係がすでに成立しているときは親子関係のないものだけが縁組すればよいことになっている。例えば前婚の子どもを連れて再婚したような場合、夫婦の一方は、すでに親子関係があるので、あとの一人だけが養子縁組すればよいことになる。ところが、その子どもが「嫡出でない子」の場合は、実親を含めて夫婦で養子縁組をしなければならないことになっている。これには、「なぜ実の子を養子にしなければならないのか」との疑問と批判がある。当然だろう。法務省は、こう説明している。「嫡出でない子」とその実親が養子縁組をすることで子に「嫡出子」の身分を与え、子の地位を向上させるためである、と。養子は、嫡出子の扱いになるので、子どもの地位が向上するというのだ。まさに、これこそが、「嫡出子が上」「嫡出でない子は下」という差別そのものであろう。一方でこうした法制度を作りながら、「嫡出でない子」には差別的意味はないというのだ。

 


3、「私生子の称の廃止」から学ぶ


 民法の婚外子に関する法制度は、1898年に日本に初めて近代民法ができて以来2013年に相続差別が撤廃されるまで、ほとんど手つかずのまま20世紀をまたいでいる。ただ一つの例外は、私生子の称の廃止である。194223日司法大臣岩村通世は帝国議会衆議院委員会で「私生子の称の廃止」の民法改正案の提案理由説明で、こう述べている。「自らは何ら咎むべきもののない私生子に対して、不必要なる苦痛を与え、あるいはその保護を顧みざるがごときは、不当であると申さねばなりません。」と。



 3つの点に注目してほしい。一つは、「何ら咎むべきもののない」という点である。自らの責任ではない事由で不利益を受けないという近代法の原則が示されていている。2つめは、「不必要な苦痛を与え、あるいはその保護を顧みざるがごときは」という点である。「私生子」という用語が当事者に苦痛を与えていると理解している。そして、それを放置することは保護を顧みていないと考えているのである。3つ目は、日付である。194223日と言えば、日本が真珠湾を攻撃して太平洋戦争に突入してから2か月もたっていない。およそ人権を重視していたとは言えない時代の発言だと言うことである。婚姻や認知をする余裕もなく徴兵されて戦死し、靖国に祀られた神の子が私生子というのは忍びない、という戦争遂行の目的もあったであろう。また「嫡出でない子」への差別にまで思いが至らなかった歴史的限界もある。しかし、そんな時代でさえ、自らに責任のないことで苦痛を与えたり、保護を顧みないのは不当である、との考えが示されているのだ。



今日「嫡出でない子」とは、単に親が婚姻していないという意味で差別ではない、と言い放つ司法や行政の態度には怒りがわく。「嫡出でない子」と呼ばれて苦痛を感じるひとは多いであろう。それを放置することは、婚外子の保護を顧みないことになるのではないか。80年以上も前の司法大臣は「私生子とは、単に父の認知がなく父子関係が成立していないという事実を意味するもので差別ではない。」とは考えなかったのである。

 


4,婚外子差別は女性差別


 私生子という呼称に関して前項で触れたが、私生子に対し公生子という言葉がある。それは、私生子が認知されると庶子となり嫡出子ではないが、公生子となる。公(おおやけ)と私(わたくし)をどこで区別しているのか。それは父親がいるか否かである。つまり公はあくまで男にのみ属するということなのだ。



 婚外子差別は、またその母親への差別であり、非婚の母への差別は女性の出産の権利と深くかかわっている。出産の権利とはもちろん出産しない権利を含んでいる。女性差別撤廃条約第161項は婚姻と家族関係に関する差別を禁止し、そのために締約国が確保すべき項目を(a)から(h)まで8項目挙げている。その(e)では、「子の数および出産の間隔を自由かつ責任をもって決定する同一の権利並びにこれらの権利の行使を可能にする情報、教育及び手段を享受する同一の権利」と規定している。



 大臣が「産む装置」と言ってみたり、国会議員が、結婚式では必ず「子どもは3人以上」とスピーチすることを自慢げに話したりするこの国では、この権利が保障されているとはいいがたい。「赤ちゃんまだなの」と露骨に催促されたり、そうでなくても陰に陽に出産圧力を感じる婚姻女性は多いのではないか。そして、婚姻女性への出産圧力と婚外出産をした女性への差別は、1枚のコインの裏表である。



この国では、いまだに女性の体、特に生殖機能が女性自身のものだとは認められていないのではないのか。かつて未婚女性は父や戸主の財産とされ、既婚女性は夫の所有物とされた。今は個人の所有物ではなくとも、その生殖機能は社会的資産であるかのように扱われている。だから政治家の上述のような発言が出てくる。強姦罪が強制性交罪となっても相変わらず「暴行または脅迫」という条件が外れないのも同じ理由である。つまり自身のものではなく預かり物だから、死ぬ気で抵抗しないと被害者とは認めないということなのだ。個人が勝手に使うことは許されない。ルールに従わずに出産した女性は非難される。結婚すれば「産んでもいい」ではなく「産まなければならない」ことになる。また、上記の条約の権利行使には、性教育は必須だろう。婚外子差別撤廃に反対する勢力とまっとうな性教育に反対してきた勢力がぴたりと一致するのはこのためである。



子どもは親とは別人格であり、どんな親から生まれてもそれによって差別があってはならない。これは100%正しい。しかし、婚外子に対する法制度上の差別がなくなっても、社会的な差別まで完全になくすためには、こうした女性差別をなくす必要がある。女性差別撤廃委員会は、婚外子への保護とともに非婚の母に対する保護を求めている。

 


5,婚外子差別をなくすと家族が崩壊する??


 婚外子差別撤廃に少しでも舵を切ろうとすると必ず出てくるのが、「家族の根幹にかかわる問題であり、慎重な議論が必要」とか、「家族が崩壊する」「不倫を助長する。」という扇情的な叫びである。家族の根幹とは何を意味しているのか。家族の何が崩壊するのか。婚外子差別は「不倫」を抑制しているのか。



 2016年の東京都知事選挙で、自民党は党推薦の候補以外を応援した党員を処分する文書を出した。その文書では、党員の後に(家族を含む)との記述があった。家族を統制できずに家族が他の候補を応援すれば、その党員を処分するというのである。家族の中にこれを統括する人物がいて、そのもとに家族構成員が従属する。そういう家族しかイメージできないのであろう。それは自民党に限らない。日本社会に大きな影を落としている。この思想を支えているのが、筆頭者のもとに夫婦と未婚の子どもを一括して登録する戸籍制度である。



 1994年国際家族年での議論では、家族が社会の基礎単位であり重要な構成要素であることを認めているが、だからこそ社会が民主的であるためには、家族が民主的でなければならないとの議論があった。そして国際家族年宣言では、「明示的であれ非明示的であれ、唯一の理想的家族像を追求してはならない。」と述べている。家族もそれを構成する個人も多様性を持ち、それぞれが支配従属ではない民主的な関係を保つ。これを家族の国際的スタンダードにしようというのが国際家族年での議論だ。しかし、日本の保守層にとっては、これは「家族の崩壊」としか見えないのであろう。彼らがいう「家族の崩壊」とは、家族の民主化のことなのである。



  「『不倫』を助長する」とは何を意味するのか。今でも社会的地位のある男性が婚姻相手以外の女性と関係を持ち子どもができるということは起きている。たまに有名人の状況が表面化して「隠し子」騒動などということになる。「隠し子」という言葉自体も婚外子に対する差別だが、何が隠されているかを考えれば、問題の本質が見えてくる。婚外子はどこかに隠れ住んでいるわけではない。その母親も多くの場合子どもを養育しており、隠れようもない。隠されているのは父子関係である。それが可能なのは、婚外子とその母に対する差別があるからである。大っぴらに名乗りを上げれば差別に合うことを覚悟しなければならない。父子関係が隠されていることを望む人が、婚外子差別撤廃に強く反対する。ここに「婚外子差別撤廃が不倫を助長する」いう主張に隠された本音がある。

 


6,婚外子差別に関する国際基準


 20139月最高裁大法廷の相続差別違憲決定を受けた同年12月の民法改正で、国内ではこれで婚外子差別の問題は解決済とする議論がまかり通っている。しかし、相続差別撤廃後も国際人権条約の各委員会からは、差別撤廃の勧告が出されている。



 2016年の女性差別撤廃条約での日本審査では、「婚外子の地位に関するすべての差別的な規定を廃止すること、および法が社会的な汚名と差別から婚外子とその母親を確実に保護するようにすること。」と勧告した。さらに、2019年の子どもの権利条約での審査では、「非婚の両親から生まれた子どもの地位に関する規定を含め、理由の如何を問わず子どもを差別しているすべての規定を廃止すること」「差別を防止するための措置(意識啓発プロブラム。キャンペーン及び人権教育を含む)を強化すること。」と勧告した。この審査では委員から「すでに第一歩を踏み出し相続を同等にしたのですから、完全に婚外子という言葉・非嫡出子を戸籍その他からなくす予定はないか。」との質問があった。また、「私たちは21世紀に住んでいるんですよ。非嫡出子などという言葉はもはや存在しないのではないですか。日本だけですよ、そんな考えがあるのは。」と強い言葉で迫っている。



相続差別の撤廃は、婚外子差別撤廃の完了ではなく、第一歩に過ぎないのだ。「非嫡出子・嫡出でない子」という用語の問題は言うに及ばず、そもそも親の婚姻の有無で子どもを区別すべきでない、というのが国際標準になりつつあることを示している。



 市民的及び政治的権利に関する国際規約(自由権規約)の審査では、民法の一部改正の直後に行われた2014年の審査では、相続差別撤廃への称賛のみで、特に勧告はなかったが、今年10月の審査の結果、113日の総括所見では。「立法と運用を、規約第24条に完全に沿うものにし、すべての子どもへの差別と烙印を撤廃する保護的な政策を採用すること。」と勧告した。さらに、次回の審査を待つことなく、2025113日までに実施状況の報告を求めた。




もはや日本の婚外子差別の撤廃は待ったなしである。現在、法制審議会で親子法の見直しが行われているが、そこでの議論は、婚外子差別撤廃は、議題とされていない。ただ、今回の自由権規約の議論では、いろいろ条件を付けてはいるが、日本政府から初めて、「嫡出でない子」の用語について、見直しのための検討は続けていくとの回答があった。2019年の子どもの権利委員会の審査では、法律婚主義である限り、「嫡出子・嫡出でない子」の区別は論理的帰結とまで言い、区別をなくすつもりはない、と言い切っていたことからは、用語の問題に限られるとはいえ、一歩前進と言える。



 言ったからには確実に実施を迫るとともに、嫡出概念の廃止(親の婚姻の有無で子どもを区別しない)に繋げる一歩としたい。(なくそう戸籍と婚外子差別・交流会)