12月29日におこなわれた1524回水曜デモは、2021年に亡くなった3人の被害者の追悼集会でした。今年亡くなった3人の中のお一人と交流のあった全国行動共同代表の梁澄子が書いた追悼文が集会で読まれました。以下に掲載します。 





追 悼 文  



梁澄子 



  

ハルモニ

 

私がハルモニに初めてお会いしたのは1992年の春でした。私が韓国を訪問したのも初めてで、話にだけ聞いていたタルトンネの貧民街を見たのも初めてで、ハルモニがご自身の経験を証言したのも初めてでしたね。




タルトンネのてっぺんの小さなバラックで、ご自身の過去を打ち明けるハルモニの身体は小刻みに震え、声も共に振動していました。その響きが徐々に大きくなると、ハルモニは涙を流し、右手で胸を押さえて嗚咽しました。水を飲むのも、タバコを吸うのも、全部右手でした。左手は慰安所で受けた怪我の後遺症で動かなかったからです。

 



ハルモニの苦痛は解放後にも続いていました。そしてその原因が日本軍性奴隷制被害のせいであることは明らかでした。障害を負った自身を介護するために結婚もできずに工場で働く娘さんの話をするたびハルモニは泣き崩れました。

 



そんなハルモニの姿は、日本軍性奴隷制問題を頭でだけ考え、理論構築することに一生懸命だった私の認識と姿勢を根本から揺さぶりました。恥ずかしくてたまりませんでした。日本軍の性奴隷を強いられるということが、一人の女性の人生をどのように変えるのか、ハルモニに会う前までの私は分かりもしないで日本軍性奴隷制について分かったようなことを言っていたのです。そんな自分が恥ずかしくてどうすればいいのか分からないでいる私に、ハルモニはおっしゃいました。




「良い世の中になって、こんなに良い人が私の話を聞いてくれて、本当にありがとうございます。本当にありがとうございます」



 その言葉に、私はますます恥ずかしくなりました。

 


 数年後に訪ねて行った時、高層マンションで娘さんの介護と保護を受けて暮らすハルモニは以前よりは少し安らかに見えました。私が日本で何もできずに過ごした歳月に、挺対協がハルモニたちのために奔走して勝ち取った成果がそこにありました。ハルモニは私に「水曜デモに行こう」とおっしゃいましたね。

 


 ハルモニは私にとって恩師のような方でした。ハルモニに出会って日本軍性奴隷制問題を初めてきちんと知り始めたからです。その後30年間、ハルモニが気づかせてくださった道に沿って活動してくることができました。それなのにハルモニにきちんとお礼の言葉を言ったことはなかったように思います。初めてお会いした時、ハルモニがおっしゃった「ありがとう」という言葉に、恥ずかしさのあまり何も言えないまま、こんなふうにハルモニを見送ることになりました。

 


 ハルモニ


 今ごろになって感謝の言葉を伝える私をお許しください。

 そして、ハルモニの生きる姿が、私を正しい道へと導いてくださったという事実を忘れないでください。



 ハルモニ


 辛い記憶はすべて忘れて安らかにお眠りください。