〈報告〉戦時性暴力問題連絡協議会 第100回水曜行動 in 新宿 中国・山西省の日本軍性暴力被害者、万愛花さん(川見公子)
中国・山西省の日本軍性暴力被害者、万愛花さんについてお話します。
万愛花さんは、民国19年、旧暦1929年12月12日(西暦1930年1月11日)、現在の内モンゴル自治区(フフホト近郊)で生まれ、幼い頃に当時の農村の慣習であった売買婚、童養媳(トンヤンシー)として山西省盂県羊泉村の貧しい農民に売られました。
1937年の盧溝橋事件をきっかけに、日本軍は中国への侵略戦争を拡大し、山西省の奥深い山岳地帯の村々にも侵入していきました。
万さんの住む村にも抗日の児童団ができ、万愛花さんは児童団でも活動するようになります。小さい時から辛い思いを重ねてきた万愛花さんは、歌を歌ったり手紙を届けたり布靴を作ったりする児童団の活動が大変楽しかったと言います。そして、数え年14歳で村の共産党員に、15歳の時には抗日の副村長に任命されたのです。
「三光作戦」という言葉を聞いたことがあると思います。
日本軍は、降伏しない村、日本軍に協力しない村を襲い、武器を持たない無垢な住民に対して「殺しつくし、焼き尽くし、奪いつくす」という残忍極まる戦争犯罪―儘滅作戦を繰り広げました。
そんな中、万愛花さんは抗日八路軍の協力者として3度つかまり、最前線の日本軍拠点に連行され監禁されます。そして「共産党員の名前を言え」とむごい拷問を受けました。2度までは逃げ出した万さんでしたが、3度目につかまった時の輪姦と拷問はさらに激しいものでした。
木に吊り下げられて腋毛を抜かれる、釘のついた板で頭を殴られる、イヤリングを引っ張って耳たぶをちぎられるなどの拷問を受け、とうとう意識を失い、裸のまま川辺に捨てられました。幸い村の老人に救われ奇跡的に生き延びることができたのでした。
万愛花さんへの日本軍の性暴力は抗日協力者への拷問としての性暴力でした。拷問としての輪姦(性暴力)、拷問としての暴行を被った結果、万さんは体中を骨折し、病気にもなって、その後の人生は破壊され悲惨そのものでした。解放後、体を壊し夫を亡くした万さんは小さな養女を連れて村を出て、村々を転々としながら物乞いや縫物の仕事で何とか生き延びたといいます。
1992年、万愛花さんは中国からはただ一人参加して「日本の戦後補償に関する国際公聴会」で証言しました。
彼女は証言を始めると、フラッシュバックを起こし倒れました。2000年の女性国際戦犯法廷でも倒れました。万さんのほかにも、PTSDやフラッシュバックを起こして倒れたり、震えが止まらなくなったり、悪夢にうなされたり、徘徊するなどの症状に苦しむ山西省の大娘たちが大勢います。私は彼女たちを支援する中で、性暴力被害を語ること自体の大変さ、苦しさに気づかされていきました。
万愛花さんは98年10月、裁判を起こしました。
原告10名です。原告大娘の中では一番年下でしたが、被害女性たちのリーダーでした。万さんは、教育をうける機会はなく、字は書けません。けれども被害者同士の心をつなぐ文字通りのリーダーとして、大娘たちの相談に乗り、一緒に闘おうと支えました。大娘たちは万さんに会い、顔を見るだけで、ほっとしたような明るい顔になっていました。
万さんは、7度来日して法定に立ち、各地で証言しました。裁判に負けたあとも決してあきらめることはありませんでした。知人に代筆してもらい、当時の首相に直訴状を送り、亡くなる前の2013年には、当時の橋下大阪市長のひどい発言に抗議する文書も出していました。
「私は“慰安婦”ではありません」、「罪を犯せば謝らなければいけない。謝罪のない友好はありません」、「まだまだやることがある。この古い体で一緒に闘おう」、「あきらめてはいけない。あきらめると軽く見られますよ。必ず解決して」、「私が死んでも、娘や孫が、子々孫々闘う」。
万愛花さんが私たちに残した言葉です。万愛花さんの被害と人生、その折々の姿とことばを記憶し伝えていきましょう。
二度と同じ被害が起きないように、戦争のない社会にするために、万愛花さんの遺志を受け継いで、私も古いくなった体で頑張りたいと思います。
(山西省・明らかにする会)