アジアの各地で「慰安婦」にされた日本人女性はかなりの数に上りますが、各国の女性たちが被害を訴えて日本政府を告発するようになっても、同様の訴えをする日本女性はごくわずかでした。そのわずかな一人が、城田すず子さんでした。




城田すず子さん(写真:かにた婦人の村所蔵)


城田さんは1921(大正10年)、東京深川のパン屋の長女に生まれ、14歳で母と死別してから実家が破産。17歳で神楽坂の芸者屋に売られ、重い性病に罹かりながら多額の借金を背負って弟や妹を支えなければならず、18歳で台湾の慰安所に売られてしまいます。



それから日本の敗戦までの6年間、南洋のサイパン、トラック、パラオの慰安所を転々とすることになりました。当時のことを城田さんはこう語っています。



『私たちはぼろ雑巾のように扱われ、多くの女たちが爆弾に当たって息絶えました」「兵隊は150銭か1円の切符で行列を作り、私たちは体を洗う暇もなく相手をさせられ、死ぬ苦しみ。何度、兵隊の首を絞めようと思ったか。半狂乱でした」



「私たちは死ねばジャングルの穴に捨てられ、親元に知らせる術もない有様です。それを私はこの目で見たのです、女の地獄を・・・」


敗戦の翌年、アメリカ海軍の船で浦賀に引揚げますが実家は城田さんを受け入れてくれず、福岡や長崎、神戸、豊橋などで進駐軍兵士や日本人を相手に身を売って暮らすしかありませんでした。



豊橋では4歳年下の学生と恋をして無理心中を図りますが、城田さんだけが生き残ってしまいます。その後、東京の吉原や横浜などの売春街を彷徨いますが、看護師になっていた妹が自殺したことを知らされて大きな衝撃を受けました。


堅気になろうと思い始めた矢先、195593日、たまたま駅の売店で買った週刊誌「サンデー毎日」で赤線にいた女性たちに開かれた更生施設・新宿区大久保の慈愛寮の記事を読み、そのまま真っ直ぐ寮に向かい、入所させてもらいました。



▼そこから城田さんの人生は一変します。慈愛寮で暮らしながら洗礼を受け、手記や日記を書き始めました。深津文雄牧師との出会いもあり、闘病生活を続けながら自叙伝「アリアの賛歌」を書き始めます。


そして1965年には深津牧師が千葉県館山市に建てた「かにた婦人の村」に入所。城田さんは自分の体験と思いをアメリカの大統領や日本の首相、国会議員、女性活動家、ジャーナリストたちに書き送るようになりました。深津牧師には「慰安婦」の鎮魂碑の建立を懇願します。


「兵隊さんや民間人は供養されるけど、中国、東南アジア、南洋諸島で性の提供をさせられた娘たちは散々もてあそばれ、足手まといになると放り出され、荒野をさまよい、凍りつく原野で飢え、野犬や狼の餌になって土に帰っていきました」


「祈っていると、かつての同僚がまざまざと浮かぶのです。どうか慰霊塔を建てて下さい。それを言えるのは私だけです」こうして1985年には「噫(ああ) 従軍慰安婦」と書かれた鎮魂碑がかにた婦人の村に建てられました。



1985 年、かにた婦人の村に建立された鎮魂碑「噫(ああ) 従軍慰安婦」



城田さんには『生き残った自分がそれをしなければ、無念の中で生を終えたかつての仲間たちが浮かばれない」という切迫した思いがありました。



だから、1991年に韓国の金学順さんが初めて「慰安婦」被害者として名乗り出たニュースを聴いて「よく思い切って名乗ったわ、その人に会いたいわ」と感激しました。



92年に吉見義明さんが日本軍「慰安婦」関連の公文書を発見したというニュースには、「出てきましたね、出てきたわ!」と大喜びしています。



城田さんは1993年、71歳で亡くなりましたが、かにた婦人の村の「慰安婦」の鎮魂碑の前では、毎年815日に鎮魂の集いが行われており、今年は42回目を迎えます。