〈報告〉戦時性暴力問題連絡協議会 第100回水曜行動 in 新宿 中国・海南島 陳金玉(チェン・ジンユー)さん(米田麻衣)
皆さんこんにちは。ハイナンnet〜中国海南島・日本軍戦時性暴力被害者の声を伝えるネットワーク〜メンバーの米田です。
皆さんは海南島という島をご存じでしょうか?
中国最南端、ベトナムの東側に位置する、九州や台湾くらいの大きさの南の島です。
現在の人口は1000万人を超えていますが、今から87年前、1939年に日本軍が海南島を侵略した時の人口はおよそ200万人でした。
日本政府は、海南島を南方侵略の足掛かりとして重要視し、また豊富な鉱物などの資源を収奪するために6年半占領しました。
島の人々や中国大陸、朝鮮の人々を強制労働させ、虐待し、虐殺しました。そして島中に多くの慰安所が作られ、慰安所や軍の駐屯地で、島の漢族や黎族・苗族などの少数民族の女性、日本、台湾、朝鮮半島などから連行された女性たちが性暴力の被害に遭いました。当時の海南島の人口200万人のうち30万~40万人が日本軍によって虐殺されたといわれています。それは実に島民の約6人に1人です。
そんな海南島の山奥に住む少数民族の、日本軍性暴力のサバイバー女性8人が、2001年7月16日に、ちょうど明日で提訴の日から25年ですけれども、日本政府に謝罪と賠償を求める裁判を起こしました。
海南島の女性たちが長きにわたる沈黙を破って立ち上がり、被害を公にして裁判を始める勇気を出すきっかけとなったのは、今日のスピーチでもご紹介のある朝鮮のサバイバー女性の名乗り出、それを受けて立ち上がった中国山西省のサバイバー達の闘いを、知ったからでした。
裁判の原告の一人、陳金玉(チェン・ジンユー)あぽの話をします。阿婆(あぽ)というのは、中国南部の言い方で「お婆ちゃん」で、あぽ達自身が一人称としても使っており、私たちハイナンnetも敬意と親しみを込めてサバイバーをあぽと呼んでいます。
陳金玉あぽの被害証言を読みます。性被害の具体的な内容に触れますので、聞いていて苦しくなる方もいらっしゃるかもしれませんので、どうかご自身の心と相談してお聞きください(お読みください)。
14歳の時に、家族と家で食事をしようとしていた時、突然3人の日本兵が家に押し入った。私はその場で、両親の目の前で被害に遭った。両親は私を助ける事もできず、泣き叫んでいた。
被害に遭った後、私は日本兵が怖くて山に逃げ、しばらく隠れていた。
それで日本兵は「塩を配る」と嘘を言い村人を集めた。誰も私の行方を言わない村人や父に対し、日本兵は電気ショックで拷問を加え、私の行方を聞き出そうとした。
村人から「娘を隠すせいで私たちが酷い目に遭う」「娘を日本兵に渡してくれ」と抗議された両親はやむなく私を山から降ろし日本軍の拠点に行かせた。
その時、父は私に言った
「お前だけが私たちを救えるんだ」
「お前が行かなければ皆日本軍に殺されてしまう」
「もし親まで死んだらお前もどうせ一人では生き延びられない」
私は駐屯地に連れていかれ、まず隊長に強かんされた
その時必死で抵抗したため、こん棒で殴られた上、銃剣の先で頬を突き刺された。
全身血まみれになった。
木のベッドだけが置かれた、窓の無い小さな部屋に閉じ込められ、その後何か月も被害に遭い続けた。
日本軍が去った後、私が村に帰ってからも村人に
「お前のせいで皆が酷い目に遭った」と言われ
両親も村人から見下されて過ごした。
未だに私の陰口を言う村人がいる。
同じ村に住む息子は「お前の母親は日本人の女だった」と罵られた。
今でも日本兵が夢に出てきて被害の場面が繰り返される。
眠っている時にも、夢の中で四つ足の牛の拷問をされて苦しみもがく。
目が覚めている時にも、被害の場面を突然思い出し心臓がバクバクし、涙が止まらなくなる。
被害の後は気性が荒くなった。いつも、日本兵を罵る言葉が独り言のように出てくる。
人生が苦しすぎて毒を飲んで死にたいとまで思う。
でも日本兵から受けた被害を思い出すと、このまま黙って死ねない。
2008年に東京高裁で、上記の被害の証言をした陳金玉あぽが、2009年に高裁判決を聞くため病を押して再び来日した時。
被害の事実認定はしたのに請求棄却となった判決文に憤怒したあぽは
「日本兵は自分たちだけで私の家まで来たとでも言うのか?(日本軍と日本政府による)命令があったから来たのだろう。被害が事実と認めるならば、なぜ加害兵士や責任者が捕まえられないのか?」と、日本政府の責任を問い、加害者処罰を強く望む言葉を投げかけていた。
「私が高齢をおして日本までやってきて被害について話さなければ、私たちがどんな目に遭ったか誰も知らず、それが事実だと認められることもなく、忘れ去られていただろう。同じことが繰り返されないために、何も言えずに亡くなっていった他の多くの被害者たちのために、私たちの名誉を回復するために、日本まで来たのだ」と力強く訴えていた。
私たちが日本から訪ねると、あぽはよく、ほっぺのシワを引きばして、当時日本軍の隊長から受けたを傷あとを見せてくれた。
あぽの家で一緒にテレビを見ていて、抗日ドラマで日本兵が出てくると「ホラ、あんたたちの祖父さんだよ」と言っていた。
アポは、お酒好きで、私たちにもよく「あぽ、サケ!」と言いながらどんどん酒をすすめ、飲みすぎて潰れると心配していました。
黎族の黎錦という機織りをして、自分でスカートを織っていました。子どもが5人で、孫もたくさんいましたが、孫一人ひとりの名前を間違えずに覚えていた、と孫の一人がアポを懐かしんで教えてくれました。
2012年にアポが亡くなった後も、私たちは海南島を訪れ、家族と交流を続けてきました。
孫の一人が、アポの被害証言や判決を受けてのアポの発言を黎語から中国標準語に訳してくださり、それを日本語訳したものが先ほどのアポの言葉です。
現地を訪れると、私と同世代の孫の代になっても、被害は続いていると感じます。それは、日本政府が加害の事実を認めず、謝罪も賠償もせず、植民地支配と侵略戦争への責任をとらない、それどころか、再び戦争の道を歩むため憲法を変えようとしている、そうした加害が終わっていないからです。
海南島で出会ったサバイバー全員が亡くなった今、あぽ達の家族とつながり続け、戦争PTSDの世代間連鎖についての視点を持ち、今後、あぽの闘いや人生、思い出などについて子世代、孫世代の家族の語りも聞かせてもらいたいというのが今後の課題です。
聞いて下さりありがとうございました。
