〈報告〉戦時性暴力問題連絡協議会 第100回水曜行動 in 新宿 沖縄 裴奉奇(ペ・ポンギ)さん (朴金優綺 パク・キム・ウギ)
アンニョンハシムニカ?こんにちは。朴金優綺と申します。
本日は 100 回目のデモという貴重な場にお招きくださり、誠にありがとうございます。
私からは、朝鮮半島から沖縄に連行され、沖縄で逝去されたサバイバー、裴奉奇さんの略歴と証言を紹介させていただきます。
裴奉奇さんは 1914 年、朝鮮半島南部の忠清南道で生まれました。
幼い頃に一家離散し、他人の家に奉公に出され、10 代後半での結婚も複数回破綻し、家を出ます。北部の咸鏡南道興南で「仕事せんで金儲かるところがある」「口を開けて寝ていたら、バナナが落ちて口に入る」と騙され、44 年に釜山・下関・那覇・渡嘉敷島へと連行され、他の朝鮮人女性 6 人とともに日本軍の「慰安婦」として被害を受けました。
45 年 3 月の慶良間諸島への米軍上陸後は、日本軍の炊事班として働かされ、飢えに苦しみながら戦禍を生き延びました。
8 月には米軍の捕虜となるも収容所から逃亡し、沖縄中を一人放浪し、飲み屋を転々としながら日銭を稼ぎました。
72 年に沖縄の施政権が日本に返還された際、3 年以内に「特別在留」許可を得なければ韓国に強制送還されるという噂を聞き、75 年、那覇入管に対して自身の戦時中の被害を証言せざるを得ず、これによって「特別在留」許可を受け、そのことが 75 年10 月の『高知新聞』の記事などで報じられ、その存在が知られることになりました。
その後、朝鮮総聯沖縄県本部の活動家であった金賢玉さん・金洙燮さんとの出会いを経て、77 年4 月 23 日には『朝鮮新報』という新聞で、自身の被害を初めて顔を明らかにして告発しました。その後、金賢玉さんや川田文子さんとの交流を経て、1991 年 10 月に逝去されました。
現在知られている限り、世界で初めて実名と顔を明らかにしたサバイバーでいらっしゃいました。
裴奉奇さんの証言を少しだけご紹介したいと思います。裴奉奇さんだけでなく、本名も知れず亡くなっていったサバイバーも記憶したいという想いから、裴奉奇さんとともに被害を受けた6人の朝鮮人女性について語っている部分を中心にご紹介します。
映画等でペポンギさんのウチナーグチ風の日本語を聞いてきたため、どうしても標準語では朗読できず、へたくそなウチナーグチ風の日本語になると思いますが、ご容赦ください。
「うちはアキコと呼ばれて年が一番上さね。キクマルが数えで 28 歳、ハルコとカズコが23 歳、スズランが 20 歳、ミッちゃんとアイコが 19 歳だったよ。キクマルは釜山の人。カズコは慶尚道、スズランは全羅道、あとの人たちは分からない。
ミッちゃんとアイコは若いからね、最初はいつも泣いてたよ。ハルコは4つになる子ども、親に預けて来たって、子ども思い出して泣くさね。ハルコは日本語ちょっと話せる。顔もきれいし、日本語話せるから兵隊に一番人気さね。スズランも日本語ちょびっと分かる。愛嬌もあるから兵隊に好かれたよ。キクマルは身体が大きくて、声も大きい。なにか、中国へ行 ったって話聞いたが。カズコはおとなしかったよ。うちもあんまり話なんかしなかったさね。」
「アッサミヨ、2~3日、昼ごはん食べるときね、真っ黒い、家ぐらいの B29が低く飛んで来るさ。家の上から。(中略)うちら四名は風呂場に座っておったさ。こんな空襲の時、風呂場にいて生きるね? 若い3名は炊事場に入ったよ。(中略)ああ、今度当たるね。弾に当たるね。アイゴ。弾は雨降り。ああ、怖かったんですよ。それで、飛行機が低く飛んで、アメリカ―声が聞こえよった。あーら、もっと怖かったよ。アメリカ―の声が。」
「戦の時、弾一発で死んでたら、こんな苦労しなかったがね。
だから、狂う。しょっちゅう頭が痛い。包丁で、もう、首を刺したい気持ちもありますよ。本当に。目が痛い、頭が痛い、神経痛。いやになって、サロンパス貼りながら鋏でイーイッ、首を刺したいときもあるが、それですぐ死んだらいいが、すぐ死なれなかったらまた重ね重ね哀れになるさね。」
「私は沖縄に来て30年以上おったけど、故郷に行ったのは・・・2、3回夢見たんですよ。夢でね、故郷に行っても、家もない、何もないでしょ。外をブーラン、ブーラン、歩くんですよ。(中略)この石の上に座っておってね、ひとりで、ああ、沖縄に来なければよかった、こんな夢見たことがあります。」(すべて川田文子『赤瓦の家』から引用)
私自身は、2012 年に金賢玉さんと初めて出会い、裴奉奇さんの晩年のお話を初めて聞きました。戦中よりも「戦後がもっとつらかった」と言っていたこと、忘れさせられていた朝鮮語や朝鮮料理を金賢玉さん・金洙燮さんとの交流の過程で思い出し、「고향사람이 좋다(くにの人がいいねぇ)」と言っていたこと、日本の朝鮮植民地支配や朝鮮半島の分断について理解し、晩年には裕仁に「謝ってほしいさ」「ウォンスルル カッパダルラ(かたきをうってくれ)」と伝え、戻りたくても戻れない故郷を思って涙しながら、朝鮮半島の統一を願っていたことなどを聞きました。
裴奉奇さんの生には、日本軍性奴隷制という日本の帝国主義と植民地支配に基づく国家暴力のみならず、その後の南北分断と冷戦構造、責任を回避し否定する日本の継続する植民地主義と歴史修正主義、そして沖縄に課せられ続ける米国の軍事主義に基づく構造的な暴力など、東アジアの近現代史を取り巻く暴力が幾重にも凝縮されているように思えました。
そのため、裴奉奇さんの存在を記憶していかなければいけないと強く思い、裴奉奇さんの告発記事が出た 4 月 23 日を記念し、歴史否定に反対し、日本軍性奴隷制問題と朝鮮半島の分断の克服を目指す「日本軍性奴隷制の否定を許さない 4.23 アクション」を 2015 年から有志たちと始め、今年で 12 年目となりました。これからもみなさまとともに、問題の克服を目指し、すべてのサバイバーを記憶していきたいと思います。
ありがとうございました。