金相喜(サンヒ)さんの証言 (トークと寸劇)

             (    )は、私が簡単な説明を挟んだ内容。

                              坪川宏子



私は、金学順さんたちの最初の「慰安婦」裁判を支援した都高教有志の会の一員で、仲間の3人と一緒に、4人のハルモニと彼女たちが亡くなるまで交流しました。その一人が金サンヒさんです。サンヒさんの証言は、「私が生き証人!」という言葉通り、「慰安婦」の生活がどのようなものであったか、よく分かるので証言に忠実に要約して紹介します。



サンヒさんは、1922年生まれで、大邱(テグ)で育ちました。父は文字を知らない人のために書類を作成する仕事をしていました。サンヒさんは父から直接教育を受けましたが、当時、女の子は読み書きできる程度でよいとされ、学校に行かず、編み物を習いました。

1937年15歳の時、夕方、友だちと一緒に、写真を受け取りに写真館に行きました。その帰り道で国防色の服を着た三人の男に呼び止められ、両腕をつかまれ、軍用トラックに放り込まれました。完全な強制連行です!

トラックの中には既に10人ほどの娘たちがいて泣いていました。途中で更に10人ほどを載せ、トラックには20人の娘以外は、全部軍人でした。そして、大邱駅から列車に乗せられました。



着いた所は中国の大連です。大連から総勢で100人くらいの女性が、貨物船に乗せられました。上海で下船した時に見ると、家々はみな爆撃で破壊されていました。サンヒさんたちは死の恐怖を感じたそうです。軍人たちは、100人を3つのグループに分け、別々に汽車に乗せました。



サンヒさんのグループ20人が連行された場所は蘇州でした。行先は「蘇州慰安所」と書いてある慰安所だったのです! 既に何人かの女性がいました。全てが、軍の管理で、来る人間も軍人ばかり、管理するのも民間人ではなく、軍人で、一階の管理室でいつも見張っていました。 (まさに軍直営の慰安所でしたね)



サンヒさんは1号室に入れられました。名前はサナエ。


最初に入ってきて、強姦したのは将校です。彼女は、「その時はものすごく血が出て本当に死ぬかと思った、今も思い出すと動悸がひどい」と言っています。将校は、サンヒさんが大量出血し気絶したような状態になったので、驚いていろいろ介抱し、最後に「私は福田と言う者だが、本当に悪かった」と言ったそうです。(将校が最初で)以後は、一日に15人、20人の兵隊を相手にするようになりました。兵隊は、朝8時から5時までで、夜来るのは曹長とか伍長とかの下士官です。 土・日は泊まっていく人もいました。(想像すると大変な長時間の強制労働ですね)



一週間に一度、性病検査の日がありましたが、検査の日も休みではなく、合格すれば、すぐ相手をしなければならないし、不合格ならば入院しなければなりません。 そんな状況なので勿論食欲もなかったのですが、福田中尉が部下に託して栄養剤とか持たせてきたので、それで栄養補給したそうです。


サンヒさんは、16歳でしたが、検査の度に入院しなければならなくなって、6ヵ月入院したことがあります。入院中に、山口という兵隊が来て言うには、「実は私はお前の検査をしている者だが、子宮がもうメチャクチャになっている。若いのにと可哀想になって入院措置をしているのだ、誰にも言うな!」と。そのうち、退院して良いということになり、また、苦しい毎日が始まったのです。サンヒさんは、もう本当に死のうと決意し、クレゾールを一瓶呑みました。しかし、半分くらいで手が麻痺して瓶を落とし、その音で気付かれて、命をとりとめたのです。



    蘇州では、テントの野戦病院でも働かされました、負傷者が多くて包帯が不足し、何度も洗濯したり、また、一度も練習することなく注射をやらされたそうです。(怖いですね) 



その後、サンヒさんが所属していた部隊は南京に移動することになり、サンヒさんたちも一緒に移動させられました。(まさしく従軍慰安婦ですね! しかし、政府は最近、従軍という言葉を禁止し、「慰安婦」だけにして、軍と無関係のように隠蔽しています)


南京の慰安所は、日本の老人に委託管理させていました。


女性は14人で全員が朝鮮人でした。サンヒさんがここで強調していることは「蘇州でも南京でもお給金といったものはありませんでした。兵隊たちが五〇銭とか一円とかくれるチップはもらったことがありますが、それ以外はお金の支払いは一切なかったし、自由に外出するなんて全くできなかったから使うこともできませんでした」と証言しています。(一般に軍が作った慰安所規定でも自由な外出は禁止です。




以下は時間の関係で発言しませんでしたが、蘇州では李香蘭の映画ロケの見物に行っていますが、これは兵士の娯楽=ガス抜きに同伴が許可されたのではないでしょうか)



ある時、軍から「南方に送る女性が7人必要だ」と命令が来て、サンヒさんは、もうどうにでもなれと思って、シンガポールへ行くことにしました。


もうこの頃は戦況が悪化していて、6隻の船団のうち、途中で2隻が連合国の攻撃で沈没しました。サンヒさんは運よくシンガポールに着き、連行された慰安所は「第二星の屋(ほしのや)」と言い、第一は将校クラブで、日本の女性たちがいました。


ここでも、全くの軍直営で、軍曹が責任者で、中国人がご飯を作り、下働きをしていました。ご飯は、もやし入りのおつゆ、ご飯、部隊から持ってきたたくわん、それくらいしかありませんでした。兵隊たちが時折、栄養剤、肝油を持ってきました。(なんて貧しい食事!)



自殺する人が多かったので、クレゾールの瓶の原液自体が水で薄めてあり自殺もできません。私たちの部屋の前には、兵隊たちがスキンを持って並び、一日に沢山の軍人の相手をさせられたので、もう、下半身はズタズタになりました。兵隊たちは若く、明日、戦場へ行くというその前に慰安所に来て泣いている兵隊もいて、兵隊も可哀そうと思ったそうです。



また、日本の軍艦が何隻も撃沈された時は、酒に酔った軍人たちが軍刀を振り回して暴れ、慰安所はまるで修羅場でした。潜水艦がやられたといっては、軍人たちは凶暴になり、酔っ払って、その怒りを私性たちにぶっつけ、ひどい目にあわされました。負け戦になればメチャクチャです。 (サンヒさんも体のあちこちに刀傷)



八月一五日だったと思います。ある日、突然軍人たちがいなくなり、三日たっても、誰もやって来ませんでした。(よく聞く話ですが、置き去りにされたのです!) 食べるものがなく、外に出たかったのですが、中国人から日本人と間違われ、襲われるのではないかと怖くて、慰安所に留まっていました。


  一週間ぐらいたった頃、やって来た朝鮮人に助けられ、収容所に行き、故郷に帰ることができ、戦後はソウルで、お金持ちの家政婦として働きました。だんだん体がきつくなったある日、ラジオで挺身隊対策協議会の呼びかけを聞きました。彼女はすぐに申告した、と証言されています。


  この証言の最後にサンヒさんは、「私は、夫がいて子供がいるというあたりまえの家庭生活を奪われて生きてきました。日本では、慰安婦は商売で金もうけをしたとか、強制連行はなかったとか、教科書に載せるなとか、歴史を歪曲する動きがありますが、私こそ歴史の生き証人です。日本は事実を認め、謝罪すべきです。」 と結んでいます。



証言を、一つひとつ、ありありと想像してみれば、日本がこのような非道な人権侵害をした事実を直視せず、逆に否定して責任放棄することは、みなさん、どう思われますか?



金相喜さんは、希望もかなわぬまま、2005年1月2日、永眠されました。 最後に、5分間いただいて、板垣正議員に、金サンヒさんが抗議したやり取りを朝日新聞の記事で再現したいと思います。



板垣議員が、高校の教科書に「未成年の女性を強制的に慰安婦として働かせた」という記述があるのに猛反対し教科書検定を厳しくせよ!と発言したのを知ったサンヒさんは「私が歴史の生き証人だ。(教科書の記述はは真実だ)」と抗議した場面です。



(参考)今回の協力出演者は、

*板垣正=田巻誠さん、

 冒頭で板垣がA級戦犯で絞首刑になった板垣征四郎の息子だというコメントをして下さいました。 

*金サンヒさん=坪川、 

*支援者=田巻恵子さん




   2024・11・20水曜デモ 寸劇ならぬ 寸朗読劇   1996・6・5 朝日新聞より


板垣氏 「当時は貧しさの中で公娼制度があり、恵まれない女性がいた。(慰安婦問題は)決してほめられたことじゃないし、お気の毒だと思うが、官憲が首に縄をつけて連れていったわけではない」


金さん 「私は15歳で拉致、連行され、日本軍部隊の慰安婦にされた。私が生き証人だ。 兵隊と一緒に前線を回った。連れて歩いたのはみんな軍人。慰安所から逃げようとしたら兵士に銃撃された。友人は自殺した。一部の日本人が、強制がなかったとか妄言を吐くので、胸の中がかきまわされる思いだ。私が発言しないとわからないのか、と 名乗り出た」


板垣氏 「すべて軍がねえ。信じられない。軍も関与したかもしれないが、すべて軍がやったのではなく、そういう役割の業者がいたのではないか」

支援者 「軍直轄の慰安所もあった」

板垣氏 「代償というか、おカネの支払いは?」

金さん 「いっさいない」

板垣氏 「そういう例があったとはまったく信じられない。当時の状態からそう判断する。政治家としての信念がある。日本人としての誇りもある。強制的に連れていったという客観的証拠はあるのか」

支援者 「金さんの証言を偽りといううのか」

板垣氏 「偽りとは言わないがすべて真実かというと大きな疑念がある。情緒的に やるべきではない。裏付けが必要だ。私自身判断の根拠はないと言っているのだ。原爆手帳を渡すにせよ、残酷なようだが、資料を整えて初めて客観的になる。悲惨な運命だったとは思うが……」

支援者 「強制があったのは三年前の当時の河野官房長官談話でも認めている」

板垣氏 「私は河野談話を認めていない」

金さん 「あなたは生死をさまよう前線には行っていないだろう。私には体中に傷がある」(あちこちの傷を見せる) 板垣氏 「その8年間に一銭ももらわなかったの」

金さん 「生死の境をのりこえた者に本当か本当じゃないという話をどうしてするのか。かつて戦場で私の体を汚し、五十年たって今度は私の魂まで汚すのか。断じてない !」



以上
                                   


私は、このサンヒさんの最後の言葉は、一生忘れない言葉になりました。

最後に、一つだけコメントをさせてもらって終わります。

板垣議員の言葉の中に、右派の典型的な思考パターンがあります。3つほどありますが、一つだけ挙げますと、理性的な事実に基づかず、「信念」だとか「日本人の誇り」というようなナショナルな情緒に基いて判断している、ということだと思います。           




(参考) やり取りの中で、支援者の1番目と3番目の発言は坪川で、板垣議員に都高教有志ネットとして「抗議文」を提出しました。