〈報告〉戦時性暴力問題連絡協議会 第80回水曜行動in新宿「サバイバーを記憶する」 台湾 李淳さん (山口明子)
今日は台湾の被害者李淳(Li Chun)さんのことをお話したいと思います。
李淳さん(1920年~2010年)
李淳さんは、1996年12月、東京でひらかれた「被害者は拒否 『国民基金』を中止せよ!12・15集会」に参加するために来日しました。
私はたまたま、その集会に来られた、韓国の鄭書云さん、フィリピンのトマサ・サリノグさんたちのお世話役でいっしょに新宿のホテルに泊まっていました。集会の席でも、もちろん、お三人それぞれがご自分の経験を証言されました。鄭さんはインドネシアに、李さんはフィリピンに連行されていました。フィリピンのトマサさんはご自分の住んでいたパナイ島を占領した日本軍によって父親を殺され、ご自分は兵営に連れ込まれて性暴力の被害に遭ったのですが、李さんはそのパナイ島に連れて行かれたのでした。
左から 鄭書云さん(韓国)、トマサ・サリノグさん(フィリピン)、李淳さん(台湾)
集会が終わった夜のことです。
3人は前日はじめて顔を合わせたばかりですが、鄭さんが部屋でお茶でも一緒にいかがですかということで、通訳もいないなか、頼りない私がトマサさんの通訳で、鄭さんはかなり、李さんは少し日本語ができるというところで、3人の話がはじまりました。昼間の話よりももっと印象に残っているのは、そのときのことです。
李さんは小さい男の子を抱えた貧しいシングル・マザーだったので、海外で給仕の仕事をすればもっと金が稼げる、しかもそれは、区役所の方からの斡旋だという話に乗せられて母親にこどもを預けて旅立ちました。ところが、現地(パナイ島イロイロ)についてみると、全く話が違ったのです。
日本語で説明するよりも手っとり早く、彼女はそれを身振りでみせてくれました。
部屋のお手洗いに飛び込んで身を縮めてみせたあと、どんどんと乱暴に扉を叩いて、腕をのばして長い銃剣で突き刺すしぐさ、そして壁際にぴったり身をつけた彼女の身体に切っ先が触れそうになったことを示して、本当に怖かったと肩を落として見せました。他の二人も私もその実演に息を呑みました。
それなのに、自分の方が謝らせられたのだと、彼女は土下座させられ、頭を押さえつけられて謝まるようすをみせました。「私たちみんな同じでしたね」と刀傷の残る韓国の鄭さんがいいました。「わたしたちは台湾ピーだったわ」と李さんはいいました。
公権力まで加担して、だまして連れて行き、暴力でねじふせて、性を蹂躙し、その上その相手を蔑称でよぶなど、そもそも人間として許される行為でしょうか。
もともと明るい性格の李さんは、あるとき、兵隊に、「おはようございます」と声をかけたら、何が気に入らなかったのか、いきなり平手打ちされたというのです。それがもとで、戦場で治療が受けられるはずもなく、片方の耳が不自由になりました。フィリピンはやがて、米軍が再び上陸して激戦地になり、李さんたちも兵隊とともに逃げまどい、日本の敗戦によって台湾人もまた米軍の捕虜となって帰国しました。 「生きて帰れただけよかったかもしれない」と李さんは言いましたが、家族のためと思って行ったのに、持ち物すらなしに帰ることになって、肩身が狭かったことでしょう。ですから、戦後ずっと働き続けて、一人息子を育て、生活してきました。
「戦争中、軍人は人間を蟻のように殺した」という李さんのことばが、今も、戦争のニュースを見聞きするとき、よみがえります。
人の命を奪い、女性の人権を蹂躙する戦争を日本が再び起こさないために、私たちは今、ここに立っています。