2021.8.14 メモリアル・デー オンラインセミナー「被害者から人権活動家へ ~サバイバーたちの30年、問われる日本~」(主催:日本軍「慰安婦」問題解決全国行動)で、尹美香さん(韓国国会議員、前正義連理事長)と北原みのりさん(作家)のお二人の基調講演がありました。

尹美香さんのお話の内容は以下からお読み下さい。→https://www.restoringhonor1000.info/2021/08/20211430.html



以下、北原みのりさんのお話を書き起こした内容をUPします。




基調講演 

「日本軍「慰安婦」運動から#Me Tooまで」


        北原みのりさん(作家)





  



北原です。

尹美香さんの話を、尹美香さんが空港入管に引き留められ、出てこれなかった不安の夜のことを思い出したりしながら聴いていました。ありがとうございました。





私の背景にあるのは、マリーモンドの金学順さんをイメージしたムクゲ(槿)です。


今日は金学順さんの声と共にあるような気持ちで、この30年の歩みについて話したいと思います。

私が頂いたテーマは「日本軍「慰安婦」運動から日本の#MeTooまで」ということです。91年の金学順さんの声、その後の日本軍「慰安婦」運動が、今の日本の#MeTooにどのような影響と気づきを与えてきたのかということを私の個人史をベースに話していきたいと思います。なぜなら、私自身が「慰安婦」運動に深い影響を受けて、そこから得た気づきがあまりに大きい人生を歩んでいると自覚しているからです。



♯Me Too ♯With You そして希望


日本軍「慰安婦」運動から学んだのは、性暴力被害に向き合う姿勢、徹底的に#WithYouであろうとするシスターフッドの力。そして、今、尹美香さんがお話された、希望です。



2013年の橋下徹の発言を機に私は「慰安婦」問題に関わりました。とても遅い方なんですけれども、もう絶対にこの問題に真正面から向き合わねばという思いで、この8年間「慰安婦」運動を率いる方々から学んできました。

その運動に出会ったことで、私の人生も変わりましたし、フェミニストとしてのたたかい方は完全に、大きく影響を受けたと思っています。



2017年には梁澄子さんと日本軍「慰安婦」問題を若い世代につなぐための「希望のたね基金」(キボタネ)を立ち上げ、2018年には今日の背景にもありますけれども「慰安婦」サバイバーに敬意をはらい、記憶するための韓国の社会的企業である「マリーモンド」をキボタネの事業の一環として日本でスタートさせました。

今年はまた、先ほどご紹介いただきましたけれども、ナヌムの家に暮らす女性たちに絵を教えていた李京信(イ・ギョンシン)さんがハルモニたちとの絵の授業の時間を記した『咲き切れなかった花』を出版するために、私が経営する会社の中に出版部門をつくりました。



2019年には、性暴力に抗議するデモを立ち上げて、今「フラワーデモ」と名付けられて、全国47都道府県、そしてロンドン、バルセロナで、毎月11日に性暴力に抗議するために街に立つ運動へと広がりつづけています。


この8年間を振り返れば、韓国社会は民主主義革命が起きて、女性の人権を訴える声が公論化されて、世界の#MeTooを牽引する動きが活発化した激動の時代でもあったのではないかと思っています。その変革の時代に挺対協の女性たちと出会えたこと、その後、正義連の中心的存在にもなったマリーモンドの若者たちと一緒に仕事ができていること、そしてなにより今日ここでお話ししてくださった尹美香さんの闘う姿勢から学んだことはあまりにも大きいと思っています。


人権運動家として活動されていた金福童(キム・ポクトン)さんがどのように社会から尊敬される存在になっていくのかをこの7年間目の当たりにし、韓国の「慰安婦」運動がその声によって、性暴力サバイバーの声が聞かれる社会になってきたことを知ってきました。


そのような「慰安婦」運動から学んだのは、あらためて#WithYouであり、そして希望です。


想像を絶する凄まじい性暴力被害の声をあげた女性たち、その女性たちに人生(文字通りだと思いますけれども)、人生まるごと寄り添って、その声に徹底的によりそうことで世界を変えていった「慰安婦」運動がみせているのは、この世界を私たちの声によってより良いものにしていくべきなのだという未来を見せてくれた希望でした。



「性暴力」という言葉が使われ始めた時代


今日は金学順さんの声、その後の「慰安婦」運動が、女性運動、日本の運動にどう影響を与えてきたのかの話なんですけれども、ちょっと私の話を少しさせてください。


私は、1996年に女性向けのプレジャーグッズを販売するLOVE PIECE CLUBというお店をはじめました。性に関する仕事も今年で25年続けてきたことになるんですけれども、その根底には1989年に起きた2つの性暴力事件がありました。


当時を振り返ってみると、1989年私は高校を卒業したばかりだったんですけれども、性暴力という言葉もまだ一般的に使われていませんでした。

2つの事件っていうのは、ひとつは学校帰りの女子高生が19歳の男性たちに拉致されて2カ月間監禁された上、殺された事件。もうひとつは、4人の幼い女の子たちが、性暴行の上殺された事件でした。

この2つの事件報道が、私は本当にショックだったんですけれども、女性の容姿が問われ、被害者を責めるような論調や、幼女を殺した男性が児童ポルノをたくさん持っていたことで、児童ポルノ批判をするなというようなリベラル派からの声っていうのが大きく溢れていました。



  その中で、今パワポにあ 
げたんですけれども、女性た ちの動きというのは、日本で もすごく活発になった時代だ と思います。


「性暴力もう許さない」「許すな性暴力社会」と大きくかかげた集会に私は行ったんです。はじめてのフェミ集会がたぶんここだったと思うんですけれども、この壇上で本当に怒って、自分ごとのように「許さない」って声をあげる女性たちの存在がどれほど響いたか、どれほどそれが安心だったかということをすごく強く記憶しています。「これは私たちの事件だ」と声をあげたフェミニストに強く共感しました。



挺対協が1990年につくられた背景には、1980年代にキーセン観光批判など、韓国の女性運動が組織化され、性暴力、性売買が「問題」として公論化される過程があったと思います。同じように日本でも80年代から90年代前半にかけて、女性への暴力がセクシュアルハラスメントやドメスティックバイオレンスと名付けられ、性暴力という言葉が女性運動から発せられ、それに抗うのだという力が集積していた時代でした。




その時代のただ中で「慰安婦」運動は広まっていったのではないかと思っています。金学順さんの声は、多くの女性たちの人生を揺るがす大きな声として響きました。

これは、「希望の種基金」を立ち上げた時につくった「慰安婦」運動史のなかで、金学順さんの声を紹介したものです。


1991年の朝日新聞で「慰安婦」という言葉で検索したんですけれど、150件以上の記事が出るんですね。でもそれはほとんど8月14日の記事ではありませんでした。私自身も当時はじめて金学順さんの声を聞き、名前を知ったのはメモリアル・デーの8月14日ではなくて、その年の12月6日、金学順さんが「太平洋戦争犠牲者遺族会」の原告団の一人として来日され、日本で記者会見が開かれたことがきっかけでした。

私は大学生でしたけれど、凄まじい数のカメラに囲まれて、金学順さんが全身で悔しさを訴える姿は忘れられません。

もちろん当時の若者として、「慰安婦」という存在は表現物の中で知っていましたが、だからこそ、実在する声として出てきたことの、そしてその声が出るまでに40年近くかかったんだという事実も含めて非常に衝撃を受けました。



当時、日本はバブルの真最中でした。「いってらっしゃい、気をつけて」っていう、外務省がコンドームを男性に持たせるようなポスターをつくったり、東南アジア行きの飛行機に乗れば、もう買春目的の男性があちこちに座っている。街にはフィリピンの女性たちが溢れていて、男性は性を買うっていうようなことが、当たり前のように、今よりもっと露骨にあるような時代で、この時代に、そうですね、性暴力が、性搾取が、激しい性暴力が起きていたって、過去のことを、こうやってちゃんと国に声をあげること、今まで男性たちにとっては戦地の癒しだったり、買春だったことが、性暴力だったんだというすごい転換を起こした。

これは当時日本に暮らす若者としても大きく、大きく響いた、金学順さんの声でした。




 
これは私がはじめて「慰安婦」のことを知った漫画なんですけれど、1984年に石坂啓さんが書かれていたこういう表現物で、私たちは「慰安婦」のことがあった。それは「過去の悲しいこと」としてあったということを知ったということでした。


金学順さんの告発の後なんですけど、1990年代、性暴力問題、戦時性暴力問題は国際的に女性運動の要のテーマになっていったと思います。


1995年にひらかれた北京女性会議では、「慰安婦」問題と戦時性暴力が大きく取り上げられました。この時に、北京会議に参加していた沖縄の高里鈴代さんは、北京女性会議から帰国した空港で、米兵による少女暴行の事件を知り、そこから米軍基地が、性暴力の温床であることが告発され、大きな性暴力抗議運動、沖縄の基地反対運動へと広がっていきます。





この写真、すごいなぁと思ったので持ってきたんですけれども、10月21日の沖縄県民決起集会の様子です。



やっぱりこの時、「慰安婦」の女性たち、金学順さんをはじめその後に続いた女性たちの日本政府を提訴する声が、間接的であれ、直接的であれ、日本の女性運動や性暴力に抗議する声に、本当に大きな力を与えたと思います。たたかう者の正体がだんだん明確に見えてきた、そういう時代だったのではないかと思います。


私も、90年代のうねりがあるようなその時代に、性暴力に抗議することは、私たちの性を安全に、自由に、権利を主張することであるというような思いで、今のお店を起ち上げました。その後に日本で起きた2000年代の長い長いフェミニストや、「慰安婦」問題に対する激しいバックラッシュを思えば、フェミニストとして、性に関わる仕事をするんだと声をあげられた、もしかしたら1996年は最後のタイミングだったんじゃないかと思ったりします。




 これは、韓国のフェミニストジャーナルの『ifブックス』なんですけれど、私が「慰安婦」運動に長い間、直接関わることはなかったんですけれど、理由を考えてたんですが、90年代はこの問題、あれだけ大きな声をあげれば、絶対すぐに解決すると思っていたこと、だけどその後に、「アジア女性基金」を巡る複雑な議論が運動から私を遠のけてしまったな。正確に理解する力が、私になかったなと思います。



2000年代ー日本のフェミニストや「慰安婦」運動に対する激しいバックラッシュ


そして、2000年代になれば、日本のフェミニストや「慰安婦」運動に対する激しいバックラッシュのなかに、私自身も巻き込まれ、自分の仕事を守ることが、本当に精一杯だった時代があったのではないかと思います。


そして一方で、「慰安婦運動批判」というのが、おもにリベラルな人々や、アカデミアのフェミニストたちからもあったことが、もしかしたら影響を与えていたのではないかなと思います。


2000年代の「女性国際戦犯法廷」が正当に評価されず、メディアでドキュメンタリーが改竄されても、政治家の致命的な問題にならなかったりとか、そういう90年代が幕を閉じた瞬間に、濃厚なバックラッシュの空気が生まれていき、とくに「慰安婦」問題を日韓関係としてとらえて、中立を装って、「慰安婦」運動批判を繰り広げるような、朴裕河さんの本だとか、2000年代に出版されたこと。それを日本のフェミニストが評価するような、そういう社会のなかで、「慰安婦」問題というのが、公に「何が正しいか分からない」問題として、2000年代がつくられてしまったのではないかと思います。


だけど一方で私がこの本を出したのは、そうは言っても90年代から2000年代にかけて私が出会った韓国のフェミニズムには本当に強い勢いがあったということです。当時20代だった女性たちがこの『ifブックス』を作ったんですが、第一号がすごいなあと思ったのは「著名人によるセクハラ問題」なんですね。本当に、今に続く#MeTooの原点、もちろん今に続く#Me Tooのもともとの原点は金学順さんだと思うのですが、そういったフェミニズムの動きが、こんな格好いい冊子で、90年代に20代の女性たちが作っていた。で、もちろん彼女たちは、「慰安婦」問題、金学順さんの声に触発されて水曜デモに参加していた女性たちです。


 長いバックラッシュの中で「慰安婦」問題がドンドン語れない空気が2000年代にあったと思うのですが、でも2013年ですよね。当時の大阪市長だった橋下徹の「慰安婦は必要だった」という発言は、私にはやはりとどめだったんですよね。私と橋下徹は同世代ですので、同世代の男性はこんなことを発言して、しかもそれが人気のある政治家としていられる社会は、やっぱりもう我慢できないという思いで、この橋下徹の抗議集会で私は梁澄子さんと出会うことができました。金学順さんが声をあげられてから、当時22年が経っていましたが、私が「慰安婦」問題に関わろうとしなかった時間を埋めるように、梁さんを通して、挺対協の方々、韓国の「慰安婦」運動の歴史、そして今この写真にありますが、韓国の女性運動を学ぶ機会を多く得たと思います。



この時、2013年~15年くらいは、「慰安婦」問題に日本でも本当に厳しかったと思うのですが、私が初めてメモリアル・デーのデモに参加したのは、2013年なんですよね。その時のメモリアル・デーがまだトラウマとして残っているくらいに沿道にたくさんのネトウヨたちが来て、金学順さんの写真を持っていると、「なんて読むんだ」「源氏名か」「嘘つきだろう」っていう怒声ですよね。そして歩いて行くと、新宿のルミネあたりで、若い女性が「私のおじいさんはそんなおじいさんじゃない」と泣き叫んでいる。そういうような空気がドンドン生まれてしまっている。女性の人権問題として「慰安婦」問題を語る空気が完全にこの国から消えてしまった、消えようとしていることを身体に突き刺さる怒声の中で実感して、とてもコワかったことを覚えています。でもそういう空気の中でもあきらめずに、このように、韓国で今何が起きているのか、韓国のフェミニストたちが何をめざしているのかということを学ぶ機会を与えてくれたのが梁澄子さんであり、尹美香さんや、「慰安婦」運動に関わってきた女性たちでした。



当時の韓国のフェミニズム、2010年代、#MeTooの動きがとても激しく動き始めたのではなかったかと思っています。私が日本で失ってきた、奪われてきたものの正体を韓国に行って取り戻すようなそういった時間。なんでここまで91年から、韓国社会と日本社会は4半世紀を経て、ここまで違ってしまったのかってことを、ことあるごとに突きつけられ、考えさせられて来ました。




これ2000年の郡山(クンサン)で、性売買集積地で亡くなってしまった女性たちの魂を鎮魂するためのタンポポ巡礼団に参加した時のもの。下は釜山で、性売買集積地で、性産業で働いていた女性たちやその女性たちを支援する人たちがリアルな性売買集積地を閉じていく過程の話を聞きながらいろいろ知ることができる機会でした。




そして、尹美香さんも何度もおっしゃっていましたが、#MeTooと#WithYouがどれほど「慰安婦」問題の、性暴力被害者とともにあることで重要な考えなのかということなんだと思うのですが、私は初めて「戦争と女性の人権博物館」に行った時に、この電話の前で止まってしまったというか、動けなくなっちゃいました。

これを飾られていることの意味が、まさに#WithYouだなと思ったんですけれども、「まずあなたの声を信じる。だから声を聞かせてください」っていう最初の挺対協に置かれた電話ですよね。その電話が飾られていました。この電話が渋すぎて、格好いいんですけれども。


金学順さんがなぜ声をあげられたのか。その前に、「あなたの声を聞かせてほしい」っていう声を聞こうとする女性たちの存在があったこと。その意味がこの電話一つに象徴されていると思います。これを見た時に、「日本は#MeToo起きないよね」とか、「フェミニズムの力が弱い」とか、そういうことをズッと言われてきましたけども、そうではなくて日本社会で被害者の声を聞く力がどんなになかったかということ、女性の声を、女性の訴えを信じようという力がないっていうことを韓国社会の「慰安婦」運動のなかで、私は見せつけられたというか、もう直視せざるを得ないような状況になりました。

だからこそ尹美香さんを始めとする、問題に出会って「慰安婦」サバイバーの声を聞いて、そこから離れずにその声を聞いて責任を引き受けようとしてきた、この活動をしてきた女性たちの存在を変えてきたものの大きさがこの一台から始まったんだなという、そういう電話です。




さらに2015年12月の「日韓合意」を機に韓国の空気が刻々と変化しているのを覚えています。2016年の最初の水曜デモで尹美香さんが「まだ2015年が終わっていない」と話されたのを覚えていますが、この年に革命が韓国では起きましたよね。2016年、これは私が2016年12月31日にキャンドル・デモに参加した時に撮った写真なんですけども、光化門(カンファムン)の前で何十万人もの人たちが集まって、社会を変えようとしていた。


そしてこの年の6月9日には、日本と当時の韓国政府が作った和解と癒し財団に抗議して1万人の市民と団体が正義記憶財団を作った。私はこの名前に、「韓国すごいな」と何度も言いますが、思いました。和解と癒し、お金による和解や忘れることによる癒しではなくて、被害者が求めているのは自分たちの声が聞かれる正義であり、自分たちのことが記憶されることなんだというということから付けられた正義記憶財団。その正義記憶財団に触発されて、翌年の同じ6月9日に、梁澄子さんに代表になっていただき、希望のタネ基金を作ることができました。この立ちあげの時、尹美香さんも来てくださって、「希望」について話をしてくださいましたけれども、あの時、本当に若者たちがこの問題に関わってくれるのかどうかということが半信半疑、7割不安だったんですけども、今日も夜イベントがありますが、多くの若者たちが実はこの問題にずっとモヤモヤしていて関わりたい、知りたいと思っていたことがこの数年間でわかりました。


でも一方で感じさせられたのは、こうして私は韓国に通って、希望のタネ基金も作ったけれども、韓国すごいなって言いながらも、たとえば2017年のこの時って、伊藤詩織さんが名前を出して記者会見を開いたばかりでしたけれども、その時、すぐ動けたかと言うと、動けなかったんですよね。で、なんで動かないのかなっていうことを、すごい自分で「韓国すごいな」「こんなに学んですばらしいな」って思いながらも、自分で日本社会で何かアクションを起こすということがなかなかできない自分っていうことが、この頃すごく突き刺さるようになってきました。


フラワー・デモへの道




その翌年なんですけれども、さっきフラワーデモの話をしていただいたんですけが、私が初めてデモを呼びかけたのは2018年の東京医大の入試差別事件でした。その直前に、私は釜山に行っていて釜山のフェミニストたちの話を聞いて、どれだけスピーディに動けるかということが大事なんだという話を聞いたんですね。で、戻ってきた翌日にこの入試の事件が報道されていて、これは声をあげなければダメだと思って、「東京駅に集まりましょう」ってことを、何も考えずにツイッターしたところ、次の日、100人以上の人がこういうプラカードを持って集まってくださったんですよね。でその晩、おそらく被害者の方、東京医大の試験を受けて落とされた女性はいなかったんじゃあないかと思います。だけど、「慰安婦」運動もそうですけれども、被害者がすぐに名乗りあげることって本当に難しくて、なのでこの日の晩、デモをした後に帰って、弁護士の人と話して、被害者の方に呼びかけをしました。「もし自分が当事者ではないかと思う方がいたら、弁護士とつなぐから声をあげてください」と言ったら、次の日からポツポツと、医学生はすごく勉強しますので、「私は24時間中17時間、ズッと自習室で勉強しています。泣きながら勉強しています。このニュースを聞いてから」「医学部を何年も落ちてあきらめた女友だちのことを思い出して泣いています」とか、そういう声が届き始めたんですよね。やっぱり、被害者は声をあげるのは難しい。だからこうやって#WithYouをして、「声をあげてください」って言う存在であるってことが、一つの女性運動の在り方なんだと思いました。


そのあと先ほど、柴さんがお話してくださった性暴力問題の事件がつづけて4件、2019年の3月に起きました。明らかに裁判官の性暴力への無知が露呈するような内容でしたし、韓国だったらすぐ、デモが起きるんじゃないかって思ったんですけど、日本で起きたのは、「おかしい」「こわい。こんな事件、こんな裁判」って声をあげる女性たちに対して、むしろリベラルな弁護士たちが、女性たちの怒りをなだめるような「無罪判決を批判しないでください」とか「判決文を読まずに批判しないほうがいいですよ」っていう女性の怒りをなだめすかすような声が、すごくネットで目立ったんです。で、おかしいものは、おかしいと。やっぱり言っていいんだよ、という思いで、東京医大のこともあり、わたしたちも集まろうと。その時、わたしがイメージしたのは、光化門前のキャンドルデモだったんですね。


広い場所で、これは東京医大に抗議するけれども、わたしたちは、抗議する相手は誰かと言ったら、裁判所だけじゃなくて、もう日本社会そのものだと。その時に集まるのは光化門前みたいな広場を日本は持ってないですけれども、東京駅がすごくきれいに整備されたばっかりだったのと、とても広く、光化門前に似ているなと思ったので、ここでやりたいと声をあげました。

キャンドルではなく、花でしたけれども。花はマリーモンドをもちろんイメージしていて、#WithYouの気持ちを表明するための花を持って東京駅に集まりましょう、と声をあげました。それがこの光景でした。




いてもたってもいられないよっていう思いで、この日、600人近くの女性が集まりました。この時、わたしたちは、用意していた、準備していたスピーカーが8人いたんですけれど、その人たちが話し終わったあと、私もっていうふうに、次々と手があがったんです。

子どものとき、ずっと性暴力をうけてきて、学校や就職がままならない、フラッシュバックして。人生でようやくつかんだ、非正規のアルバイトで、今セクハラをうけていると。どうしてこんなふうに被害者が転々とする人生を送らなければいけないんですか、という20代の女性の叫びや、そういう声が溢れるように出てきたんです。


それまで、被害者は喋れないんじゃないかと、ずっと言われてきたけれども、そうじゃなくて、わたしたちは、安全に喋れる場所が必要だったんだ。わたしたちは、あなたの声を否定しないっていう場所が必要だったんだ。だから、わたしたち、私が友人たちと本当に韓国の「慰安婦」運動、いろいろなデジタル性暴力の運動、学んだ#WithYouをもってきてくださいっていう声が、これだけ多くの人の声を引きだしたんだということが、2019年の4月夜に起きたのでした。


その後、思いがけないことが起きたのは、このデモが1回で終らず、翌月に大阪や福岡、名古屋、いろんなところで、わたしたちもデモをしたいという声があがってきたこと。そのなかで、本当に驚いたのは、山梨であったり島根、九州、長野、小さな駅で一人でもいいから、立ちたいっていう方がでてきたことなんですよね。それは、その性暴力が自分たちが暮らす本当なら一番、安全であってほしい通学路や通勤、家庭のなかで起きている暴力だから、自分たちが生きてる日常の場で声をあげたいんだという思いがどんどん、広まっていったんですね。それは、誰も予想してこなかったことだったので、わたし自身も。そのときに初めて、5月すぎてから、このデモの名前をつけようと。でも、これはフラワーデモでいいんじゃないかと。フラワーデモという名前が、今、性暴力に抗議するデモの名前として定着するまで、47都道府県。そして、2ヶ月前からロンドンでも始まって拡がってきています。


被害者の声を中心に「声の公論化」



私の韓国で学んだ、そうは言っても韓国もそこまで夢の国じゃなかったことが、最近尹美香さんのお話しでもよく分かりましたけれど、力強い運動の目的は何であるか、「声の公論化」であるということを「慰安婦」運動を通して、つきつけられるというか、学んできたことです。


2019年にフラワーデモで声をあげて、1年間、本当に必死の声を11日になったら女性たちが集まって声をあげてきたんですけれども、その結果が2020年2月、3月、そして12月。最初のきっかけとなった4件の無罪判決。1件は残念ながら1審で無罪が確定してしまったんですけれど、それを除く3件すべてが逆転有罪の判決になりました。驚いたのは新しい事実関係がまったく出てこないなかで、裁判官がまったく違う正反対の判決をだしたことなんです。

たとえば、3月12日の名古屋高裁ですと、19歳の娘が長年の父親からの性虐待を訴えた事件ですけど、1審では娘がアルバイトに行っていたことや、自分からお父さんの車に乗ったことを言って、判断ができる状況だった、だから無罪としているんですね。でも、2審の判決は、まったく同じ事実をもって、日常を振舞うこと、だいじょうぶだって振舞うことこそが、性被害者の日常なんだっていう判決がでたんです。判決をその場で聞いたんですけど、号泣していました。そういう判決がでるために、社会の声を被害者から見えるものにしてゆく、被害者から見える現実を声にしてゆくんだということをみんなが本当に必死にやってきた結果がここに出たんだと思います。


「慰安婦」運動が、戦時性暴力という問題を国際世論化して韓国社会を変えようとして変え、多くの若者たちがこの運動につづくものとして、つながってくるような、そういうものを見せてくれた、被害者中心主義をつくってくださったことの延長線上にフラワーデモもあったんだと思います。


これだけじゃなくて、この何年間か、韓国フェミ二ズム文学は、日本に本当に大きな影響を与えています。例えば、江南(カンナム)の事件。女性であることを理由に殺されたフェミサイドに対して、たくさんのポストイットが江南の駅に貼られたニュースは、日本でも繰返し、女性たちのメッセージとして届いたんですね。そして、今日。先週の小田急線事件。小田急線のなかで、男性が幸せそうな女性を見ると、殺したくなると、警察で話して、女性が7ヶ所も切りつけられる事件が起きたんですけれど、夕方、新宿の小田急線の近くで日本のフェミサイド事件に対して、一緒に立ち上がろう、ポストイットを貼ろうという運動が起きています。それも、韓国の運動につらなるように、私たちはもう、黙るべきではないのだ。黙らないで社会を変えてゆこうという希望を見せてくださった性暴力被害者の闘いがあったからこそだと思っています。


もう立ちどまることができない状況に私たちは今、あるんじゃないかと思います。


咲ききれなかった花ー姜徳景さん



アジュマ・ブックスの本ですけれど、最後に、この本の紹介をしたいです。クラウドファンディングでつくられた本で、たくさんのかたのご協力をいただきながら、「咲ききれなかった花」という本です。「姉さん、絵を描くと、気持ちが少し楽になるの」と言うのは、後ろ姿があります姜徳景(カン・ドッキョン)さんが、金順徳(キム・スンドク)さんに仰った言葉ですけれど、この本を書かれたのは、李京信さんというナヌムの家で絵を教えていた女性です。2018年に本を書かれるんですけれど、きっかけは、「日韓合意」でした。「日韓合意」で、被害者の頭ごしに行なわれた「合意」に、自分が見た90年代に見た女性たちの声を、記憶している声を出すべきだという使命にかられて、このような本を書いてくださって、その本を梁澄子さんが訳してくださいました。


李京信さんは私と同世代ですが、圧倒的な性暴力被害者であり、ずっと年上の女性たちに、いちばん何ができるのかと、怖れながら、だけど女性たちの声に導かれるように自分自身が変わってゆく。そして絵を描くことによって女性たちも期せずして過去に向かいあい、絵を描くことが壮絶な性暴力のトラウマ治療になってゆく。その時間が丁寧に描かれている本です。


こういった記憶を、聴いたものが後につなげてゆくのだという、そういう闘いが今、行なわれてきている。行なわなければいけない時代になっているのだと思います。たぶん李京信さんのことを梁澄子さんも、これは自分だっていう言いかた、こういう女性たちが本当にたくさんいたんだって、おっしゃられますけど、聴いた声を自分が引受ける。それで、離れられなくなって、この運動をずっと引き続いてきてくださった尹美香さん、梁澄子さん、そして今日、参加してくださっている多くの方々、存在がこの運動を率いて、その存在、運動が今の日本の#MeeTooに確実に繋がっているのではないかと思います。



 これも希望のたね基金でつ くった歴史のなかで姜徳景さんの声です。

 「私たちのことを全世界の 人々に知らせてほしい」。


尹美香さんのお話のなかでもありましたけれど、死の淵で姜徳景さんが仰った言葉。この言葉を直接聴いた尹美香さんがずっと守られて、ほかの多くのハルモニたちの声と生活に寄り添いながら、運動を率いてこられました。その過程で多くのハルモニが世を去って、去年は度を越した正義連批判のなかで、平和のウリチプを守られてきた孫英美(ソン・ヨンミ)さんが6月6日に自死されました。

希望をうみだしながらも、その真ん中におられた方々は、本当に絶望の淵に何度も何度も立たされた、厳しい運動だったのだと思います。

それでも、「わたしたちのことを全世界の人々に知らせてほしい」という姜徳景さんはじめ、多くの女性たちの声を引き受けて約束された、託された約束を守るために、これからも、私たちは希望を生み、闘い、守り抜くことをつづけてゆきたい。いかなければいけない。つづけてゆこうと思います。そのことを今日のメモリアルデーにあらためて誓いたいと思います。


聴いていただいて、ありがとうございました。