私たち山西省明らかにする会は、中国の山西省で、日本軍により性暴力被害を受けたおばあさんたちの裁判を支援し、交流を続けてきました。

山西省明らかにする会が支援してきた裁判の原告は遺族を含めて10人ですが、今日はその中のおひとり、尹玉林(いんゆいりん)さんのことをお話したいと思います。



尹玉林さん


山西省の省都は太原ですが、尹玉林さんたちの住む村は太原から車で何時間かかる黄土大地の盂県という貧しい農村です。



日本の中国への侵略は、1931年の柳条湖事件、1937年の盧溝橋事件、1937年12月の南京大虐殺を経て、いわゆる三光政策、殺しつくし、奪いつくし、焼き尽す、そして女性たちには数えきれないほどの強姦を行い、残虐の限りをつくしていきました。




そんな中で、山西省は日本軍は戦略上重要な地域であったために山西省にも侵攻していき、尹玉林さんたちの住む 盂県にもその手を進め、戦闘と、虐殺事件が繰り返されていきます。尹玉林さんが住んでいた河東村はそのひとつです。 

 


尹玉林さんは、1922年生まれ、15歳の時に25歳も年上の夫と結婚し、河東村に住んでいました。


194010月に子どもを産みましたが、、ちょうどそのころ村を占領した日本軍が、河東村のまんなかと 山の上に砲台を作り始めました。 日本兵が村の中に入ってきた時は、夫が急病で死んだばかりで、まだ埋葬も済ませていなかった時でした。その時は村人たちと一緒に子供をかかえて村から逃げましたが、いつまでもそうしていられないので村に戻り、やっと夫を埋葬しました。


翌年1941年、 日本兵が2.3人やってきて尹の家にやってきて、尹玉林さんは強姦されました。それから日本兵は毎日のようにやってくるようになりました。


1人が強姦し、もうひとりが外で見張りをするのです。いっしょに住んでいた姉の尹林香さんも強姦されています。日本軍に支配されていたこの村では、強姦が常態化していたのです。彼女への性暴力は、家のなかだけではありませんでした。時には羊馬山という近在の村々が見渡せる山の上の日本軍の拠点のやおとんに連れて行かれて、、そこで輪姦されることもありました。


そこで犯された最初の夜のことを、忘れることができないと、語ってます。


「まっくらな やおとんのなかで、裸にされて、ろうそくの灯で病気がないか体中を調べるのです。ろうそくのしずくが身体にたれ、熱くて痛くて恥ずかしくて、本当に恐ろしかった」と語っています。

 


この山の上の日本軍の拠点の やおとんには、他の女性たちも拉致され長期間にわたって監禁されますが、尹さんは幼い子どもがいるので、お乳を与えるため、よく朝、家に帰ることは、日本兵もとめませんでした。


尹さんの母親は、ニンジンをかみ砕いて子どもに与えていましたが、お乳を十分に与えることができず、子どもは一歳ちょっとで死んでしまいました。


この村では、日本軍よる性暴力は常態化していたのですが、尹さんはなんで自分こんな目にあわなければならなかったのは「面子がなかった」からだと言っています。


面子というのは、立場がなかったということです。夫がいなくて守ってくれる人がいなかった言うことです。 翌年日本軍はまだ河東村にいましたが、再婚して陽曲県という村に移ってようやく、日本兵から逃れることができました。結婚しても子宮の病気を患い、なかなか子どもができませんでしたが、33歳になってようやく子どもが来ました。夫には被害のことは話していません。


50年以上たってもそのころの事を思いだすと、こわくて手がふるえ、湯飲みのお湯も飲むことができません。


山西省性暴力被害者の裁判の提訴は、1998年の10月で、裁判支援の明らかにする会の結成もその年の5月ですが、2年前の1996年には代表の石田米子さんはじめ数人で尹玉林さんたちの聴き取り、現地調査をおこなっています。その時は、私は行ってませんが、省都太原まで来てもらったのですが、弁護士の日本人男性が挨拶した時に、尹玉林さんはガタガタ震え出しました。50年ぶりに聞く日本人男性の声、となりの部屋に移って、聞き取りをしている時も震えは止まらず。こんなことを話したら 仕返しをされるのでないかと怯えていたのです。


 

裁判はほぼ全面的に事実認定されましたが、2005年、最高裁で敗訴になりました。

敗訴後も 私たちは 春と夏 訪中し大娘たちの家を訪問します。

尹玉林さんの家は、息子さんと同じ敷地ですが、尹さんだけは隣のやおとんに住んでいます。やおとんというのは、黄土台特有の住居で、黄土の利用した横穴式の住まいです。尹さんは、やおとんのなかでひとり暗い表情をしていることもありましたが、私たちを冗談を言って笑わせてくれるひょうきんで愛嬌のある可愛いお婆さんでした。


2012年 私たちがその夏8月に訪問した時は、かなり痩せて衰弱していました。

私たちが帰るときはいつも、外までできて、いっしょに記念写真をとるのですが、その夏は起きあがって、外まで出てくることができませんでした。

尹玉林さんは、その1か月余、10月7日になくなりました。92歳の生涯でした。