8月末から9月初旬にかけ、かつて「セレベス」とよばれ、敗戦までの3年間日本軍が占領したインドネシア、スラウェシ島南スラウェシ州のおばあさんたちを訪ねました。南スラウェシの被害女性たちの聴き取りを重ねてきた鈴木さん、京都から3名、韓国から写真家の安世鴻さんが合流しました。南スラウェシでは13,4歳という低い年齢で日本軍に拉致された被害者が多く、生存者は90代半ばを迎えます。


 


2020年2月、コロナ禍の直前に訪問してから4年。その時にお会いした9人の女性たちのうちミンチェさん、タシヤマさん、ジャヘランさん、3人の方がこの4年間の間に亡くなられました。一度でもお会いしたら、その方は「日本軍性奴隷被害者」という総称ではなく、名前と表情と温もりを持ち、長い苦難の人生を生き抜いた、たいせつなひとりの人になります。生きて一刻も早い再会を!と切迫した思いでした。


 


●ミンチェさん タシヤマさん (故人)


ミンチェさん


タシヤマさん


8月29日、州都マカッサルに到着し、ミンチェさんを看取った支援者のお宅でお話を伺い、お墓に手を合わせました。ミンチェさんは2013年、鈴木さんの聴き取りで初めて被害をあかし、2014年に日本で開催されたアジア連帯会議で証言されました。


4年前、同じ被害者のタシヤマさん宅で暮らしていたミンチェさんは、「遠い日本に行ってすべてを話したのに、日本政府は何も謝ろうとしない。責任を取れ!」と私たちに激しく迫りました。14歳でトラックの日本兵に拉致され、その後の気の遠くなるような時間を生き抜いたミンチェさんは、誇り高く、誰かの世話になるのを拒んで一か所に定住することがありませんでした。ミンチェさんを迎え入れたタシヤマさんの家も出て、行方が分からなくなり、モスクで発見され、最期は支援者のお宅で手厚く看取られました。ミンチェさんが最後まで求め続けた「ここではないどこか」は、生涯にわたってミンチェさんを踏みにじった日本からの「心からの謝罪」と、「誰の世話にもならずに生きられる」補償ではなかったかと思わずにおれません。


 


●チンダさん



翌朝、マカッサルから車で3時間ほどのパレパレに向かい、チンダさんを訪ねました。


チンダさんは2016年に来日し、議員会館や外国人記者クラブ、大阪でも証言されました。


チンダさんが監禁された「長い家」と呼ばれる強姦施設は、一生をこの町で暮らしたチンダさんの現在の住まいのすぐ近くでした。「そこには、けっして近寄ることができない。自殺した子もいた、ほんとうに地獄だった。」と、再会して抱き合ったすぐ後に、お話されました。


チンダさんが暮らす集落は低湿で、大雨で家が浸水したり、チンダさん自身も何度も身体を壊しながら、大家さんや近所の人たちに支えられてきました。


足が弱り歩くことが難しくなりながらも、集落の若い人たちに得意のお菓子作りを教え、私たちも賑やかに迎えられました。支援者からの情報で、チンダさんの病状などの連絡は受けてきたものの、穏やかな笑顔に再会することが叶い、あのとびきりのオンデ・オンデ(お菓子)はなんとおいしかったことか。


 


●ドリィさん





パレパレから北上し、ルラ渓谷の日本軍トーチカ群に近いソソクに一泊、翌朝にはさらに山奥のバロコ村に、最年長のドリィさんを訪ねました。


ドリィさんは、12,3歳の頃、縫製工場に通う途中、山道で待ち伏せしていた馬に乗った日本兵に拉致され、3人の友人とともに、私たちが昨夜泊ったソソクにあった兵舎で強姦されました。 現在100歳にちかいドリィさんは、コーヒーが自生する山村で大家族と暮らしています。10数年前に視力を失い、最近は言葉のやりとりも難しくなったものの、鈴木さんを認識されて、再会を喜び合いました。4年前、ドリィさんは古関裕而の「愛国の花」を朗々と歌い、「いち、にい、さん、し!」という掛け声を、ひ孫たちも真似ていました。今、言葉がなかなか出なくなったドリィさんは、それでも私たちに「愛国の花」と「年の初めに」を歌いかけるのでした。小さなドリィさんの身体の奥底に、日本軍の性暴力とともに、これらの歌が深く刻みこまれているのです。


4年前、日本からの補償を受け取ることができたら、きっとこの村にバスを通わすのだとはっきりと言われていたのを、悔しく思い出しました。


 


●ジャヘランさん(故人)、ヌライニさん


ヌライニさん



ジャヘランさん


最後にお訪ねしたのは、ヌライニさん。山あいの村カロシで、4年前の私たちが来訪した2か月後に亡くなられたジャヘランさんの家を通り、さらに山の奥へと進みます。


ジャヘランさんは12歳、ヌライニさんも同年代で数人の日本軍に連れ去られました。日本軍は各地で数人のグループを組み、山道や畑で幼い少女たちを拉致し、強姦のために建てられた小屋に連行していました。


ヌライニさんが連れていかれたチャロックの「慰安所」は、山道を入った暗い谷にあり、昼はさらに山一つ越えた渓谷でトーチカ造営の砂利運びに狩りだされました。まだ幼かったヌライニさんは、性奴隷と強制労働という過酷な日々を生き延びました。


日本の敗戦後、村に逃げ帰ったヌライニさんは、その後30代でマレーシアに出稼ぎに渡り、故郷の母親や親せきを支えてきました。


ヌライニさんは、鈴木さんの聴き取り後、2018年にソウルで開催された「アジア連帯会議」にジャヘランさんとともに招待され、証言し、自分の体験を文章にして訴えました。


今は故郷の村で一人暮らしですが、最近親戚たちが古かった家を建て替えてくれ、長年の夢だったメッカへの巡礼の旅に出ることを決心されていました。十日後とおっしゃっていたので、ちょうど今頃(9月18日)、村の女性たちと一緒に旅立たれたはずです。


 


おばあさんたちの年齢を思えば、これが最後の出会いになる旅かもしれないと思い定めて出発しました。それぞれの老いをしっかりと選び取られた姿に感銘を受け、またの再会を願わずにはおれません。

2010年代に、被害から長い沈黙の70年を超え、初めて証言されたスラウェシのおばあさんたち。そこから堂々と頭を上げ、加害者である日本軍の責任を訴え、謝罪と補償を求めました。トラウマに苦しみながら、同情すべき被害者ではなく、尊厳の回復を求めて扉を開こうとする勇気ある姿です。恥ずかしいことに、加害の側の日本社会は、少女たちに性暴力をふるい続けた軍隊を不問に付し、事実を認め謝罪することもないままに、新たな戦争への道を進んでいるとしか思えません。

歴史を隠蔽し続けてきたこの社会、自分たちの力不足にほぞをかみながらも、長年にわたり被害女性たちと出会い続け、その証言を聴き、正義の実現のための行動を共にして、先を歩んでこられた水曜行動に参加される姉たちに、心からの尊敬と感謝をお伝えしたいと思います。 

         (日本軍「慰安婦」問題を記憶・継承する会 京都)



★(インドネシアのサバイバー報告は、川見公子代読)