梁澄子さん





韓国の安点順(アン・ジョムスン)さんについてお話します。


安点順さんの証言は朝鮮半島から連行された日本軍「「慰安婦」被害者としては少し特異な面を持っています。




安点順(アン・ジョムスン)さん


 


安さんは1928年12月にソウルの麻浦(マポ)に生まれました。

数え年14歳のときに、精米所に集合するようにとの統長(町長のようなもの)の言葉に、母親と一緒に精米所に行き、そこで米を計る計量器に乗せられました。年老いてからお会いした安点順さんも体格のよい方でしたが、当時、数え14歳といえば満年齢では13歳になる年、12月生まれの安さんはまだ満12歳だったと思われますが、当時からとても体格が良かったそうです。米の計量器に乗った安さんは体重がずいぶんあったので、その場で「合格」となり、そのままトラックに乗せられて中国に連れて行かれました。母親が泣きながら追いかけてきたということでした。




 朝鮮半島からの連行の場合、多くは田舎の貧しい少女たちが、そこに行けば「ご飯がおなか一杯食べられる」そして「家族に仕送りもできる」または「勉強ができる」といった言葉に騙されて、業者に連れられて慰安所に連れて行かれた、というケースが多いです。そういう意味では、ソウルから、しかも業者は介在せずに行政が直接女性たちを有無を言わさず駆り出したという安点順さんの例は他の多くの例とは少し異なる面をもっていると言えます。さらに安さんは戦地でも業者はいなかったと言っており、軍直営の慰安所で被害に遭ったと考えられます。



 朝鮮半島の場合、業者に騙されて連れて行かれ、業者が管理する慰安所にいたと証言する被害者が多いと先ほど言いましたが、その業者というのが勝手に女性たちを募集して慰安所を運営していたわけではありません。軍が業者を選定し、女性たちの募集にあたっては現地の憲兵や警察と協力しておこなうように、と軍が指示を出し、実際に警察が協力していたたことも、日本軍や警察の公文書ですでに明らかになっています。


 ところが安点順さんの場合は、そういったケースとは違って行政が直接女性たちを駆り出し、戦地でも軍が直接運営していたと思われる慰安所に入れられていたと考えられます。



 このことについて吉見義明さんは、安点順さんが「慰安婦」にされたのが数え14歳という、この証言が確実であれば,彼女の連行の時期は1941年の関東軍特種演習(関特演)による対ソ戦のための大動員の時期と重なるという点に注目しています。



 関特演では,関東軍司令部が約85万の動員予定兵力のために,2万人の朝鮮人「慰安婦」を集めようとしたと、歴史家の島田俊彦さんが著書の『関東軍』の中で述べています。実際に移送された女性の数について島田さんは約1万人と言っており,原善四郎元参謀は8千人、関東軍参謀部にいた村上貞夫さんは約3千人と言っています。いずれにしても、短期間に非常に多くの女性がかき集められたことは間違いありません。


 また、右派の代表的な歴史研究者である秦郁彦さんは自身の著書の中でこの関特演のことについて次のように言っています。



 「結果的には娼婦をふくめ八千人しか集まらなかったが,これだけの数を短期間に調達するのは在来方式では無理だったから,道知事→郡守→面長(村長)のルートで割り当てを下へおろしたという。/実際に人選する面長と派出所の巡査は、農村社会では絶対に近い発言力を持っていたので「娘たちは一抹の不安を抱きながらも “面長や巡査が言うことであるから間違いないだろう” と働く覚悟を決めて」応募した。実状はまさに「半ば勧誘し,半ば強制」(金一勉『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』)になったと思われる」



 つまり、一気に大勢の女性を動員するためには,軍または総督府が選定した業者に集めさせるのは無理で、直接行政が動いてかなり荒っぽくかき集めたのではないかと、秦郁彦さんも認めている、その関特演の時に、安点順さんの動員の時期が重なっていると考えられるわけです。



 私は、吉見義明さんが2013年3月と2014年3月、2度にわたっておこなった安点順さんの聴き取りに通訳として同行しました。安さんの印象は、柔和な笑顔を絶やさない、包容力があって思いやりの深い方、という印象です。吉見さんが訪ねて行ったときにも、吉見さんが「辛いお話をお聞きすることになり申し訳ありません」と言うと、「私たちのためにしてくれることなんだから、気にしないでください」とおっしゃり、聴き取りは笑顔で始まりました。



 しかし、聴き取りが進むにつれて、笑顔が消え、言葉もなくなっていきました。それは慰安所の間取りなどを聞いたときのことです。吉見さんの聴き取りには何度も同行していますが、慰安所の間取りについて必ず聞き、可能な場合には図を描いてもらったりもします。


ですから安点順さんにも慰安所の構造に関する質問をしました。大きな建物を接収して、その中に間仕切りをして慰安所に仕立てるというケースが多い中で、安さんがいたところはそういう形ではなく、部屋が3~4個ある小さな家がたくさん建っていたということでした。そのような間取りの話までは良かったのですが、安さんがいた慰安所には部屋が3つで女性が4人いたということについて、なぜ女性は4人なのに部屋は3つしかないのか、軍人たちが来たとき、4人の女性で3つの部屋をどう使うのか、といった質問になったとき、安さんの表情は苦しみに満ちたものになり、声が消え、ただ首を縦に振ったり横に振ったりするだけになったのです。時々吐き出すように発せられる言葉は「人間の生活じゃない、獣の暮らしだよ」という言葉だけでした。



それでも安さんは、首を縦横に振ることで一生懸命に応えてくれようとしました。安さんがなぜそこで言葉にすることができなくなったのか、なぜこれほどまでに苦渋の表情を浮かべるのか、しばらく応答を繰り返す中で私たちはやっとその真相を知ることができました。軍人たちがやってくると、一番若い安点順さんが、次に若い女性と2人で、1つの部屋で軍人の相手をする。そこには間仕切りすらない。

「間仕切りなんかないよ!」「だから獣の暮らしなんだってば!」最後に叫んだ安点順さんの言葉を私は忘れることができません。



 安点順さんは、晩年は地元の水原に発足した「水原平和ナビ」という市民グループと共に積極的に活動しましたが、2018年3月30日、90年の生涯に幕を下ろしました。先日、水原(スウォン)にある「安点順の部屋」というところを見学してきました。



水原市の公的な施設に設置された小さな展示館ですが、被害者個人の展示館は韓国でも「安点順の部屋」しかないと言います。韓国を訪れたら、是非、立ち寄ってみてください。