2010年来日(このとき86歳)。

女性国際戦犯法廷10周年記念集会で証言した葦紹欄さん(2019年死去)





1945年生まれ。息子さんの羅善学さん。お母さんの証言を聞きながら号泣。
自分が日本兵の子どもだったために村人や父親に辛くあたられたことを知る。







湖北省(武漢市郊外)天門市のキリスト教老人ホームに入居している羅善学さんは、今年78歳。

働き者で、早起きして落ち葉掃きをすることが日課でしたが、1020日の7時頃、掃除の最中に突然気を失って倒れてしまいました。



 私たちが羅さんと出会ったのは、2010年の女性国際戦犯法廷10周年の集会でした。壇上で証言する母親の葦紹欄さんの震える肩を、泣きながら抱いていた姿を記憶している方は多いと思います。

「支援する会」は、この日お二人に支援を約束しました。



20195月に葦紹欄さんは逝去されました。羅さんは昨年末に、30年前に石を運搬している際に転倒し、骨折した左足が腫れ上がり、強い痛みに襲われました。それ以前も、痛みに苦しめられてきた彼の願いを受け、今年8月に武漢にある骨の治療で有名な病院に行き、検査してもらいました。病院独自に開発した鍼薬はとても効くと言っていました。

この時の武漢での協力者はクリスチャングループで、羅さんは、彼らが運営する老人ホームを気に入り住むようになったのです。




実は、羅さんは、班さんと二人で、葦紹欄さんのお墓参りをした時に、「この村を出たい」と班さんに訴えたそうです。「テレビで一度南京のお寺の光景を見た。自分もそこに入れないだろうか。毎朝掃除して生きる」と。それから直ぐにコロナが発生して、中国国内の規制は厳しくて、とても無理な話になりましたが、住める場所を探してきて現在に至りました。村を出たいという羅さんの思いは変わらず、武漢に住む事を選んだのでした。恩返しの気持ちがあったのか、毎朝庭の掃除を丁寧にしていたといいます。しかし数か月後、突然新たな病魔に襲われた羅さん。武漢劦和医科大学病院に送られ、23日の午前11時に手続きをして、午後手術が始まり、夕方620分ぐらいに終わりました。脳の回復は良好でしたが、肺に炎症があり脳の回復に影響を与えるとのことで、重症患者病棟に入りました。


班さんに9日、電話で、「羅さんは、桂林の病院に転院する。医療費は10万元を超えている」と伝えてきました。10万元は日本円で200万円です。




「中国人元『慰安婦』を支援する会」は、28年間活動を続けてきて、80人の方は既に全員世を去りました。会も閉会を迎えましたが、羅善学さんは有志で支えようと決めていました。

しかし、この度の羅さんの医療費は会の有志だけではとても支えきれないと、皆さんに支援を呼びかける次第です。


窓口は「支援する会」で、中国への送金は確実に行うことができます。病院の領収証で医療費支払いの証明とし、運営致します。カンパ下さった方には羅さんの病状等ご報告を致します。

どうか皆さまのお力をお寄せ下さい。お願い致します。

                             



 20231110

                               中国人元「慰安婦」を支援する会(班忠義と有志一同)                              


 


★振込先は下記の通りです。



郵便振替記号番号  : 00110―7-77894

          名義 : 中国人元「慰安婦」を支援する会

 お問い合わせ  Tel  :   090-24354823

        E-meil     s.chiyoko@mc.point.ne.jp










葦紹欄さんの被害


中国少数民族苗(ミャオ)族出身。貧しい山の中で育つ。同じ苗族の夫と結婚し、桂林に17歳の時移り住んだ。

1944年11月、日本軍が来るというので、村人とともに山の中へ逃げた。


しかし、ある日、娘を負ぶって洞窟をでたところ、日本兵に捕まえられ、娘をおぶったまま銃剣をつきつけられながら山道を歩かされ、大きな道路に出てから止まっていたトラックに乗せられ、「馬嶺鎮の慰安所」についた。そして身体検査をされてから強姦される日々が続いた。


監禁され、強姦されていたが、毎日、いかに逃げるかばかりを考え、ある夜トイレに行くふりをして幼い娘を背負ったまま脱出した。


2昼夜かけて、ようやく村にたどり着いた。夫は優しい人で無事に帰ってきたことを喜んでくれたが、娘が病死し、葦紹欄さんの妊娠がわかり、日本兵の子ではないかと村人がうわさするようになってから夫は冷たくなった。





◆葦紹欄さんのことば

  (女性国際戦犯法廷から10年・国際シンポジウム報告集より)


羅善学が生まれてから、夫と言い争いになった時など、いくら自分に理がある場合でも、夫に、「この淫売」などと罵られると、わたしは何も言い返すことができませんでした。


当事の日本人に対しては、恨んでも恨みきれません。葉切り包丁で殺してやりたいくらい恨んでいますが、今の日本人は別だと思っています。日本の友人の皆さんには支持と援助をお願いしたいです。日本政府には私にきちんと謝罪してほしいと思います。」




◆羅善学さんのことば(同上より)


「母の被害のことを聞いたのは9歳か10歳の時、叔父に、どうして自分は日本人の子といわれるのかと訪ねました。叔父は『おまえは中国人じゃない、日本人だ』と言ったのです。


私は、日本人ってどんな人間なのか、中国人とどこが違うのか、どこから来たのか、といろいろ尋ねました。叔父は『ここで戦争があった時、日本人は車でやってきた。おまえの母親は日本人に捕まり、2、3ヶ月監禁されていた。そして戻ってきた時には妊娠していた。だからお前はお父さんの子ではない』といいました。


それがどういうことなのか、その時、私の頭の中は疑問符がいっぱいで、叔父の言っている意味がよくわかりませんでした。その後、夫婦げんかになると、父はいつも汚い言葉で「淫売」とか言って母を罵りました。私を指して、『こいつは俺の子じゃない』と言ったこともありました。


そういうことが何回もあって、私にも少しずつ分ってきました。私の存在が父には恥だったのです」





そして日本政府には母がこの世にいるうちに謝罪してほしいと強く訴えました。