王改荷さんは、1919年、中国山西省盂県の奥深い山村に生まれ、黄土大地で生き抜いた女性です。

15年戦争と言われる日中戦争で、日本軍は三光作戦「奪い尽くし、焼き尽くし、殺し尽くす」という徹底的に村を滅ぼす掃討作戦を繰り広げ、赤ちゃんから老人まで、妊婦も銃剣で刺し殺すなど、無垢の中国住民を虐殺しました。今、イスラエル軍がパレスチナ・ガザ地区にかけているジェノサイドと同じです。


中国侵略の中で引き起こされた日本軍の性暴力・性犯罪の有り様は三つです。日本軍は占領した大きな都市の殆どに日本軍専用の慰安所を作りました。一つ目はこうした慰安所に連行された女性の被害です。当時、日本の植民地だった朝鮮半島や台湾から騙されて連行されてきた女性、中国現地から連れてこられた女性が性奴隷の日々を強いられました。

戦線の拡大に伴って日本軍は「高度分散配置」という前線の各地域に拠点を作り広範な地域を支配する戦略をとりました。これらの前線の村には慰安所はありません。日本軍は、民家を接収し強姦所に作ったのです。軍のトーチカを建てた拠点近くにも連行した女性を監禁する場所を作りました。二つ目はこうした強姦所に連行されて被害に遭った女性です。

そして三つ目は戦場でのレイプです。86年前に引き起こされた南京大虐殺、このとき大勢の女性がレイプされ殺されました。「南京レイプ」と言われる事件です。



王改荷さんは二つ目の被害、日本軍の掃討作戦のときに捕まり日本軍拠点に連行された被害者です。


王改荷さんの夫は抗日村長でした。会議を行っている時に侵入した日本軍に捕まり、連行され、見せしめとして村民の前で殺されました。王改荷さんも「抗日婦女救国会」のメンバーで、自宅に押し入った日本兵に捕まり拷問された上で日本軍拠点に連行されたのです。このとき出産して数ヶ月の乳飲み子を抱えていましたが、日本兵は赤子を引き離して連行し、強姦所に監禁して連日のレイプ、輪姦を繰り返したのです。


  1920年前後に生まれた山西省の被害女性の殆どが教育を受けておらず字を知りません。足には纏足を施されていて行動範囲も限られます。他の大娘(ダーニャン)同様、王改荷さんも、日本軍に連行された時期や当時の年齢を聞いても明確な答えは返ってきませんでした。しかし、自分の身に起きた惨い被害の様―日本軍にどんな暴行を加えられたのかという質問には、目を真っ赤にして涙を流しながら怒りと悲しみを露わに語りました。「あいつらは私を強姦したのです。殴り、蹴り、押さえつけて強姦しました。見世物のように晒され面白がりました。痛みと恥ずかしさで泣けて泣けて・・・。いつの間にか足を骨折して動くことも出来なかった、どうやって死ぬことができたでしょう。」「私は心の中にたまった苦しさ、怨みを吐き出したいのです。訴えたいのです」と語った姿、そのときの証言が私の心に突き刺さり、決して忘れることは出来ません。



私が共に歩んできた「山西省・明らかにする会」の会報のタイトルは「出口気(チューコーチ)」といいます。思いの丈を述べる、吐き出すという意味です。

王改荷さんの証言を聞き、大娘たちには、思いの丈を吐き出して欲しい、語って欲しい、私たちが聞ききます、共感をもって受け止めたい、支えたい、そんな私たちの姿勢をこのタイトルに込めたのです。



 二つ目は、裁判の証人尋問で来日した時のことです。

20012月、王さんは東京地裁で証言するために病気の体を押して来日されました。法廷に立ち、「どうしても日本に来たかったんです。命を懸けてきました。おなかにためてきた辛さ・苦しみを話したい」と切り出して証言されました。そして翌日の食事に付き添いの娘とともに姿を見せた王改荷さんは、「法廷で話すことができて本当に嬉しい」と、晴れ晴れとした安堵の表情をされました。心に溜った痛み、苦しみを、思いの丈を語ることができた。裁判官が聞いてくれたと感じたからかもしれません。


王改荷さんは被害から数十年を経ても日本軍が迫ってくる悪夢に悩まされることが多かったといいます。性被害にあった人は生涯その被害を忘れることはできないのです。二度と同じ被害を起こさないために、戦争を起こさないために、性暴力をなくすために、私たちは王改荷さんから手渡された「出口气」を心に受け止め、歩み訴えていきましょう。若い人たち、これから未来を築く次世代の人にも、伝えていきましょう。(川見公子)