2024年1124日にフィリピンで「慰安婦」とされた、エステリータ・ディさんが逝去されました。エステリータさんはアジア・太平洋戦争で日本軍による性暴力被害者のお一人です。



名乗り出てから30年間、再び自分のような被害が若い女性たちに起きないようにと訴え続けてきたおばあさんです。日本にも何度もやってきました。

エステリータさんの逝去にあたって、生前の日本軍から受けた被害とその後の活動を振り返り、追悼したいと思います。




エステリータ・ディさん(2024.4)



 エステリータさんはフィリピンのネグロス島に1931年に生まれました。

ネグロス島はフィリピンの大きな本島・ルソン島の南西にあって日本の丁度四国ぐらいの面積ですが、農業が主で、砂糖キビの産地で有名で、製糖工場など加工工場があちこちにありました。このネグロス島に日本が1943年にやってきました。

ちょうど、エステリータさんが12才の時です。


日本軍はこの首都のバコロドに飛行場の建設をはじめました。そこに住民たちは狩り出され、エステリータさんもお母さんと一緒に働きに行ってました。


 翌年の1944年に「米軍がやってくる!」ということで、みんな、そこにはいかないことになりましたが、日本軍はこの頃から、住民たちを暴力的に酷く扱い、ゲリラの疑いをかけたり、首を切ったり、銃で撃ち殺したり、女性たちをタリサイの製糖工場に拉致したりしました。


ある日、エステリータさんとお母さんは市場に鶏と卵を売りに行ったときのことです、1944年の10月から11月にかけての頃ですが、トラックに乗っていた日本兵がバラバラと降りてきて女性たちを捕まえようとしました。エステリータさんは逃げようとしましたが、転んでしまって、日本兵に捕まってしまい、トラックに乗せられてしまいました。周りをみると、他の女性たちもそこに乗っていました。殺されるのではないかと、ブルブル震えてしまいました。駐屯地のなかの一軒の家の中に押し込められ、日本兵にレイプされ、また、別の日本兵にもレイプされ、その後は何人の兵士にレイプされたか、わかりません。


3週間もの間、昼は掃除、日本兵の服の洗濯、夜は強姦の毎日でした。


ある日、タリサイの街に米軍部隊がやって来るという噂が立って、日本兵たちは、山岳地帯に撤退していきました。

そこで、やっと、エステリータさんは家に帰ることが出来、家族と再会しました。家族は娘は死んだものと思っていたそうです。



 戦時中の体験はだれにも打ち明けられませんでした。蔑まされると思ったのです。


学校も小学校3年から入り直して、卒業しましたが、自分の身に起きた事を忘れるために、1949年家族のもとを離れ、誰も自分を知る人のいないマニラに行きました。あの出来事から6年後のことです。


 マニラでは洗濯婦などして、なんとか生き延び、結婚もしましたが、夫には、あの辛い体験は話しませんでした。


 ある日、ラジオから、「慰安婦」にされた人は名乗り出て、という呼びかけを聞いて、その住所に出かけて行きました。そうして、被害者と支援者の組織の「リラ・ピリピーナ」というグループに出会い、メンバーになったのです。


名乗り出てから、子どもたちには事実を話しました。




証言するエステリータさん

デモにも率先して参加した




以来、31年間、リラピリピーナの中心的な存在となって、とても朴訥ではにかみ屋でしたが、アピールするときは毅然と力強く、活動を担ってきました。




 今年の4月に94才の誕生日を迎えられ、みなさんから祝福されて、ニコニコ顔でしたが、7月頃から、体調を崩し、入院したりしましたが、後半は家族に見守られる生活を希望して、子どもたちや孫たちや支援者に囲まれた手厚い看護で、しばらく小康状態が続いていました。でも、とうとう、1124日に永眠されました。直接の死因は心臓発作でした。



4日後の1128日に、お別れの会が持たれ、今までの健闘をたたえ、思い出の語りなど温かい雰囲気のなか、日本からのお悔やみのカンパも届けられ、メッセージも読みあげられました。


本当に長い間、闘ってこられ、被害女性たちに起きた事を伝え、日本政府は自分の生きている間は無理かもしれないが、真の謝罪と責任を、果たしてほしい、後に続く女性たちのためにも、と語っていたことが、忘れられません。

 


このエステリータさんの意志を受け継ぎ、被害生存者の闘いと記憶の次世代への継承を私たちは共に担っていきたいと思います。

エステリータさん、長い間、本当にお疲れ様でした。

リラピリピーナの前代表のリチェルダさんが待っています。

ご一緒にごゆっくりお休み下さい。 (ロラネット)