〈報告〉戦時性暴力問題連絡協議会 第82回 水曜行動 in 新宿「サバイバーを記憶する~金学順さん、宋神道さん」 梁澄子(2024.12.18)
12月16日は、金学順さん、宋神道さんという2人の日本軍「慰安婦」被害者の命日でした。
金学順さんは、韓国ではじめて自身が日本軍「慰安婦」にされた被害者であることを訴えて、その後の各国被害者たちの名乗り出を促し、日本軍「慰安婦」運動に多大な影響を与えた被害者でした。
また宋神道さんは、この日本でただ一人、自身が「慰安婦」被害者であったことを訴えて、日本政府を相手に裁判を闘った被害者です。
今日は、この二人の人生について、特にどういう経緯で二人はこの社会に名乗り出ることになったのか、その部分を中心にお話しをしたいと思います。
まず、金学順さん
1924年に生まれて、数え年17歳のころ、1940年ごろ中国で養父と一緒にいるところを無理やり日本人に連れ去られ、日本軍慰安所に閉じ込められました。そこで「慰安婦」被害にあうわけですが、金学順さんは4カ月ほどで慰安所を脱出することが出来ました。
脱出を助けてくれた人と結婚して韓国に戻りますが、夫は朝鮮戦争で亡くなり、唯一の息子もその後、海の事故で亡くなってしまいます。
その後、金学順さんは一人で孤独に貧しく生きてきました。金学順さんは、何故自分はこのように生きているのかと不条理を感じていましたが、そのことを在韓被爆者の友人のイ・メンヒさんという方に打ち明けていました。
皆さん、在韓被爆者というのをご存知でしょうか。
文字通り、韓国にも被爆者がいるということです。
なぜ、韓国に被爆者がいるのでしょうか。
韓国にも原爆が落ちたのですか?違いますね。
当時、日本の植民地だった朝鮮から日本に炭鉱や軍需工場で働かせるために労働者が連れてこられ、またあまりの貧しさ故に日本に活路をみいだそうと渡ってきた朝鮮人が多数いました。そういう中で、広島、長崎にいた人々が日本人と同じように被爆したのです。
しかし被爆したあとは日本人の被爆者とは違う扱いを受けました。日本政府は、すでに外国人となった韓国人被害者に対して、また北朝鮮に渡った朝鮮人被爆者に対して、なんらの援護も行いませんでした。
また韓国社会の中では、韓国人被爆者がいるということが全く知られていませんでした。韓国に戻った朝鮮人被爆者たちは、日本政府からの援護も受けられない、韓国社会からも理解されない、という状況になっていました。
この人たちを支援する運動を行っていたのが、韓国教会女性連合会という韓国の女性クリスチャンたちの団体でした。この団体は、在韓被爆者問題を扱うのと同時にキーセン観光反対の運動をしていました。
キーセン観光というのを皆さん、ご存知でしょうか。
1970年代、日本のサラリーマンたちが買春観光に行く先が主に韓国でした。日本のビジネスマンたちの韓国への買春観光のことを、当時キーセン観光と言っていました。
この韓国教会女性連合会と言う団体は、在韓被爆者問題を韓国社会の中に知らせる運動と同時にキーセン観光に反対する運動もしていました。この団体が1990年に日本軍「慰安婦」問題解決のためにとりくむ「韓国挺身隊問題対策協議会」(挺対協)という団体を立ち上げる主軸になります。
他の団体も合流して韓国で1990年に挺対協が立ちあげられ、日本軍「慰安婦」問題解決運動がやっと本格的に始まりました。挺対協は発足前から(準備期間の時から)日本政府に対して、「真相を究明して被害者たちに謝罪して賠償せよ」という要求をしていました。しかし日本政府から何らの答えもありません。
ある時、韓国にある日本大使館から「回答するので来てください」と言われ、挺対協の人が行きました。挺対協の人は、韓国教会女性連合会の活動家でもあります。この人たちが大使館に行ったところ、日本大使館は、「証拠がないから認められない」という言葉を吐きました。これに怒った教会女性連合会の活動家で挺対協の活動家でもある人が、韓国内で韓国人被爆者のことを知らせるために被爆者自身が訴える演劇の練習をする日だったので、練習する被爆者に向かって、日本大使館でこんなことを言われた、皆さん方の年齢くらいの人の中に被害者がいるはずだ、「慰安婦」とされた被害者を知らないか、と訴えました。すると金学順さんから話を聞かされていたイ・メンヒさんという被爆者の方が「自分の知り合いにいます」と言って、金学順さんと挺対協が繋がりました。
このころ日本でも運動が始まっていて、社会党議員が国会で質問をしていました。その質問に対して日本政府は、「慰安婦なるものは業者が連れ歩いたものなので、軍に責任はない」という答弁をしていました。このことを知った金学順さんは、それに対する怒りを強く持っていました。それで挺対協を訪ねて行って、「自分に話ができる場をつくってほしい」と金学順さんの方からおっしゃったそうです。
こうして1991年8月14日に金学順さんの公開証言という形で記者会見が行われました。そしてその年の年末に金学順さんが日本で訴訟を起こしたことで、世界中にこのニュースが広がって沢山の被害者たちが名乗り出ることになりました。
金学順さんは、名乗り出から6年後の1997年12月16日に、「日本政府の謝罪を受けるまでまだ死ねない、私は百年でも二百年でも生きて、必ず謝罪を勝ち取らなければ死ぬわけにはいかない」と言いながら亡くなりました。
そしてそれからちょうど20年後の2007年12月16日に亡くなったのが、宋神道さんです。
宋神道さんは日本にいました。どうして日本に来ることになったのか。1922年に生まれた宋神道さんは、満で16歳の時(1938年)に中国の武昌の慰安所に連れて行かれました。先ほど金学順さんは4カ月で脱出に成功したと言いましたが、宋神道さんは7年もの間、中国中部の各地を日本軍に連れられて、「慰安婦」生活を強要されました。そして戦争が終わった日、軍隊が突然居なくなったのです。いままでいた軍隊が突然、居なくなり、宋神道さんたち「慰安婦」たちはどこでどうすれば良いかわからない、途方にくれました。そこに軍隊を脱走したある軍人が訪ねてきて、「自分と一緒に結婚して日本に行こう」と誘いました。その軍人は民間人に成りすますために、夫婦ものを装って安全により早く日本に帰ろうとしたのでしょう。宋神道さんは行く当てもない、頼る人もいない中国の地で、この軍人の言葉に一縷の望みを託して日本に渡ってきましたが、日本に着いた瞬間、その軍人は、「ここにも進駐軍のパンスケの人がいる。パンスケでもやって生きていけ」と宋さんを捨てて、いなくなりました。その後、宋さんは宮城県で生きてきました。
その宋さんが何故、名乗り出るようになったのか。宋さんのことを私たちに知らせる電話がありました。「宮城県にも慰安婦にされた女性がいるので、是非、訪ねてあげてください」という電話です。川田文子さんが宋さんを訪ねて行きました。私たちも一緒に行きました。
そのころ宋さんが必ず言った言葉はこれです。
「慰安婦にされたことは恥ずかしいから誰にも言ったことがない」。
ではどうして宋さんのことを私たちに知らせる電話があったのでしょうか。とても不思議でした。その匿名の電話の主を私たちは探しあてて、どうして宋さんのことを知ったのかを尋ねました。
宋さんは、宮城県で18歳年上の男性と一緒にくらしていました。その人が病気になり、宋さんは道路工事とか、飲み屋とか、魚の加工工場とかあらゆる仕事をして病気の男性を支えてきましたが、50代になって自分も働けなくなったので役場に生活保護を申請に行ったところ、厳しい審査を受けて、短気だった宋さんは、「うるさい」と言って、大暴れをしました。役場では宋さんのことが手に負えなくなって、民団という在日韓国人の団体に助けを求めました。その時に宋さんが役場で吐いた言葉が「オレは、中国まで行ってお国のために戦ってきたおなごだぞ」というセリフでした。
これを聞いた民団の人が、宋さんが「慰安婦」被害者であったことを知り、それから数十年後の1990年代に入って「慰安婦」問題が社会問題化した時に、私たちのところに連絡をしてきたということです。「オレは、お国のために中国まで行って、戦ってきたおなごだ」。それは、何か悔しいことがあるたびに、宋さんが叫んでいた言葉でした。日本軍から「お国のために闘っている」と教えこまれていた、その言葉を悔しいことがあるたびに、叫んでいたのです。
当時宋さんは、確かに「慰安婦」という言葉は使っていなかった、だから自分は、「慰安婦」だったことは誰にも言ったことがなかったという宋さんの言葉にウソはなかったのです。しかし悔しいことがある度に「お国のために中国に行って戦ってきたおなごだ」という言葉が出ることによって、周囲の人々には、みんな知られていたということです。
このことを知った時に、私はあることに気付かされました。この運動が1990年に始まった時、金学順さん、そして沢山の被害者が名乗り出た時、私たちは日本軍「慰安婦」被害者たちは半世紀もの間、沈黙を強いられてきた。「沈黙の50年」という表現をよく使いました。
しかし自分のことをわかってくれる在韓被爆者のイ・メンヒさんに打ち明けていた金学順さん、そして何か悔しいことがあるたびに周囲の人々に「中国で戦ってきたおなごだ」と叫んでいた宋さん、みんな決して黙ってはいなかったのです。この言葉を受けとめる側に全く準備が出来ていなかった、それは女の暴言、たわ言だと片づけられていたということであり、1990年にやっと挺対協が立ち上がって、日本でも運動が始まって、被害者の声を聞こうという人たちが現れた時に、これまでと同じことを語り続け叫び続けてきた被害者たちの声がやっと声として伝わるようになった。そして運動団体を通してその声は、社会に拡がりました。
しかし彼女たちは亡くなるまで本当の意味で満足する回答を日本政府から受け取れないまま亡くなっていきました。金学順さんが亡くなって27年目の12月16日、宋神道さんが亡くなって7年目の12月16日が今年も過ぎてしまいました。
被害者たちは、亡くなる瞬間まで自分たちの受けた被害について、加害国である日本政府がどのように認識して把握して認めているのか、それを一番知りたがっていました。具体的に、日本軍はあなた方にこういう加害をしました、ということを述べて、それに対して心からの謝罪をして、何よりも二度とこのようなことが繰り返されないように、きちんと教育すること、自分たちのことを覚えておくことによって、二度とこういうことが起きないようにしてほしい、ということを私たちに繰り返し託して、この世を去っていきました。
この話を聞いてくださった皆さん、是非、この方たちのことを記憶してほしいと思います。そして記憶することで、二度と同じことが起きない平和な社会、性暴力のない社会をつくっていくことを一緒にやっていきたいと思います。
ありがとうございました。