〈報告〉戦時性暴力問題連絡協議会 第98回水曜行動in新宿 サバイバーを記憶するーインドネシア ミンチェさん 蒔田直子 (2026年5月20日)
★ミンチェさん、誇り高く生き抜いた93歳
ミンチェさんが初めてご自分の被害を話されたのは2013年、インドネシア、スラウェシ島の日本軍性奴隷サバイバーのおばあさんたちの聴き取り調査を行った鈴木隆史さんのインタビューに応えてでした。
日本軍がインドネシアに侵攻し、ミンチェさん一家が暮らすマカッサルで拉致された時はまだ14歳でした。
「大勢の兵士たちが大きなトラックに乗ってやってきた。遊んでいた私たちを襲いトラックの荷台に乗せられ、奪い返そうとした母を兵隊たちは銃創で殴った。私は泣き叫び、荷台にはすでに20人あまりの少女たちが詰め込まれていた」
「ああ、忘れることなどできない。それはずっと私を苦しめていること」
70年以上、かたときも離れない14歳からの苦難の日々を初めて語ったのでした。
泣き叫ぶ少女たちは、マカッサルから200キロも内陸の日本軍司令部があるセンカンという町に連れていかれ、「慰安所」に閉じ込められ、昼夜を問わずレイプされました。
6ヵ月後、ミンチェさんは慰安所から命がけで逃げ出し、近所の人の助けで家に戻ることができました。しかし父親はすでに亡くなり、3か月後に母も亡くなると、ミンチェさんは日本軍にレイプされた恥(ムスリムのこの地域では「シリ」という)の女として一族に追われてしまいます。その後の人生のすべてを、ミンチェさんは定住することなく、他人の家の手伝いをしながら転々と暮らします。
鈴木さんのインタビューをきっかけに、2014年、日本で開催された「アジア連帯会議」で、ミンチェさんは韓国、フィリピンなどの被害者たちとともに、多くの聴衆の前で証言を行いました。
「日本ですべてを話すことができた」という安堵もありましたが、その後数年が経過しても、決死の覚悟での証言が日本政府に届いていない、自分の人生への謝罪と、当然であるはずの補償がないことへの苦しみが募っていました。
2020年2月、マカッサルの支援者の家で、93歳のミンチェさんにお会いしたとき、ミンチェさんは自分の老いへの不安とともに、日本政府への激しい怒りを口にされました。
「私は、神に誓って嘘は一つも言っていない、日本からの謝罪も補償も一切なく領事館に行っても何もしてくれない。インドネシア政府も同じだ!」
私たちは、あまりにまっとうなミンチェさんの怒りと悲しみに、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
このとき、ミンチェさんは同じく性奴隷被害者であるタシヤマさんの家で暮らし、支援者であるニェントさんもミンチェさんの最期までお世話することを約束されていました。
インドネシアから私たちが帰国すると同時に、コロナ禍で、スラウェシ島への訪問は以後できなくなってしまいました。その後、ミンチェさんはタシヤマさんの家を出て行ってしまい、行方が分からなくなり、モスクで寝泊まりしているのが見つかりました。支援者のニェントさんが家に迎え入れましたが、2020年6月、ニェントさん宅で息を引き取られました。
誰かの世話になるのではなく、自分自身の力で生き抜き、死んでいきたいと、誇り高いミンチェさんは望んでいらっしゃったのだと思います。そのためにも、ミンチェさんの人生の始まりを踏みにじった日本軍による性暴力への謝罪、そしてまっとうな補償が必要でした。被害は80年経とうと終わってなどいないのです。
2024年8月、4年ぶりに再訪したマカッサルで、手厚く葬られたニェントさんに案内され、ミンチェさんのお墓に頭を下げました。コロナ禍の間に、2020年にお会いしたタシヤマさん、ジャヘランさんもお亡くなりになりました。
ミンチェさんが私たちに語られたこと。「この苦しみからは死んで初めて解放される。生きている間はずっと思い出す。」
何人のサバイバーの方々から同じ言葉を聴いてきたことでしょう。
私たちが数限りなく重ね、悲しんできた、サバイバーの死。尊厳を持ち、生き抜かれた年月への深い尊敬と悼みとともに、生きている間に正義の実現が叶わなかった悔しさと怒りを新たにします。
スラウェシ島で出会い、今も暮らしていらっしゃるサバイバーのおばあさんたちの最期の時間をできる限り共にし、その言葉をお伝えしていきたいと願っています。
6月にスラウェシ島を再訪し、チンダさん、ドゥリさんたちの様子をまたお知らせいたします。昨年11月のスラウェシ訪問で、あらたに数名のサバイバーの方々と出会いました。スアラネネ(おばあさんたちの声)というネーミングで、スラウェシ島で暮らすネネたちを訪ねるグループが始まろうとしています。 (日本軍「慰安婦」問題を記憶・継承する会 京都)
★(当日、蒔田さんの報告を山田久仁子が代読しました)


