昨年、映画「黒川の女たち」が注目を浴びました。

この映画を見たとき、私はエレン・コリー・ファン・デル・プルフさんのことを思い出しました。

プルフさんは、インドネシアで日本軍の「慰安婦」とされたオランダの女性です。なぜ、オランダの女性がと思われるかもしれませんが、当時、オランダはインドネシアを植民地としていたので、そこには多くのオランダ人が住み、その人たちは、もちろん例外はあるにせよ、おおかた、本国に住むよりも、そしてまた、現地のインドネシアの人たちよりも、豊かな生活をしていました。朝鮮や台湾に住んでいた日本人の生活と同じ、それよりも、もっと規模が大きかったかと思われます。ただ、日本の国策による農業移民だった黒川村の場合は、すでに戦争中であり、豊かな生活を約束されたとはいっても、新しい土地での苦労が多かったでしょう。



194112月、アジア太平洋戦争が始まると、オランダと日本の間でも戦争になったわけですが、ヨーロッパでは、ドイツとの戦争でたいへんでしたから、日本はたちまちインドネシアを占領して、軍政を敷き、オランダに代わって新しいインドネシアの支配者となります。オランダ人たちは、「敵性外国人」とされて、軍人は捕虜に、女や子供を含む民間人は、民間人収容所に入れられてしまいます。プルフさん一家も、母親とこどもたちはスマランの婦女子の収容所に入れられましたが、そこは狭く、不潔で、配給される食糧も不足していました。



 ある日、若い女性だけが呼び出されて中庭に一列に並ぶように命令され、別の場所に移動すると告げられました。事務所か工場で働くのだと思っていたのに、何と連行された先は慰安所だったのです。彼女たちはそこで、日本の軍人や徴用された民間人の性の相手をすることを強要されました。休日には兵隊が押し寄せました。



口にするのも、おぞましいことですが、日本の男たちは彼女たちのことを、黒馬と白馬とよんでいたそうです。黒馬というのは現地のインドネシア人、白馬は白人女性のことです。 


この事件は日本の降伏後、スマラン事件とよばれてオランダの軍事法廷で裁かれ、責任者であるBC級戦犯として、裁かれ、10名が有罪となり、1名が死刑、他が禁固刑に処せられています。


けれども、被害者であるプルフさんたちには、裁判の詳細を知らされることもなく、父親の生死も分からないまま、オランダ人たちは、身一つで母国ヘ引揚げることになります。母国とはいえ、インドネシア育ちの彼女にとっては、オランダは寒くて暗い国でした。そして、周囲の人々の引揚者に対するまなざしの冷たさも、日本の引揚者の苦労と同じだったと思います。


父親が亡くなっていたことは、赤十字の記録を探してもらってやっと分かりました。プルフさんは、働いて夜学に通いながら、性病の治療も続けなければならなかったので、貧しく、つらい青春だったと振り返ります。


 夜学に学んで、中堅どころの出版社で働くようになった彼女は、ずっとそこで働き、結婚もしますが、結婚はうまくゆきませんでした。でも、「あの、日本でもご存じだと思いますが、兎のミッフィーを書いたブルーナーさんの絵本、あれを出した会社です」と話をするプラーグさんは、ほんの少しだけ嬉しそうでした。

プルフさんは、90年代に入って、日本でのオランダ民間人抑留者の訴訟に原告として加わり、さらにアジアの「慰安婦」被害者たちとの連帯の中で、彼女は自らの被害を証言し、二度と繰り返してはならないと訴えました。


 インドネシアの「慰安所」について一つ付け加えることがあります。

それは、強制売春で処刑された将校、また禁固刑で獄中にいる間に病死した軍属の身分であった慰安所の経営者が、「法務死」という名目で、靖国神社に神として祭られていることです。売春宿の主人を神として崇める国がどこにあるでしょうか。