〈報告〉戦時性暴力問題連絡協議会 第94回水曜行動 in 新宿 希望をつかみ取って生きよう 梁澄子
希望をつかみ取って生きよう
私は希望をつかみ取って生きている
私みたいにやってごらん
これは、金福童という日本軍「慰安婦」サバイバーが死の2か月前に言った言葉です。これを語った時の金福童さんの、まさに希望に満ちた表情を私は忘れることができません。全身を癌に蝕まれて余命いくばくもないと宣告された女性が、希望をつかみ取りながら私は今この瞬間も生きているのだと語るその姿を見ながら、私は金福童さんを「死に向かって行っている人」として見ていた自分に気づかされもしました。
最期のその瞬間まで希望を自らつかみ取りながら人生を生ききった金福童さん。この発言から2か月後の2019年1月28日に亡くなりましたので、今月28日は逝去から7年目の日ということになります。また、今年は金福童さんが生まれて100年、生誕100年の年にあたります。このような時に、希望は待っていただけではやってこない、自分でつかみ取って生きなければならないのだということを、私たちにその生き方で示してくれた金福童さんにしばし思いを馳せ、心に刻む時間を持ちたいと思います。
金福童さんは1926年、朝鮮半島南東部の梁山(ヤンサン)という村に生まれました。6人姉妹の4女で、すぐ上に兄が1人いました。ある日、村の班長が警官と一緒にやってきて、軍服をつくる工場に娘を送らなければならないと言ったそうです。上の3人のお姉さんたちは皆嫁いだ後で、家では金福童さんが一番年上でしたが、まだ数え15歳、満では14歳でしたから母親は幼い娘を行かせることはできないと抵抗しました。しかし、娘を出さなければ全財産を没収して追放すると言うので、仕方なく行くことになった、その先が軍服工場ではなく、慰安所だったのです。
広東の慰安所で初めて軍人の相手をさせられた翌朝、洗濯場に行くと、朝鮮から一緒に来た女の子2人が泣いていたそうです。福童さんはその子たちと一緒に泣きながら3人で一緒に死のうと話し合いました。金福童さんが家を出る時、お母さんは1円紙幣をチマ(スカート)の内側に縫いつけてくれました。このお金を、現地で雑用をしている女性に渡して「飲んで死ねる薬を買ってきて欲しい」と身振り手振りで伝えましたが、その女性が買ってきたのはお酒でした。3人は数日後には目を覚ましました。それから香港、マレーシア、インドネシア、シンガポールへと軍隊に連れられて転々としながら、徐々に諦めを覚えさせられていきました。
ある日、金福童さんは私にこんなことを言ったことがあります。「軍人だからってみんながみんな悪いわけじゃない。おとなしく言うことを聞いていれば殴られない。可愛がられる。自分がいる間は休めと言って、ただ休ませてくれる軍人もいた。」「そういう軍人が来たらうれしかったですか」という私の問いに、福童さんは「待つようになった」と、とっても美しい笑顔を見せました。私はその笑顔を見た時、他のどのような悲惨な話を聞いた時よりも胸が締め付けられました。おとなしく言うことを聞いていれば殴られないで可愛がられると身を縮めている幼い福童さんが思い浮かんだからです。慰安所に連れて行かれた最初の日に死を決意した時から、福童さんが本当に待っていたのは慰安所からの解放だったはずです。しかし、自殺に失敗した後、慰安所で生きていくために感覚を麻痺させ、諦めを覚えていく中で、本当に待っているものが慰安所からの解放であることも忘れて、自分が待っているのは一時休ませてくれる軍人だと思うようになってしまう、慰安所を生きるということはそういうことだったのです。これこそが、私たちが慰安所制度は性奴隷制度だったというゆえんです。
日本軍は敗戦後、金福童さんたち「慰安婦」を看護師に仕立て上げました。そのことは日本軍の公文書に残っています。これは、日本軍が「慰安婦」の存在を隠そうとしたということを示す証拠です。
金福童さんは米軍の収容所に収容された後、故郷に戻ってきました。母親が何度も結婚するように勧めるので、福童さんはついに自身が「慰安婦」にされた事実を打ち明けました。するとショックで倒れてしまった母親が数年間、伏せがちな生活を続けた後で亡くなったために、母親を死なせたのは自分だと、自らを責める「戦後」、解放ではない解放後を生きてきました。
そのようななかで金福童さんが、金学順さんの名乗り出を見て、1992年、被害申告をしました。その時、姉からは申告したら絶縁するとまで言われましたが、金福童さんは果敢に名乗り出ました。その後、ウィーン世界人権会議で証言をするなどの活動を繰り広げましたが、「慰安婦」問題がなかなか解決しないことに業を煮やして、10年間の隠遁生活に入ってしまいました。そのころ、金福童さんを訪ねて行くと、いつも寝巻姿で食事を取っている形跡もなく、テーブルの上にはお茶の入ったやかんとタバコの吸い殻があるだけだったと言います。
そんな金福童さんが持前のパワーを発揮し始めるのは2010年に緑内障の手術をするためにソウルに来て、挺対協の施設に入ってその保護の下、再び活動を開始してからでした。ですから亡くなるまでの最後の10年間、国際舞台で活躍し、水曜デモなどで人々と接触する中で、再び心を開き、人々を鼓舞する活動家、人権運動家になっていったのです。
日本軍「慰安婦」という通常では考えられない、普通の人が経験することのない経験をさせられた被害者たちは、当然ながら心に深い傷を負っています。そのような被害者たちは、1990年代に入って名乗り出て、まずは人々に自身の体験を打ち明けることで少しずつその傷を癒していきました。自らの傷を開示できる場を見つけ、共感してくれる人々がいることを知った被害者たちは、少しずつ安心を手に入れただけでなく、二度と自分のような被害者を出さない社会、平和な世界を構築しなければならないと訴える平和人権運動家になっていきました。その姿が人々に感動を与え、尊敬を集めることになりました。金福童さんは、その代表的な存在の一人と言えます。
彼女が人々の尊敬を集めた活動の一つにナビ基金というのがあります。世界各地を巡って日本軍「慰安婦」問題の解決を訴えた金福童さんは、その過程で、世界には未だに紛争があり、その中で女性たちが性暴力に遭っている事実を知りました。そこで、そのような世界各地の性暴力被害者たちを支援するナビ基金というものを提案して、自ら出資してこれを立ち上げました。ナビ基金はコンゴ、ウガンダ、ナミビアなど世界各地の性暴力被害者を支援するだけでなく、ベトナム戦争時に韓国兵の性暴力の被害に遭った女性たちとその子どもたちへの支援も行いました。
また、金福童さんが死の直前まで最も気にかけていたのが、この日本にある朝鮮学校の子どもたちのことでした。生前、金福童さんは「あの子たちを見るとただただ涙が出てくる。どうしてか分からないけど、涙が出る」と言いました。おそらく、日本社会で、日本語に囲まれて、チマチョゴリを着て朝鮮学校で学ぶ少女たちに、「慰安婦」にされた幼い頃の自分自身、日本語の世界に囲まれ日本の軍人に性を搾取された自身の幼い頃を重ね合わせていたのではないかと思います。そんな朝鮮学校の生徒たちを支援するため、金福童さんは金福童奨学金を立ち上げ、自ら残る全財産をこれに託しました。
今から7年前の1月、金福童さんが亡くなった時、人々は日本軍「慰安婦」被害者金福童さんの葬儀とは言わずに「女性人権運動家金福童」さんの葬儀と銘打ち、そこには6000人もの人々が訪れ、5日間にわたって壮大な葬儀が行われました。そして葬儀の最終日には1000人の市民が金福童さんの棺を先頭にしてソウルの街を行進して、その死を悼みました。
金福童さんは平和の大切さ、希望をつかみ取って生きることの意味を私たちに残して逝きました。その生誕100年になる今年、米国のトランプ政権はあまりにも危険な試みを続け世界の平和を脅かす行動を次から次へととっており、この日本の高市政権も憲法を改悪して戦争のできる国づくりをもくろんでいる、そのような今だからこそ、私たちは平和を訴え続けた金福童さんの遺志を改めて心に刻み、覚悟してこの時代を生きなければならない、希望をつかみ取ることのできる社会を守らなければならないと思います。
