〈報告〉戦時性暴力問題連絡協議会 第88回 水曜行動行動 in 新宿(2025.6.18) サバイバーを記憶するーフイリピン マリア・ロサ・ヘンソンさん(山田久仁子)
フィリピンでは第2次世界大戦で性奴隷にされ、その被害を真っ先にに告白した人がマリア・ロサ・ヘンソンさんです。ヘンソンさんがどんな思いでカミングアウトしたのか、それまでの少女時代の平和な暮らしとその後に訪れた悲劇、その悲劇を抱えながらの苦しく永い戦後の生活、そして、ある日のラジオでの呼びかけに衝撃を受けての勇気ある告白、それから仲間によびかけ、亡くなるまでの、その後の5年間の死に物狂いの活動と、この70年間の壮絶なロサ・ヘンソンさんの人生を彼女の手記からここに紹介したいと思います。
1) ロサ・ヘンソンさんの幼少~少女時代
ヘンソンさんのおばあちゃんはとても貧しい農家に生まれて、行商したり米軍基地に果物を売りに行ったりしていました、そんなときに家の野良仕事をよく手伝ってくれて、
でもお母さんのフリアさんは13才のときに、お父さんを亡くして、奉公に出ないといけなくなり、パンパンガ州では有数の大地主のところにいわゆる、女中奉公にいきました。その大地主はドン・ぺぺといって、お母さんのフリアの家族も援助してくれた人ですが、ロサ・ヘンソンさんは、お母さんのフリアとドン・ぺぺの間に生まれた人でした。フリアは当時20才、ドンぺぺは57才でした。貧しいながらも、日本軍が侵攻するまでは、ドンぺぺは家族や親戚の面倒をよくみてくれる人でした。ロサ・ヘンソンさんは勉強がよく出来て、刺繍や編み物も出来て、将来の夢は医者になることでした。
でも、学校では、「私生児」などと、はやし立てられ、カトリックスクールで勉強する資格はない、などと言われ、それならと、アレクサンダーの詩を暗唱して、見返してやったことがありました。そんな勝ち気な賢い少女だったのです。6年生のときには、総代になるほどでした。この逆境を跳ね返す力はこの時から培われ、その後の人生を生き抜く力になったのではないかと思います。
そんなヘンソンさんにずっと寄り添ってきたのがお母さんのフリアさんです。フリアさんは、自分の生まれたいきさつを何度も泣きながら娘に話して聞かせ、ロサが生まれたことで、その後もずっと、大地主のドンぺぺから援助を受けることが出来たことを話しました。それを聴いて、どんなことがあっても、お母さんのために、頑張るとロサヘンソンさんは決意したのでした。
ロサ・ヘンソンさんが小学校の卒業を控えて、さあ、次はハイスク-ルだと明るい夢を抱いた14歳の時の1941年12月5日の誕生日のその、3日後の12月8日にアジア・太平洋戦争が始まったのです。この時から、ヘンソンさんの運命ががらりと変わってしまうのです。
2) 日本軍がやって来て
日本陸軍は1942年1月にフィリピンに上陸しました。そして、マニラは無防備都市になって、一家はパンパンガ州からパサイに戻りました。
マッキンレー要塞にみんなで毎日薪を取りに行っていたある日、おじさんや近所の人と離れて、一人だけで薪を束ねていたときに2人の日本兵がやって来て捕まってしまい、その将校にレイプされてしまいました。この時は農夫が助けてくれました。お母さんに打ち明けたところ誰にも云うんじゃないよ、と言われました。未だ生理も来てない15才の時でした。2度目も薪を取りに行ったときでした。
お母さんは心配して、パンパンガ州のアンヘレスに戻ることにしました。
3) フクバラハップに入隊
この年の1942年3月に日本の侵略と闘う、フクバラハップという、民衆の武装抵抗組織が生まれました。
ロサ・ヘンソンさんはすぐに共鳴して参加しました。なぜなら、大勢の日本兵が鶏や卵、パパイヤなど、を略奪し、村を襲撃して、レイプをする、その怒りで一杯だったからです。ロサの任務は薬や食べ物、古着などを集めてゲリラに渡すことでした。ゲリラの助けになるのが嬉しくて危険を冒しても一生懸命働きました。日本軍に協力するマカピリがあちこちに潜んで監視しているのをかいくぐって届けるのです。
次の年のある日、検問所を通りかかったときに、日本兵に目をつけられ、駐屯所に連れて行かれ、その日から、大勢の日本兵にレイプされる日が9ヶ月も続きました。
ある日、日本軍が村を襲撃するという噂を聞き、村人に伝え、運良く村人たちは襲撃される前に逃げることが出来ましたが、それを通報したのは、おまえだと、言われ、壮絶な拷問を受けました。その時はマラリアにもかかっていて、生きるか死ぬかの大変な目にあったのです。その時は駐屯地の隣の精米所に移されていましたが、抗日ゲリラが精米所を襲ってロサ・ヘンソンさんを助け出してくれました。
壮絶な拷問で、口も変形し、言語障害となり、目も焦点が合わず、しばらく意識を失っていました。そんな日々が1年も続きました。
4) 戦後を生き抜く
1945年1月27日に連合軍がリンガエン湾に上陸、パンパンガ州のアンヘレスにもやってきて、戦闘がはじまり、2月5日にはマニラ戦が展開されました。
日本軍は8月にやっと降伏しましたが、ロサ・ヘンソンさんの未来はこの戦争で、打ち砕かれてしまったのです。彼女の未来は空っぽだと感じたのです。
お母さんからは戦争中で日本軍にレイプされたことは、誰にも言ってはいけないと言われ、心が塞がるばかりで、どうして私は逃げなかったのか?だって、殺されるかも知れなかったじゃない、という事を何度も自問自答する日々が続きました。
お母さんのフリアは、そんな娘の気持ちを変えようと結婚させました。
ドミンゴという貧農の人で、クラーク空軍基地の近くで、ロサ・ヘンソンさんの家の近くを出入りしていての縁でした。彼はやはり、ゲリラ集団に入っていました。
ドミンゴに求婚されたとき、日本軍にレイプされた2回の出来事は話しましたが、その後の9ヶ月もの「慰安婦」とされたことは打ち明けませんでした。
1947年に、ロサの父親にあたる大地主のドン・ぺぺが亡くなり、今まで、何くれとなく援助をしてくれた人が亡くなりました。
夫のドミンゴとの間には子どもが3人生まれました。
でも、ドミンゴとの夫婦生活は次第に複雑な溝が出来てしまいました。夜中にあの、田中という将校にレイプされる恐怖で、うなされて、それは誰なのかとドミンゴに詰問されても、打ち明けることをしなかったからです。そんなことで不仲になり、ゲリラの生活では、別の女性と仲良くなっている夫の姿に愕然としました。
夫のドミンゴは1953年の戦闘で、捕虜になり、モンテンルパの収容所で亡くなりました、ロサは25才になっていました。
それから、7年間、洗濯婦をして夢中で働きました。
その後の、1957年からはタバコ工場に勤め、1991年までの34年間働き続けました。組合も出来て、そこで活躍し、年金制度も作られ、安定した収入が得られました。
でも、あの拷問の後遺症のせいで、口が思うように動かなくて、話し方がおかしい、と差別を受けることもありました。
この、タバコ工場に勤めていた1963年にお母さんのフリアが亡くなってしまいました。過去をかたり、励まし合える唯一の味方がいなくなったのです。
タバコ工場を1991年に退職して、ロサは娘さんたちと暮らし始めました。
5) 名乗り出て
タバコ工場を退職した次の年の1992年の6月30日、ラジオから「慰安婦被害者は、恥ずかしがらず、名乗り出て!」という呼びかけを聴きました。もう、びっくりして全身に衝撃を受け、血が白くなったように感じたといいます。ただただそれを聴いて泣いていました。
初めて、自分の身に起きたことを、娘のロザリオに打ち明けました。
娘はとても理解してくれました。でも、名乗り出る決心はまだつきませんでした。自分の心を楽にしたいだけだとして、何ヶ月も躊躇していました。
でも、ついに決心しました。
TFFCWという、フィリピン人「慰安婦」調査委員会の人たちが「あなたの声を聴いたら、たくさんの女性たちが励ましてくれるよ」といってくれたからです。
また、やがて、自分の役割もあるのだ、と気づきました。
当時、PKO―国連平和維持活動法案が審議されていました。日本が再びアジアに進出するということに危機感を抱き、かつての戦争をくりかえしてはいけないと、いう思いも強かったのです。
8月下旬に村山首相がフィリピンを訪問し、ラモス大統領と「アジア交流センター」について相談しましたが、それへの反対の抗議行動を土砂降りの雨の中、50人以上のメンバーで行ないました。
そして、9月18日にはマニラのケソン市で記者会見をしました。海外からも大勢つめかけて80人以上の人が、集まり、報道してくれました。9月21日には2回目の記者会見をマカティのアラヤ通りで、また、アンヘレスを現地案内して、最初にレイプされた、マッキンレイ要塞も見せました。
3回目の記者会見はマニラのイントラムロス(マニラ湾の城壁都市ですが)で行ないました。
10月5日には日本大使館の前で、宮沢首相への手紙を公表しました。正式な謝罪と賠償、歴史教科書に載せるようにという内容です。大勢のマスコミが報道してくれました。
こんな風に忙しいながらも、今まで自分の中だけの暗い秘密から解き放たれて、自尊心を取り戻すことが出来て、とても安らぎのある日々でした。
でも、一方では名乗り出たことで、誹謗・中傷も受けました。「有名になりたいの?」とか、孫に「おまえのおばあちゃんは丈夫なんだね、大勢の兵隊を相手に出来るんだから」なんて言われました。そのたびに、TFFCWの調査委員会に駆け込んで、話を聞いて貰いました。
そして、10月にはその後名乗り出た5人の記者会見をやりました。5人はバリサリサさん、アナスタシア・コルテスさん、アモニタ・バラハディアさん、トマサ・サリノグさん、フランシスカ・マカペペさんです。
そして、その後11月末には30人にもなりました。
そして、93年4月と9月に合計46名が日本政府を相手に裁判を起こしました。94年の5月に、先のTFFCWの調査委員会が発展して、被害者と支援者の集まりのリラ・ピリピーナが設立されました。
6) 晩年
ロサ・ヘンソンさんは1992年に名乗り出てから、僅か5年後に亡くなりました。
短い間、濃密な活動で、命を使い切ってしまったと思います。
92年の国際公聴会で来日し、93年の4月に裁判提訴で来日、9月には国際女性会議でドイツを訪問、10月には支援団体の招待で再び来日、94年にも、民間募金構想に反対して4度目の来日、と精力的に動き回ったため持病の高血圧や心臓を悪くしてしばらく休息を取らなければなりませんでした。また、貧しさのために、とうとう、反対していたアジア平和国民基金を受け取り、97年8月に息を引き取りました。
*彼女の残した自伝をもとに、ロサさんの人生を辿ってみました。二度とこのような被害が繰り返されないように、次世代に伝えていきたいと思います。