1月17日、2024年初めての水曜行動in新宿でした。








準備を進めていると、学生らしい2人が寄ってきて、「12時半から行動があるとフェイスブックを見て来た」とのこと。留学生とのこと。年の初めから嬉しい参加者です。




◎最初は、池田恵理子さんが月間報告をしました。



新年初回の水曜行動では、まず、最初に能登半島大地震の被災者の方々へお見舞い申し上げます。 

 

ただ、政府対応の遅さと、もし珠洲に原発ができていたらどんな惨状になっていたことだろう、住民の反対運動によって見送られてよかった、日本列島からは何とかして原発をなくしていかなければ…ということも付け加えた。


「慰安婦」問題に関しては、昨年11月のソウル高裁の原告の勝訴判決が129日に確定して感動が広がっている。来週の125日には裁判を闘った韓国の弁護士たちが来日した集会が開かれる。この高裁判決については、後ほど梁澄子さんに詳しく話してもらうので、ぜひお聞きください。



昨年から今年にかけて、いくつもの性暴力事件が大きな話題となった。

自衛隊内でのセクハラを訴えた五ノ井里奈さんの裁判で被告の有罪が確定したり、聖路加国際病院で起きた性加害と2次加害を訴える裁判も間もなく始まる。

私は先週、国会議員公設秘書による性暴力を訴えている埼玉県の報道記者の裁判を支援する集会に参加したが、芸能界や家庭内での少年への性暴力事件なども多々あがっている昨今である。

このように、性暴力被害者が声をあげられるようになった始まりは、1990年代の日本軍「慰安婦」被害者の告発からだと言われている。これは#MeToo運動でも、伊藤詩織さんの事件でも指摘されてきた。



しかし日本政府は未だに「強制連行の証拠はない」とか、「性奴隷はなかった」「問題は解決済み」と言い、「慰安婦」制度をなかったことにしようとしている。だが、「慰安婦」問題は全く解決していない。被害者たちの次々と亡くなっていく今、彼女たちと共に歩んできた私たちがその想いを引き継ぎ、日本政府と日本社会を変えていくために闘い続けていく責任が私たちにはある。2024年の年の初めに、その決意を新たにしたい。

 





◎次に、梁澄子さんが、日本軍「慰安婦」ソウル判決の意義と、さらに1月25日に予定されている集会への参加を呼びかけました。


(1月25日の集会内容は、以下をご覧下さい。https://www.restoringhonor1000.info/2023/12/blog-post_29.html )



「ソウル高裁判決が昨年11月に勝訴となった時に、日本政府はなんと言ったか。「国際法違反だ」「大変遺憾で、到底受け入れられない」と言った。政府の「国際法違反だ」と言うことを疑わない限り、政府の言うことをうのみにしてしまうことになる。結論からいうとこれは決して国際法違反ではなく、特に市民的立場で考えると、こうした判決が検討されなければ私たち自身の権利、人権が危うくなるということだ。この高裁判決の内容について知ることによって、韓国とか日本とかそうした国境の壁を乗り越えて自分自身の人権を大切にするという見地から共に守っていくべき判決なのだ、ということをこの場で確認したい」


(梁澄子さんの話の詳細は以下をご覧下さい。https://www.restoringhonor1000.info/2024/01/2024117in.html )





◎フィリピンのサバイバー、フェデンシア・ダビットさんが12月18日、95歳で亡くなりました。山田久仁子さんから追悼の言葉を頂きました。

配布しているリーフに詳しく掲載していますのでご覧ください。(添付)






◎最後に、田中栄子さん。裁判のために来日した各国のサバイバーに医療ケアをされてきた立場から発言しました。



アジアフォーラムというところに所属し、30年前から日本軍「慰安婦」被害者の方々の証言集会をしてきた。医療の仕事をしていたので、裁判や証言のために来日されたサバイバーの医療ケアしてきた。25年間で60人くらいのサバイバーのケアをしてきた。

ある韓国の女性は、慰安所から逃げようとして拷問を受け、足を捻じ曲げ骨折させる拷問を受けたと話ました。手、足、背中などをひどくたたかれ骨折し、曲がったまま骨がついて、手、足、背中が普通の人より曲がっている方を多く見た。


証言集会でフィリピンのナリシア・クラベリアさんのお話を聞いたが、お父さんが日本軍に縛り付けられて皮膚をはがされるという拷問を受けた。助けようとする人を次々切り殺していく中で、小さなクラベリアさんの弟さんも殴り殺された。これが戦場で日本軍が行ったこと。軍人になると鬼のようになるということ。今は、私たち一人ひとりに人権がある。国連は、日本政府に被害者に対して謝罪するように勧告してる。被害者の人権回復は、今、地球上に住んでいる私たち一人ひとりの人権が守られて生きられるかどうかと繋がっている問題だ。安心して私たちが生きていかれるためにも、「慰安婦」問題の解決に向けて力を合わせて頑張っていきましょう!





次回は、2月21日(水)、第3水曜日 12時30分~13時30分

場所は新宿駅西口。小田急デパートあるいは京王デパート周辺


(報告 木瀬慶子)








◎当日配布したリーフ








◎リーフの内容


昨年の12 月18 日フィリピンのフェデンシア・ダビッドさんが95 歳の生涯を閉じられました。
 被害者と支援者の団体リラピリピーナでは現役で頑張っているロラ・エステリータ・ディさんやナルシサ・クラベリアさん、パマナ(被害者の子どもや孫たちの継承組織)の人たちで追悼の会が持たれました。日本からも私たちはじめ、関連の方たちでお悔やみのメッセージを届けました。ご冥福を祈ります。


 アジア・太平洋戦争で日本軍から性暴力を受けて「慰安婦」とさせられた、フィリピンの被害女性たちは他のアジアの女性たちと同じように、壮絶な体験の中から周囲の呼びかけで日本政府を訴える闘いに立ち上がりました。フェデンシア・ダビッドさんもその勇敢なお一人でした。

 フィリピンでは1992 年9 月、ラジオでの呼びかけでマリア・ロサ・ヘンソンさんが名乗り出たのをきっかけに、このままでは死ねないと周囲の支援者とともに名乗り出た被害者は、今までに400 人あまりにのぼります。
 この数字は、全体の被害者のほんの一握りでしかありませんが、どんなに過酷な体験をくぐり抜けての決断であったかを物語っています。
 そして、1993 年日本政府を訴え裁判に立ち上がったのは、46名でした。その中のお一人がフェデンシア・ダビッドさんでした。
 

 フェデンシア・ダビッドさんは1942 年、14 歳のとき、フィリピンのルソン島の西南にあたるパンガシナン州のダソールで被害に遭いました。祖母と一緒に市場に野菜やバナナなどを売りに出かけた時、町役場にいた日本兵に呼び止められ、抵抗したとき、耳たぶをナイフで切り裂かれて、何人もの日本兵に強姦されました。昼は料理・洗濯・掃除、夜は強姦の日々
フィリピンで「慰安婦」とされたフェデンシア・ダビッドさんを追悼する
が続き、10 日ほど経った後、突然祖母とともに、家に帰って良いと、言われました。ゲリラ掃討のため、囮にされて後をつけられ、祖母は目の前で日本兵に撃ち殺され、ショックの中にいるフェデンシアさんは米畑に引っ張られ、再びレイプされました。救いのない、無慈悲な状況が1 ヶ月ほど続き、PTSD に苦しみました。苦しい出来事を忘れるために戦後はマニラに逃れて暮らしました。


 その後フェデンシア・ダビッドさんは1992 年、「慰安婦」調査委員会のよびかけを聞きました。何度も悩みながらもついに、話にいくことを決意し、仲間と出会い、勇気をもらい、これまでの体験を分かち合うことが出来、裁判に加わることになりました。
 裁判の原告になってからは、精力的に活動し、当時住んでいたリサール州アンティポロ地区のまとめ役を担いました。1998 年の東京地裁判決のときは、6 年間の闘いの結果としてこの目で確かめたいと71 歳の時、来日しました。棄却の判決を受けて「マサキット!」(タガログ語で、痛い)と叫び、これは父親と祖母を失った私だけでなく、全ての被害者に向けたゴミのような扱いだ、と怒りました。東京高裁に控訴する、私たちと一緒になって、日本を動かしてと集会の参加者に訴えました。


 一方、フェデンシアさんは、経済的にも生活全般にも困窮し、壊れかかった家は雨期になると洪水の被害を受けても修理がままならない状況から、この前年に「国民基金」の申請をしました。そしてサリサリストア(小さな雑貨屋)を営み、苦境から少し脱することができました。


 日本政府からの正義を回復するための闘いは断固として続ける、として今日まで頑張ってきたフェデンシア・ダビッドさん、本当にお疲れ様でし
た!安らかにお眠り下さい。