〈戦時性暴力問題連絡協議会〉報告 第59回 水曜行動 in 新宿
21日水曜日、12時30分~13時30分まで、青空の下、第59回目の水曜行動in新宿を20名で行いました。
「敵基地攻撃能力の保有」を認める安保関連3文書改定が16日に閣議決定され、岸田政権が大軍拡、戦争準備の道を歩んでいます。日本軍「慰安婦」サバイバーたちが、心から願った平和と人権への想い・願いとは全く逆の戦争への道を歩んでいることに警鐘をならしました。
以下、簡単に報告します。
◆最初のスピーチは池田恵理子さん。
「滅びへの道」という石川逸子さんの詩を朗読。
「アベ元首相の下で歴史否定のバックラッシュが行われ、教育・メディアをコントロールして国民の意識が変えられてきた。それが菅、岸田政権に引き継がれている。
「慰安婦」サバイバーたちや、加害の事実を反省し、証言を行ってきた元兵士たちは戦争に強く反対してきた。
いまこそ残された多くの反戦平和の言葉を思い起こして私たちも立ち上がろう。
◆差別発言を繰り返す杉田水脈議員の更迭を求めてアピールしたのは、山田久仁子さん。
杉田議員は過去の差別発言に対して国会で追及受けた。
◆12月16日は金学順さんと在日の「慰安婦」被害を受けた宋神道さんの命日と梁澄子さん。
12月16日は日本社会に「慰安婦」問題を知らせてくれた金学順さんと宋神道さんの命日。金学順さんは「しっかりしなさい。しっかりしなければまたやられます」と私たちに警告をし、「私はまだ死ねない。100歳まで生きて、日本政府の謝罪を必ず受けてみせる」と言っていたが、謝罪を受けることなく1997年12月16日に亡くなった。
それからちょうど20年後の2017年12月16日に宋神道さんが亡くなった。
在日で日本政府に訴訟を起こした唯一のサバイバーだった。宋さんは、裁判を通じて自らの被害を訴え、耳を傾けてくれた仲間たちを信じることができ、最後には「裁判は負けたがオレの心は負けてない」と語った。
日本政府も被害事実を語るサバイバーの声に耳を傾け、調査し謝罪していれば、すでに問題は解決していた。
政府が被害者を黙らせようとしても被害者は黙らない。聞き続けた私たちも決して黙らない。
政府が事実を認めて心から謝罪し、再犯防止の取組みを率先して行うことでしか、「慰安婦」問題は解決しない。改めて市民もまた政府に対して求めよう!
◆川見公子さんが、ノーモア南京の会の田巻恵子さんのメッセージを代読した。
今年の東京証言集会は、「父の戦争をともに背負う」と題して、熊本の田中信幸さんが講演。田中さんは、父・武藤秋一さんに「あなたたちが参加した戦争は侵略戦争だったと思う」と、手紙を書き、父と戦争責任をめぐって10年以上「対話」を続けてきた。対話の中で、お父さんは「あの戦争を侵略だと認めると自分の人生を全否定することになる。それが俺は怖い」と言い、10年以上対話を続けるなかで、自分も父の戦争責任をいっしょに背負っていくと伝えたところ、父から「従軍日記」を託されました。(代読した原稿を下方に添付)。
◆最後の発言は田中栄子さん。
『国連自由権規約委員会で、日本政府は「慰安婦」問題でも3度目の厳しい勧告を受けた。被害者の人権を一日もはやく回復させ、人権尊重の社会をつくっていこう』
(報告 木瀬)
◆当日配布した添付のリーフ
今年 は1937年12月13日の南京陥落から85年になります。 30万人といわれる無辜の人々の虐殺・略奪・放火は、人類への冒涜と言われ、特に女性への凌辱・強姦のすさまじさから南京レイプとも言われています。
南京大虐殺から60年になる1997年から 九州・大阪・名古屋・金沢などの仲間と、全国連絡会を結成して毎年 南京・上海から 南京事件の被害者をお招きして各地で証言集会を開いてきました。(私たちは、生存者を虐殺から幸いにも生き延びた人ということで幸存者と呼んでいます)これまでに42人の幸存者をお招きしてきました。
ここ数年は幸存者の高齢化とコロナのため、中国から来日ができなくなりましたが、被害者の証言の映像、当時の資料などをもとに、南京を語り継ぐことを続けています。
今年の東京証言集会は、
- 父の戦争をともに背負う - と題して、
熊本の田中信幸さんに講演をしていただきました。
田中さんは、父・武藤秋一さんに「あなたたちが参加した戦争は侵略戦争だったと思う」と、手紙を書いて、父と戦争責任をめぐって10年以上「対話」を続けてきた方です。
対話の中で、お父さんは「あの戦争を侵略だと認めると自分の人生を全否定することになる。それが俺は怖い」と言いました。
(これは 戦争に駆り出された 日本兵に共通した思いともいえると思います。)
そして10年以上対話を続けるなかで、父から「従軍日記」を託されました。日記は1937年7月から始まっています。日記は毎日つづられていましたが、初めて中国人の首切りをしたあとはショックで一週間日記が書けなくなっています。けれども、だんだん残虐行為、放火・徴発・首切りに慣れていったことが日記からうかがわれます。
これは、山西省に派兵された近藤一さん、南京攻略戦に参加した東史郎さんにも言えることです。
父・秋一さんの南京の滞在は数日でしたが、そのあと西方の蕪湖(ぶこ)の警備につきました。 日記に慰安所に通ったことが次のようにつづられています。
1938年です。
● 2月21日
今日は楽しい外出日だ。石川とふたり、まず朝鮮征伐に行く。4番のりだった。
次にシナ征伐に行く。一番乗りだった。そして最後に日本人のいる慰安所に行った。
●3月12日
今日は外出の楽しい日だ。まず、太田黒、石川と3人して、慰安所に行った。
日本・シナ・朝鮮を征伐して帰る。おでん屋でうんと酒を飲んで帰った。
朝鮮征伐・シナ征伐 というのは 朝鮮人のいる慰安所 中国人がいる慰安所のことです。ここでは、多くの日本兵が なんの疑問もなく慰安所に通うことを楽しみにしていたことが分かります。
蕪湖の慰安所では、2月20日は、慰安婦の数が20数人だったものが 4月23日には100人に膨れ上がったということです。南京レイプ以降、急速に慰安所が増えていきました。
田中信幸さんの父との対話は、のちの世代からの断罪ではなく、「父の苦しみ」を「ともに背負う」というものでした。それがゆえに日記を託されたのでした。
故安部首相が「あの戦争にかかわりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに謝罪を続ける宿命を背負わせてはいけません」という立場と正反対のものと言えるでしょう。
先に述べた 来日して証言された42人の幸存者うち、女性の大多数が強姦被害者でした。妊娠中だった人もいれば、7歳.8歳9歳とほんの子供だった人もいます。その心と身体の傷は生涯消えることはありませんでした。男性の証言でも強姦を目撃しなかった人はいません。妻が強姦された人もいれば、女探しに連れ出され、強姦の場面を見ているようにと強制された人もいます。
侵略戦争・植民地支配の史実に向き合い、反省するどころか、「慰安婦」「南京大虐殺」そのものをなかったことにし、増税して軍拡を進めようとする岸田政権の姿はもう戦争前夜のようです(田巻)
◆来年2023年1月の水曜行動in新宿は、1月18日(水)12時半~13時半。