3月8日は国際女性デーですが、この日を中心に、3月は女性史月間とされていて、女性の歴史や貢献、活動に光を当てる取り組みが世界各国で行われています。


ニューヨークタイムズ(NYT)は今年、この女性史月間にちなんで「世界史に足跡を残した女性100人(実際には104人)」を発表しました。そしてここに日本軍「慰安婦」被害者の吉元玉(キル・ウォノク)さんが選ばれたのです。 世界史に足跡を残した女性100人 には 他にも、広島で原爆被害に遭い2024年に亡くなった日本の平和運動家笹森恵子(ささもりしげこ)さん、3.1独立運動を闘った韓国の著名な独立運動家である柳寛順(ユ・グァンスン)さんらがアジアからは選ばれています。


100人はいろいろなジャンルに分けられているのですが、吉元玉さんは「歴史的事件のサバイバー(生存者)たち」というジャンルで選ばれた13人中の一人として、今回名前があげらています。NYTは吉さんについて「第2次世界大戦時の日本軍『慰安婦』サバイバーであり闘士である」と紹介しています。




吉元玉さん



では、このように紹介された吉元玉さんがどのような人生を生きた方なのか、それを私の記憶に従ってお話します。


まずは彼女が日本軍の「慰安婦」にされた経緯から見ておきたいと思います。

吉元玉さんは『13歳のときに日本軍の「慰安婦」にされて、いまだに故郷に帰れていない吉元玉と申します』と自己紹介していました。


この13歳というのがポイントなのです。

韓国は2023年に年齢を満で表記することが法律で定められました。それまでは数え年が法的にも、一般的にも使われていたわけです。ですから13歳というと満では11歳か12歳ということになります。今でも韓国では法的には満年齢が使われるようになったにもかかわらず、一般的には数え年の方が馴染みが深い、まだまだ生活の中で数え年が使われることの方が圧倒的に多いわけです。この事が日本ではきちんと知られていないので、被害者証言を翻訳したり、通訳するときにただ13歳と訳してしまって、それが歴史的事実とあわないと「この被害者が言っていることはウソだ」とか、こっちでは12歳と言ったりこっちでは13歳と言ったりしているとなってしまうのです。

これは翻訳する人が誕生日を考えて満11歳、満12歳と翻訳する場合もあれば、本人が言った通りただ13歳と訳す人もいる。こうしたことから韓国の被害者証言というのが揚げ足取りをされてきたという歴史があります。吉元玉さんの場合には、本人が13歳と言っておられますので、満では12歳か11歳という幼さで被害にあっています。




吉元玉さんの故郷はピョンヤンで、お父さんは古物商をしていました。

ある時、お父さんが盗品を扱ってしまってそのことで刑務所に入れられてしまいます。お父さんを刑務所から出すためには大金が必要だと11~12歳だった吉元玉さんは胸を痛めていました。そこにある年配の女性が声をかけて「工場で働けばお父さんの保釈金も稼げるし、家族のためになる」といわれました。




これをきいて吉元玉さんは、その言葉を信じて行きました。そのことを「当時、軽はずみな娘だた」と表現しています。


ところが着いたところは満州の「慰安所」だったのです。そこで初めてレイプされて、まだ初潮もなかった彼女は、血がでるのを見て、自分はもう死ぬんだと思ったそうです。まわりにいたお姉さんたちに、血が出たことを訴え、それは病気ではないということを説明されて意味がわかったということです。


これは吉元玉さんだけでなく、被害にあった多くの女性たちが同じような証言をされています。そして吉元玉さんは、酷い性病にかかります。ヨコネという性病だそうですが、あまりにも酷かったので「慰安婦」として使い物にならなくて、一度故郷に返されました


そこで一安心したところ、数か月後に、自分を慰安所に送ったその女性と偶然会ってしまうのです。その時、吉元玉さんは、身体が固まって動けなくなってしまったと、私に直接話してくれました。その女性の前で、頭ではわかるが足が動かない。その女性から「満州に行ったはずじゃないか」と言われて答えることもできなかったそうです。そしてそのまま再び次の慰安所に連れられて行ってしまったのです。


二度目の時には、「まさか今度は慰安所ではないだろう」と自分に言い聞かせていくのですが、そこは中国の石家荘というところで慰安所でした。


このお話を聞くと、少なくとも2度目は自分で進んで行ったのではないかと言う人もいます。吉元玉さんのいうことをそのまま信じることはできない、と言う人もいます。でも11~12歳の少女が慰安所に監禁されて、日本軍の圧倒的な性暴力を毎日受け続けることが、そもそも精神にどういう影響を及ぼすのかということは、医学的な知識のない人でも、私たち一般人でも、普通の生活しかしていない人でも少しは想像がつくのではないかと思うのです。


一回、そんな経験をしてしまった女性が二度目の時にもまだ14,5歳です。自分をその状況に追い込んだ人を目の前にして身体が硬直してしまうことは、容易に想像がつきます。吉元玉さんに実際にお会いすると、その人柄からしてもそういう経験をしてしまった人だということが良く理解できます。


「慰安婦」被害者というふうに、くくって言いますが、当然ながらその中には一人ひとりの人格があるわけです。皆さん、違った性格、違った人生を歩んできた方たちです。当たりまえですが、「慰安婦」被害者というようにくくってしまうと、忘れてしまうこと、その中には一人ひとりが私たちと同じ人間で、それぞれの人生があったのだということを考えればわかると思いますが、それぞれに性格が違います。


吉元玉さんのように暖かくやさしいタイプの人もいれば、怒りっぽい人もいます。飲んで騒ぐのが大好きな人もいます。私は沢山の人に出会いましたが、皆さん、違います。女川に長く住んでいた宋神道さんという方は、親が決めた結婚相手と結婚式を挙げた日の夜に新郎が自分のチョゴリを脱がせようとした瞬間、言いようのない嫌悪感と恐怖心をいだきその家を飛び出して実家に帰ってしまいました。


その後、「戦地に行けば結婚しなくても生きていける」という言葉に騙されていきました。幼い時から、男の子たちとケンカをするのが一番好きな遊びだった、ケンカをして相手をやっつけると親同士のケンカになって、それを見るのが面白かった、と言っていました。そういう人だったわけです。慰安所に騙されて連れて行かれた時にも、とにかく抵抗して抵抗して言うことを聞かない、それが最後の最後、徐々に諦めを覚えさせられていく過程は本当にすさまじいものでした。




でも、あの優しい吉元玉さんが13,4歳だったのであれば、そんな抵抗もできなかっただろうなと思います。

吉元玉さんは、こうして2度の「慰安婦」被害にあった後、故郷のピョンヤンに帰りたかったのすが、船にのって仁川(インチョン=今、国際空港になっているところ)にたどり着きました。2度も連れて行かれたことを話すときに、吉元玉さんは「騙されてしまった自分はバカだった」とよく言っていました。


自分は恥ずかしい存在だと思い込んでいた吉元玉さんは、故郷に帰ることができないままソウルで、歌がとても上手だったので、飲み屋で歌を歌う仕事をしたそうです。お酒をつぐのが本当につらかったと言っていました。それから身寄りのない孤児を養子にしてその子を女手一つで育て上げました。あるとき近所の寄合で得意な歌を歌ったら、あんなに上手い歌を歌う人は一体どういう仕事をしてきたんだろうと噂をしているのが聞こえて、それ以来、大好きな歌も人前では全く歌わなくなったそうです。それくらい自分の過去を隠したいと思って生きてきたのです。



ところが1991年、金学順さんが初めて名乗り出て、91年、92年、93年と、大勢の被害者が名乗り出て、テレビで報道されない日はないくらい沢山の報道がでました。これを見ると、過去を隠したいと思ってきた吉元玉さんは、いたたまれなくてテレビを消してしまったりしていたのですが、それがおかしいと思った息子の妻が、「お義母さんもしかして」という疑念をいだいて、ある時、問い質したのです。その時に初めて、吉元玉さんは自分の過去を認めました。たくさんの人が政府に申告した90年代初頭ではなく、1998年にはじめて家族によって、政府に被害者として登録しました。


韓国では被害者申告の窓口があります。申告をしたあとも自分は恥ずかしい存在だと思っていた吉元玉さんは、なかなか表に出たりはしませんでした。ところが韓国の運動団体(挺身隊問題対策協議会)が活動していない吉元玉さんのところにも会いに行きます。2002年のことでした。その時、吉元玉さんは「私は罪多き女です」と言ったそうです。敬虔なクリスチャンであったこともそういう表現になっていると思います。それに対して、挺対協の尹美香(ユン・ミヒャン)さんが「罪があるのは加害者の側で、責任を取っていない日本政府であり、あなたたち被害者を忘れてきた韓国社会です」と言ったら、その時、吉元玉さんはにっこり笑ったということです。その笑顔を見て、もしかしたらこの方はこの言葉を待っていたのではないかと、活動家の尹美香さんは思ったそうです。


その後、吉元玉さんは、証言もし、日本にも何度もいらっしゃいました。アメリカやヨーロッパ各国を回り、説得力のある平和人権運動家になっていきました。そのことを評価して、今回、ニューヨークタイムズが「歴史の中の100人」に選びました。つまり被害にあったということだけではなく、活動をして平和を訴えたことが評価されたのです。




吉元玉さんが、お話のときに必ず言った言葉があります。

「私は本当は恥ずかしくて、こんなことを言いたくないけど、私のような存在がまたこの世界に生まれてはいけないと思うから、戦争のない国、平和な世界を作ってもらいたいと思って、このことを話すのです」とおっしゃいました。

こういうことを話されるときに、吉元玉さんはとても暖かいすべての人を包摂するような雰囲気をかもしだして話されます。そのため日本でもアメリカでも、ヨーロッパ各国でも、吉元玉さんの話を聞くと「この人と一緒に歩んでいきたい」とそんな思いになる方が大勢いました。非常に影響力のある活動家でした。世界各地で沢山の人が吉元玉さんを記憶している。しかし日本ではどうなのか。吉元玉さんにこのような経験をさせた加害国である日本でこそ、吉元玉さんを記憶しなくてはいけないのに、いったいどれくらいの人がそのことを知っていらっしゃったでしょうか。


今日を機会に、是非、吉元玉さんのこと、そして吉元玉さんに連なる沢山の被害者、そして平和人権運動家になった「自分のような存在を二度と生まないでほしい」と平和を訴え続けた日本軍「慰安婦」サバイバーたちについて、是非、この日本社会で一緒に記憶していく人になってほしいと思います。