戦後80年目の 8.14「慰安婦」メモリアルデー

今年は戦後80年という節目の年にあたり、特に814日が「慰安婦」メモリアルデーであることから、この夏には各地で様々なイベントがありました。


私たちが属している「日本軍『慰安婦』問題解決全国行動」(略称「全国行動」)では816日にドキュメンタリー映画『終わらない戦争』の上映と梁澄子さんの話を聴く集まりを持ったところ、たくさんの参加者がありました。この時に出したアピールと日本政府への要請は、820日に内閣府に届けました。



814日の午前中にはwamで「追悼のつどい」があり、午後には「村山談話を継承し発展させる会」がシンポジウム『日本の戦後80年・平和な世界の構築に向けて』を行っています。


イベントは全国各地であったので全てを紹介できませんが、私も824日に兵庫の「『慰安婦』問題を考える会・神戸」に呼ばれて、『被害者の姿を撮り続けて』というテーマで話をしてきました。


私は「ビデオ塾」という小さなグループで1997年から「慰安婦」被害者や元日本兵の証言を記録して映像作品にまとめてきましたが、その中から韓国「ナヌムの家」の姜徳景さん、中国山西省の万愛花さん、元日本兵の近藤一さんの言葉を短く編集してみなさんに見せながら話したのです。その後、奈良の女性団体の集会、『「慰安婦」被害者と加害者の証言を考える』でも映像とトークを行いました。



どちらの会場にも、被害証言などを直接聞いたことのない若い人たちもいましたが、映像を観ながら話を聴いてくださって、いい反応をいただいたので嬉しかったです。戦後80年も経ち、体験者の証言は映像や音声テープとか書き起こしなどで聴くしかない時代になってしまいました。

 


  「慰安婦」被害者の証言を記録し続けてきた人たち

先週の土曜日・913日にはwamのセミナーでフォト・ジャーナリストの伊藤孝司さんが『ハルモニたちの叫びを受けとめて』というテーマで、北朝鮮の被害者を含めてたくさんの被害女性に出会い、写真を撮って聞き取りをされた体験を話されました。私も大変お世話になってきましたが、その膨大な蓄積はすばらしいものでした。


同じ日の午後には、朴壽南(パク・スナム)さんと娘の朴麻衣(パク・マイ)さんが共同で監督をして作ったドキュメンタリー映画『よみがえる声』の上映会がありました。


私の個人的な話で恐縮ですが、朴壽南さんは1991年に沖縄に残留した朝鮮の「慰安婦」被害者、ペ・ポンギさんが出てくる映画『アリランのうた』を作った人です。

私は当時NHKのディレクターだったので、その映画を観て「慰安婦」問題を取材しなくちゃ、番組を作らなくちゃ・・・と思いました。そこから「慰安婦」番組を作ったり、市民として「慰安婦」支援活動を始めたりしてここまでやって来たので、朴壽南さんには恩を感じていました。それで、朴さん母娘のアフタートークがあると聞いて、会いに行くことにしたのです。

朴壽南さんに会うのは30年ぶりで、90歳になられて車イスを使っていましたが声は若々しく、お話もしっかりしていました。娘の麻衣さんがお母さんの活動を引き継いで頑張っているのも素晴らしいと思いました。こういう方たちの調査や記録によって、私たちはいろんなことを知り、継承していけるのです。


831日には沖縄でペ・ポンギさんを追悼する集いもありました。私たちは「慰安婦」証言の始まりは金学順さんから・・・と思いがちですが、その前からぺ・ポンギさんは証言されていたのですね。

 


  「性接待」を強いられた女性たちが証言を始めた

それからもうひとつ、私にはどうしても観たいと思っていた映画がありました。『黒川の女たち』です。


これはテレビ朝日の松原文枝さんが監督の映画で、黒川村の満蒙開拓団が敗戦時に非常に危機的な状況でソ連軍に取り囲まれた時、村の少女たち15人をソ連兵に「性接待」するよう差し出しました。それによって村人たちは難を逃れ、無事に帰国できました。


この「性接待」は戦後長い間伏せられてきましたが、2013年になって「性接待」に行かされた女性が少しずつ、自分たちが受けた性暴力を語り始めたのです。それによって、今まで沈黙していた女性たちも語るようになっていきました。映像を見ているとはっきりわかるのですが、顔を隠していた女性が顔と名前を出すようになって、自分のことを生き生きとしゃべるようになり、きっぱりと「なかったことにはできない」と言います。



これは、私たちが「慰安婦」被害者の方たちと30年ほどお付き合いしてきて痛感するところとそっくりです。「慰安婦」にされたことを恥ずかしいから隠して沈黙しているのですが、長い歳月を経て、「私たちは性暴力被害者だ」「こんな被害は絶対にあってはならない」という思いを強くして、語り始めた被害女性たち。支援者たちとの交流も始まって、証言を聴く人たちからも励まされ、被害女性たちは次第に元気になっていくんですね。私たちはこれを「“被害女性”から“人権活動家”になった」と言ったりしますが、それと全く同じなのです。


 

オーストラリア在住の田中利幸さんからは、98日に中国人被害者の「慰安婦」記念碑が初めて建てられた、というABCニュースを知らされました。


フィリピンからは悲しい訃報が届きました。830日にフィリピン・パナイ島のテレシータ・ダヨさんが95歳で亡くなりました。心からお悔やみを申し上げます。

 


  いつまでも「慰安婦」問題に向き合おうとしない日本政府

この1カ月だけでもこのように様々な「慰安婦」に関わることが国内外で語られ、訴えられていましたが、日本政府は一向に動こうとしません。先日は韓国の聯合ニュースが、国連の高等弁務官がこの7月に、「慰安婦」問題の日本の措置は国際法上の義務を果たしていないという書簡を日本政府やアジア各国の政府に送った・・・と報じました。ところが日本政府からは「すべて解決済み」という返答しかなかったということです。



これは私たちが繰り返し言っていることですが、加害国の日本政府は戦争責任・植民地支配責任に向き合おうとしません。被害者が全員亡くなってしまえば「慰安婦」問題は消えてしまう・・・とでも思っているのでしょうか。そんな時が来るのを待っているとしか思えない日本政府の対応には、強い憤りをいだかずにはいられません。


「慰安婦」被害者の方々は最後の最後まで、何とか日本政府がこの被害事実を認めて正式謝罪と賠償、事実を伝えていく教育、継承のための資料館の設立・・・などをすべきだと訴えてきました。それが実現しないまま、ほとんどの方が亡くなられています。このことを考えると私たちは、被害女性たちの声と加害を証言してくれた元兵士の声を記録し保存し継承していかなければならない、そして戦時性暴力を根絶していかねばならない・・・と心から思うのです。