私は、ピースボートという国際交流団体で活動している者です。今日は、私がピースボートで訪れた、フィリピンのルソン島、パンパンガ州カンダバ市のマパニケ村についてお話しします。私は1998年以降、3度この村を訪れました。


 

19441123日、日本軍はルソン島パンパンガ州カンダバ市のマパニケ村を襲撃しました。その日の早朝、日本軍は村を砲撃し、周囲を包囲しました。そして、村の男性たちを小学校の前に集め、拷問の上、見せしめとして殺害しました。


日本軍は、この村に日本軍に抵抗するゲリラ部隊「フクバラハップ」のメンバーがいること理由に、男性たちを殺し、その遺体を燃える校舎に投げ込みました。私が出会った女性の話では、性器を切られ、それを口に入れられ、殺された男性もいたそうです。


 

女性たちは、銃剣を持った兵士に監視されながら田んぼを横切り、近くの「ハバイ・ナ・プラ」と呼ばれる赤い屋根の建物に連行されました。そこは日本軍部隊の司令部が置かれていた場所です。14歳以上の女性たちはその場に残され、日本兵による集団レイプが行われました。朝までに多くの女性は解放されましたが、中には数週間にわたって監禁されたままの女性もいました。女性たちが村に戻った時、村は完全に破壊され、何も残っていませんでした。男性たちは焼かれ、大きな穴に埋められていました。


 

被害者の一人であるマキシマ・レガラさんは、ピースボートに乗船されました。フィリピンのタガログ語でおばあさんのことを「ロラ」と呼びますが、マキシマ・レガラさんは「ロラ・マシン」と呼ばれていました。ロラ・マシンはマパニケ村以外でも同様の経験をしていました。


19448月、当時15歳だったマキシマさんと母親は、ルソン島中部ブラカン州サンイルデホンソの市場で買い物をしていました。二人は日本兵に出会い、挨拶をしましたが、いきなり捕らえられ駐屯地に連行されました。その日の午後、マキシマさんと母親は別々の部屋に移され、マキシマさんは「言うことを聞かなければ殺す」と脅され、レイプされました。

監禁は3か月間続いたといいます。その後、日本兵の手を逃れマパニケ村に戻りましたが、今度はマパニケ村が日本軍の襲撃を受けました。マキシマさんと母親は村に家を持っていなかったため、小学校の建物に避難していました。最初の銃撃で学校の建物に弾が当たり、二人は命からがら逃げ出しました。しかし翌24日早朝、日本兵に捕まり、「ハバイ・ナ・プラ」に監禁され、他の女性たちと一緒にレイプされました。

 


その後、マパニケ村への襲撃については、防衛研究所の図書館で機動歩兵第二連隊の資料が発見されました。資料には、討伐隊にマパニケ村付近の「匪賊」を殲滅せよという命令が記載されており、ロラたちの証言の事実性が確認されました。

 

ロラ・マシンをはじめ、マパニケ村のロラたちは日本政府に対し、事実の認定、謝罪、賠償、責任者の処罰を求めました。民間から集めた基金による補償では不十分として、アジア女性基金の支援も受け入れませんでした。

 

最後に、ロラたちが自身の悲痛な体験を歌にしたものがありますので、その歌詞を読み上げます。

 

 

「マラヤ・ロラのグループは、パンパンガ地方、カンダバの村から、自由の旗かざして立ち上がりました。フィリピンで、日本兵に嬲られ、これほど酷い目にあった村は他にあるでしょうか。

 

生まれ育ったこの村で、まるで運命に呪われたかのように、女たちは襲われたのです。荒れ狂った恐ろしい野蛮行為で女の操はずたずたにされました。

 

束の間に、罪のない多くの人々が、女も男も死んだのです。死ななければならないどんな罪を犯したというのでしょうか! 一瞬のうちに、私たちはみな、孤児(みなしご)になっていたのです。

 

思い出すのも辛い、過去のあの記憶。戦線の銃音が響き渡ったあの朝のことです。年老いた人も若い人も、炸裂する爆弾におびえ、耳をつんざく轟音の度に、涙ながら、「おお主よ!」と

みな声を限りに叫びました。

 

筒音が絶えた村の中、人は皆棒立ち、打ちひしがれてしまいました。子豚や水牛、あたりほとりのものまでが血まみれになっていたのです。

 

そこへ日本軍が来たのです。手当たり次第。男たちを捕まえては、校舎に閉じ込めました。この村で、あの惨劇が起こった印を探さなくとも、焼かれた校舎が物語ります。ああ、胸が締めつけられる!

 

男たちを一人残らず捕まえ、柱にくくりつけたのです。それから、銃声がどどど・・・

生き残った男は誰もいませんでした。

 

死体を一緒くたに、校舎の中に積み重ねると、火を放ったのです。死に別れたその次は女たちの番でした。

 

怖れに震える足取りで兵隊たちの荷物を担がされ、着いたところは赤い家でした。その中で、耐え難い屈辱を味合わせられたのです。

 

閉じ込められたその家で泣いて、憐れみを乞いました。が、兵隊の男たちは襲ってきたのです。14歳の私は、体に毒が注がれる思いでした。

 

はじめのレイプのその後も後から後から日本兵がけだもののようにのしかかって・・・

あの苦痛は今も忘れません。

 

野獣たちが飽いたときだけが、息がつげた時でした。心も体も引き裂かれ、放り出されたのです。

 

彼らが去った後でさえ、どこへも行けず、食べ物もなく、着るものもなく、生きるのに何も残っていなかったのです。

 

アメリカ軍がやって来ました。祈りを聞かれた神様にどんなに感謝したことでしょう。

 

これから何年生きられるか分らない。しかし、今、心をひとつにして、正義になかう誠実な、あの苦しみの償いを求めているだけなのです。

 

マラヤ・ロラの人々は、衰えるまま、力尽き、報われないで、永久に消えてはならない生きた証人なのです。

 

マラヤ・ロラのグループは、日本政府に、あの忌まわしい事件を証し、その公平な補償を願っているのです。」

     (歌詞の訳「ゴスペルファミリー」編集スタッフ 後藤挙治)

 



また、ピースボートに乗船し、このパパニケ村での交流にも参加されていた、韓国の日本軍「慰安婦」被害者のイ・ヨンスさんは、以下のようなことを述べられました。

「日本やアジアの若いJ人たちが何も心配することはなく、国境を越えて手と手を取り合って、平和に暮らせるようになることを願っています。そのためには、日本政府から謝罪や賠償を勝ち取ることが必要だと思います。

 

このイ・ヨンスさんの発言とマパニケ村の女性たちがこの歌を謳った録音がるので、それをお聞きください。(音声を流す)

 

以上で、終わります。