山西省・明らかにする会の田巻と申します。

私たち山西省明らかにする会は、中国の山西省で、日本軍により性暴力被害を受けたおばあさんたちの裁判を支援し、交流を続けてきました。

 私たちはおばあさんたちを尊敬を込めて、大娘と書いてダーニャンと呼んでいます。


今日はダーニャンたちのおひとり、楊時珍さんのことをお話します。



ダーニャンたち9人の被害当事者と一人の遺族、合わせて10人の原告で1998年10月、謝罪と賠償を求めて、日本政府に損害賠償裁判を提起しました。楊時珍さんもそのおひとりです。


 皆さんは、学校の日本史で、1937年7月7日の盧溝橋事件や南京大虐殺事件のことを習ったと思います。

盧溝橋事件以降、日本軍は中国侵略を本格的全面的に拡大させていきました。日本軍は8月には上海に上陸し、11月首都南京へと軍をすすめました。12月13日南京陥落。人類史上例をみないと言われる、30万にも及ぶ南京大虐殺を引き起こしました。このような「殺しつくし、焼きつくし、奪いつくす」という三光作戦は南京だけはありません、中国各地で繰り広げられたことです。


そして 女性に対しては、拉致・監禁・強姦そして強姦後には殺害するというすさまじい性暴力が中国全土で繰り広げられました。

 


楊時珍さんの被害について

日本軍は、山西省にも侵入していきました。楊時珍さんは、1924年生まれ、山西省の盂県の後河東村に住んでいて、そこで家族と農業をして生活していました。


日本軍は1940年 河東村地域を占領し、トーチカを構えて拠点とし、村は日本軍の直接支配下におかれていました。


 支配下におかれた村は、「維持会」という組織を作り、日本軍に協力せざるをえませんでした。おもな仕事は日本軍が要求する物資の調達でした。


 のちに中国人の協力者たちは「民族の裏切り者」とされ、断罪されるのですが、当時は、村人の命と生活を守るためにやむを得ないことでした。

 

楊時珍さんの兄・楊時通さんはその維持会の会計を務めていました。

お兄さんが日本軍に協力していたにも関わらず、楊時珍さんは日本兵たちの強姦・輪姦という被害から逃れることができませんでした。



1941年、楊時珍さんが17歳の時でした。日本兵数人が自宅に押しかけてきました。両親は殴られて自宅を追い出され、楊時珍さんは家のなかで日本兵数人に輪姦されたのです。

その後も、日本兵たちは度々家に来て、家のなかで楊さんを強姦しました。自宅だけではなく、拠点の砲台に連行されて輪姦されたこともありました。

 

そのうちに ひとりの下士官が楊さんを気に入って独占するようになりました。

その下士官に連れまわされ、下士官が別の拠点に移動になったときには、同行させられ、その拠点でさらにひどい性的暴行を受けました。 

 

さきほど言った 維持会の会計を務めていた兄の楊時通さんが、妹を解放するために走り回り、日本兵に現金を渡してようやく救出されました。


受けた性暴力があまりにひどかったため、救出された後も二年間闘病生活を送りました。少し回復してから、20歳になって結婚しましたが、健康を回復することはできず、様々な婦人病を患い、心身ともに苦しい50年余を送ってきました。


そして1998年、 日本政府を相手に、損害賠償裁判の原告に加わったのですが、健康が優れないために、来日して、裁判所にその思いを訴えることはできませんでした。

 

夫の劉五成さん のことを少しお話します。


私は楊時珍さんがお元気なうちにお会いすることはできませんでしたが、2001年5月に、少人数で、楊時珍さんのご自宅にお見舞いに行ったことがありました。

同じ敷地内に住んでいる多分親族なのだと思いますが、ほとんど高齢のお二人に関心がなく、何のお世話もしていないように見えました。


楊さん自身は認知症気味で、身の回りのことは夫の劉五成さんがすべてやっていました。 私たちが「何か困っていることはありませんか。」と聞くと、楊時珍さんは「おじいさんが何でもやってくれるので、私は何にも困っていることはありません」とにこやかに答えてくれました。 夫の劉五成さんは寡黙でほとんどしゃべらなかったのですが、私たちが帰るときは、いつまでも手を振って見送ってくれました。



2002年に楊時珍さんは亡くなりました。

劉さんはずっと泣き暮らしていたと聞いています。

2003年4月に東京地裁で判決がありました。裁判の承継人になった劉五成さんは、原告の趙潤梅さんと共に来日されました。


判決は被害事実を全面的に認めながら、敗訴でした。

「行政的・立法的な解決を図ることは可能」という付言は付きましたが、請求棄却という不当な判決でした。日本政府が行政的・立法的な解決に動くことは全くありませんでした。


判決報告集会で、劉五成さんは被害後の楊時珍さんのこと、当時の村の様子を話されましたが、「村に帰ったらなんと言ったらいいのか」と言ってずっと泣き通しでした。

 

劉五成さんは2年後の2005年に亡くなられました。今は畑のなかの大きな木の下で、最愛の妻と一緒に眠っています。


裁判の原告となった被害当事者のダーニャンたちは皆 亡くなられています。

どなたの姿も忘れられませんが、たった一度だけしかお会いできなかった楊時珍さんとと 妻を最後まで支え続けた劉五成さん、お二人のことも忘れることはできません。