〈戦時性暴力問題連絡協議会〉サバイバーを記憶する インドネシアのスハルティ・テレシアさん
スハルティさんを支援された九州の木村公一さんの追悼文からスハルティさんを紹介します。
1941年12月に始まったアジア太平洋戦争で、日本軍はインドネシアを1942年から3年半に亘って占領しました。この事実を皆さんはご存じですか?多くの日本人は日本軍がインドネシアを占領した歴史を知らないと思います。このインドネシア占領期間に、現地のインドネシアやオランダ系の女性や少女たち、日本の植民地であった朝鮮や台湾から連れてこられた女性や少女たちが、日本軍の性奴隷として性暴力被害に遭いました。
スハルティさんは1944年、15歳の時、騙されて故郷の東ジャワの村からボルネオ島・バリクパパンの「慰安所」に連れていかれました。15歳の少女が、多い日には軍人10人もの相手をさせられるという辛い日々を強いられたのです。その後「慰安所」のあったバリクパパンは連合軍の激しい爆撃をうけ、日本軍は敗走しました。
日本軍が逃げだして「慰安所」から解き放たれたスハルティさんたち被害女性は、密林の中を50日かけてボルネオ島の南の都市にたどり着きました。そこで後にインドネシアの「慰安婦」被害者のリーダーとなるマルディエムさんと出会います。マルディエムさんは自分の服や食べ物までスハルティさんたちに譲ったといいます。その恩は忘れられないとスハルティさんは語っています。
スハルティさんは、戦後、あちこちの町を転々とする中で、ジャワ島のジョグジャカルタでマルディエムさんと再会し、無二の親友となったと言います。マルディエムさんとは90年代になって「インドネシア<慰安婦>連帯ネットワーク」〔Jaringan
Solidaritas Ianfu Indonesia〕のメンバーとして共に活動しました。
スハルティさんは2018年8月、89歳で亡くなりましたが、日本に何度も来て証言されました。スハルティさんが連行されたバリクパパンは中曽根康弘元首相が海軍の主計長として赴任した場所です。中曽根元首相は『終わりなき海軍』という回想録に「23歳で3000人の総指揮官」というタイトルで当時を回想して寄稿しているのですが、そこには「三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものや博打にふける者も出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある」と書いています。
スハルティさんは2009年11月、中曽根元首相に面会を申しいれましたが、会ってもらえなかったと悔しがっていました。
また同じ2009年には日本外務省を訪れ、「日本政府に対する「慰安婦」被害者スハルティ・テレシアの請願」という請願書を読み上げて担当官に手渡しました。大切な文書です。
これを読みあげて、スハルティさんの追憶としたいと思います。
1. 日本政府はすべての「慰安婦」被害者に対し公式謝罪を表明してください。それは老齢になった「慰安婦」被害者がこの世を去るまえに、心身の傷を癒す助けになるからです。
2. 日本政府はすべての「慰安婦」被害者に対し公式賠償を講じてください。それは「慰安婦」被害者が自らの尊厳を回復する助けになるからです。
3. 日本政府は日本軍による性奴隷制の歴史的な非道性を歴史教科書に記述し、次世代を担う子どもたちを教育してください。それは次世代の若者たちが戦争によって国際紛争に対処するような道を歩まないためです。
4. インドネシアにおけるすべての「慰安婦」被害者は、インドネシア政府からも、日本政府からも、「アジア女性基金(AWF)」からも、何一つ相談を受けたことがありません。彼らの政策は私たち「慰安婦」被害者を無視しただけでなく、愚弄さえしています。
上記の4つの請願に答えていただくために、私たちは、日本政府に対し、直ちに立法措置を講ずるよう要請する次第です。
2009年12月1日
スハルティ・テレシア(「慰安婦」被害者)
すでにスハルティさんは亡くなり、この請願書は彼女の残した遺志となりました。女性のせいを蹂躙するという加害行為をおこなった国の責任をそのままにすることはできません。
二度とこうした歴史が繰り返されないように、私たちはスハルティさんの遺志であるこの請願を実現すべく共にがんばりましょう。
(報告 川見公子)