やはり私たちは逃れられない「証人」だから
2020-06-22
チョン・イルホ記者 (時事 in 2020.6.16 )
日本軍「慰安婦」運動は被害当事者がいない運動になりつつある。 次世代活動家を育てる方法として、尹美香さんの国会進出が論議された面もある。 既存運動の成果を尊重するが、失敗した場から未来を模索しなければならない。
5月27日、第1441回定期水曜集会。 「ナヌムの家」のハルモニが亡くなり、冥福を祈る椅子が置かれた。
「彼女は毛布を畳んで隅へ片付け,床を手で払う。ホコリや糸くず、フケ、白い髪の毛を手の下に集めて、彼女は低くつぶやく。 ここにもう一人生きている…。」
日本軍”慰安婦”被害者たちの証言をもとに書いたキム・スムの小説〈一人〉(現代文学、2016)は、生存者1人だけの未来を視点にしている。 小説とは言え、316に達する脚注は、2 / 11日本軍”慰安婦”被害者の「言葉」に基づく。 一時隠された過去が活字化されて白い紙の上に広がるとき、それを読む人々も逃げられない「目撃者」になってしまう。 被害を証言する人が居なくなる時は何時か来るが、記録は消えない。
始めたのも1人だった。 1990年1月、尹貞玉(ユン・ジョンオク)前梨花女子大教授が「ハンギョレ新聞」に「挺身隊怨魂のこもった足跡」という文を4回にわたって発表した。 彼女は、植民地支配が終わった後に現れた被害者のうち、自分と同世代の女性の痕跡や声が見つからないのが不思議だったという。 1980年、尹前教授は、噂だけだった日本軍”慰安婦”被害者の裵奉奇(ペ・ポンギ)と日本の沖縄で会った。 それから10年余り、日本はもちろん、中国とタイなどに散在している被害者たちを探し回って証言を収集した。
国内に現れていない被害者が確実にいると考えた。 同年11月16日、日本軍”慰安婦”問題解決に向けて37の女性団体が集まって韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)を作った。 1991年8月14日、国内では初めて金学順さん(1997年死去)が挺対協を通じて公開証言をした。
解放から46年で届いた話だった。 現在よりも家父長的で、いわゆる「純潔」イデオロギーが根強い韓国社会で、性的暴力の被害者が顔と名前を公開した一大事件だった。
金学順さんを皮切りに、「一人」はもう1人ではなくなった。 日本軍”慰安婦”被害者の言葉と生きている身体は、それ自体で強力な「証拠」だった。 過去は変えられないが、未来は変えることができるのではないか。 運動はその信念と変化を動力に30年間続いてきた。 挺対協は最近、議論を呼んでいる「正義記憶連帯」(正義連)の前身だ。
政府は1930~1945年に日本軍”慰安婦”に動員された被害者を約8万~20万人と推定する。
このうち約2万人だけが生きて帰ってきた。 政府登録の被害者はわずか240名だ。 被害者は依然として「無言」で生存しているか、「無名」で死亡したと考えられる。 2016年と2018年に新規登録した被害者を含め、6月4日現在、生存者は17人だ。 平均年齢は91歳。 「時間がない」という言葉は、もはや飾りでなくなった。 被害当事者なしに運動を続ける時期が遠くない。以前とは違う戦略と方向が議論されるべき時期が来ていた。
その方向性についての議論が突然、論争の形で始まった。この5月7日、日本軍”慰安婦”被害生存者の一人である李容洙(イ・ヨンス)さんが記者会見を開いた。 同日の記者会見で、李容洙さんは、正義連の後援金の使途や水曜集会など、従来の運動方式について問題を提起した。
5月25日にも記者会見を開き、「正義連が被害者を利用した」という要旨の発言を行った。
李容洙さんは2015年、「未来韓国」とのインタビューで類似した内容を発言したが、今回は社会的反応が全く違った。 矛先は自然に比例代表国会議員の尹美香さん(共に民主党)に向かった。 挺対協の幹事として日本軍”慰安婦”運動を始めた尹さんは、正義連代表や理事長を務めてきており、その経歴をもとに国会に入った。
昨年6月19日、第2回金福童平和賞授賞式が開かれた。 左から尹美香挺隊協常任代表(当時)、吉元玉さん、
受賞者のバスピエ・クラスニッチ-グッドマン、李容洙さん
韓国社会で特権的地位にある国会議員の座と繋がっているだけに、事案は爆発性を持っている。 日本軍”慰安婦”被害者関連法案が上程される度に足を引っ張った未来統合党は、今回の論議を解決するとして、「慰安婦被害真相究明TF」まで設置した。 ちょうど正義連とは別に、仏教界が設立した日本軍”慰安婦”被害者居住施設である「ナヌムの家」も不正疑惑に包まれた。 日本軍”慰安婦”運動自体の正当性と道徳性が、取り返しのつかない打撃を受けた。
連日、正義連の会計「不正」と運動方式をめぐって報道と政争が続いた。 事態の序盤、自らの立場を「曺国(チョ・グク)事態」に例えた尹美香さんや、正義連を批判する李容洙さんの発言意図や背後を各自が解釈する言葉が加わり、論議は拡大した。 一方で、正義連の後援撤回が相次いだ。 一時、市民社会では「入金は最高の連帯」という言葉が旗印のように使われた。 後援撤回は一種の断罪だった。
実は日本軍”慰安婦”運動は、既に被害当事者なしに運動を続けていた。 高齢や身体の衰えなどを理由に2018年11月頃から、当事者が水曜集会に出席できないことが多かった。 一種の「路線の違い」で正義連とは距離を置いていた李容洙さんが、「もう自分しかいない」という切迫感で、異見を出したのではないかという解釈が出ている理由だ。 市民社会内でも事実、「尹美香一人体制」のような正義連に対する懸念があったという。 運動の持続性のためにも、次世代活動家を育てる必要があった。 ある研究者は、「ポスト尹美香」を作る方法の一つとして、尹美香さんの国会進出が議論された面もあると見ている。
反日感情と民族主義を超えて
いかなる団体であれ、異見と葛藤は宿命だ。 しかし、「生存者」の声は単なる一人の「異見」ではない点から、議論は分裂して空転を繰り返した。 二回目の記者会見から2日後の5月27日、李容洙さんは大邱中区の「2.28民主化運動記念公園」内の平和の少女像の前で開かれた水曜集会に少しの間、参加した。 「記者会見で言うべきことはすべて言った。 その言葉だけ信じてください。 一緒に闘いましょう」という言葉を残した。 6月1日には、金学順さんが埋葬された忠清南道天安の「国立望郷の丘」と京畿道広州市の「ナヌムの家」を訪れた。 この運動の「正当性」が当事者である自分にあることを雄弁する行動だった。
尹美香さんと李容洙さんは30年近く「敵」と言うより、「同志」だった。李容洙さんは水曜集会という運動方式に刃を突き付けたが、この運動を無視ばかりできない責任感を感じたようだ。 水曜集会の参加者は「私のために」苦労する人々として、この論争を「私が乗り出して収拾すべき」問題と受け入れた。 運動の始まりが金学順だったなら、その終りは自分だったはずだ。 しかし、日本軍”慰安婦”運動は尹美香であれ、李容洙であれ、一人が抱えて解決できるレベルを既に超えている。
尹美香当選者が5月27日、国会で記者会見を開き、正義連関連疑惑を釈明した。
日本軍”慰安婦”被害者運動は、即ち「証人」を増やすことだった。 尹美香さんは李容洙さんの証言を聞いた初めての人だった。 正義連は、その言葉の拡声器の役割をした。 言葉が言葉らしくなるには、聞く人が必要だ。 聞くことは、聞く人の積極的解釈と行動を求める。 その意味で、被害者の言葉を初めて耳を傾けて聞いた正義連は、日本軍”慰安婦”被害者問題のもうひとつの当事者でもある。 正義連を当事者のもう一つの軸にしなければ、被害当事者がみな死亡した後、この運動は生命力を失わざるを得ない。
日本軍”慰安婦”被害者の存在と正義連の活動は、戦後の被害者問題に対する認識と態度に一大転換をもたらした。 植民地支配と戦争にまみれた暴力の歴史からすくい上げた声は、個人の不幸に要約できない明白な犯罪だった。 これを戦争性犯罪と規定し、日本の責任を問う正義連の活動は、韓日関係を超えて女性人権全般について問うことになった。 ひいては、全世界の省察と反省を求める活動につながった。
被害当事者は、自分が経験した暴力を自分の経験としてだけに留めなかった。 多様な性的暴力被害女性らと腕を組んで、歩幅を広げて行った。 「民族対民族」の構図を超えた活動は、正義連の中核活動でもあった。 その過程で、当事者たちは被害者やハルモニを越え
て、女性人権活動家と位置づけられた。 韓国政府が管理した在韓米軍基地村の被害女性たちと初期から連帯してきた点はこれをよく示している。 当初国内で”慰安婦”問題が水面に浮上したのも、女性団体が「妓生観光」に問題提起をしてからだったという点を考えると不自然ではない連帯であった。 水曜集会が第1442回(6月3日現在)まで続く間、主催は正義連だったが、多くの女性団体が連帯の意味で集会を主管してきた。
2012年に日本軍”慰安婦”被害者である金福童さん、吉元玉さんの提案で始まったナビ基金は代表的だ。 世界各地で行われている戦争で、性的暴力被害を受けている女性を支援するための募金活動だった。 集まったお金は遠くはコンゴへ、近くはベトナムへ飛んだ。 何よ
り韓国は、ベトナム戦争の加害国でもあった。
2015年、金福童さん(2019年死去)は、ナビ基金3周年の記者会見で、このように述べた。 「韓国によってベトナムの女性たちが被害を受けたので、韓国国民の一人として本当に申し訳なく思っています。 そこで、私たちの力でナビ基金を集めて、被害者たちに少し
でも役立つようにします。」李容洙さんも、韓国軍によるベトナム被害女性たちに韓国大使館の前でデモするよう励まし、「連帯」を約束していた。(〈25年間の水曜日〉2016)。
しかし、正義連の活動で最も目立ち、全面的な支持を受けた主張が、日本の謝罪と賠償要求だったという点も見逃してはならない。 日本軍”慰安婦”の被害問題は、女性の人権問題であるだけでなく、韓日外交と政治までが一か所に括られている。 日本軍”慰安婦”被害者の被害の様相と生活に多様な顔を持っているだけに、「何が真の解決か」をめぐって意見が分かれたのも何ら不思議ではない。
このために日本軍”慰安婦”被害者という一つの名前で括られているが、個人レベルでは解決方法をめぐって多様なレベルの交渉と妥協が行われた。 日本が「道義的」責任を負って1995年から2007年まで施行した「女性のためのアジア平和国民基金」(国民基金)を受領したり、2015年12月28日、韓日、日本軍”慰安婦”合意当時に「補償金」を受けた彼女らも存在する。
その過程で、補償(適法な行為でも損害を負わせる)ではなく、賠償(不法行為に対する損害を負わせる)を要求する「強硬路線」を採択してきた正義連は、交渉の局面ごとに際立つしかなかった。 反日感情と民族主義は正義連の意図とは別に、支持勢力を結集するための運動の多くの局面で「頼みの綱」だった。正義連がして来た全世界の戦争性犯罪被害者支援、「戦争と女性人権博物館」建設など多様な事業と成果は、時にはその影に隠された。
文在寅大統領が2018年8月14日、日本軍”慰安婦”被害者記念日の行事で演説をしている。
反日感情と民族主義は、運動を大衆化するのに貢献した。 しかし、日本軍”慰安婦”被害当事者「個人」らを孤立させる一因になったのではないか、探ってみる必要がある。 文化研究者のオム・ギホさんは「苦痛は分かち合えるか」(ナムヨンピル、2018)で、韓国社会はひたすら苦痛の悲惨さに注目していると指摘する。 「苦痛を強いられ、それを見せる者としてのみ、やっと社会的に可視化される」。しかし、被害者を苦しみに身悶えする存在としてだけ再現するのは、「彼女から言葉も、人生も全て奪う暴力」となり得る。
韓国社会が日本軍”慰安婦”被害者から見ようとした姿も、これから大きく外れていない。
5月27日、記者会見で李容洙さんは「慰安婦は汚れた名前だ。 慰安婦の汚名をはらしたい。」と絶叫した。 数十年の間に生存者として存在し、当事者運動の先頭に立って活動してきた彼女が、依然として被害者に「限定されている」姿は、今後この運動や韓国社会が解決すべき最も重要な宿題になった。
もちろん、活動家たちもこの点で倫理的な悩みを繰り返してきたようだ。 日本軍”慰安婦”被害者たちの苦痛を解決して強調するため、毎回証言させるのは「側」に立つ人たちも、やはり辛いことだった。 ドキュメンタリー映画『金福童』(2019)でアン・ソンミ元正義連国際チーム長はこう語った。 「また言ったことを言わなければならず、そのために辛い記憶を絶えず繰り返し反芻しなければならない。 そしてその話を終えて、群衆が去った後は、また一人残って自分の人生を寂しく振り返らなければならない。」
日本軍”慰安婦”運動が民族主義に寄りかかると批判するのは容易だ。 しかし、民族主義という筋道がなければ、その悲劇的な事件を完全に理解できないのも事実だ。 ユン・ミョンスク博士(日本軍”慰安婦”問題研究所調査チーム長)は〈朝鮮人軍慰安婦と日本軍慰安所制度〉(理学史、2015)で、軍慰安所問題に見逃してはならない点を探る。 「軍慰安所問題は、植民地または占領地という特異な状況下で展開された民族差別という事実がある。 朝鮮人軍慰安婦の徴募は、朝鮮が日本の植民地だったから容易だった。」
この複雑な問題は、名称にもそのまま残っている。 李容洙さんは記者会見で「どうして挺身隊問題を、慰安婦運動と混ぜて使うのか」と批判した。 「挺身隊」とは、男女を問わず、国民を動員した日帝の人力動員政策を意味する言葉だ。 「慰安婦」という言葉が日本軍の文書に登場した時期は1939年で、日帝の強制徴用政策のうち、日本軍の性奴隷制度を意味する言葉である。 実際の被害ケースを収集してみると、「挺身隊」と「慰安婦」が区別されないことが多かった。 女性には強制動員された労役の種類が、性別を理由に「もう一つ」多かっただけだ。 みんなが戦争犯罪の被害者であるのは言うまでもない。 ただし、ジェンダー暴力に対する浅薄な認識のため、「慰安婦」ではなく「挺身隊」を掲げて運動が進められた点まで考慮しなければ、筋道を見逃し易い。
学問的研究は裏付けのない現実
名称に関する合意がある程度実現した時期は1993年10月「強制従軍”慰安婦”問題解決のためのアジア連帯会議」からだった。 もはや通用している「慰安婦」という名称はそのまま使用するが、加害者の用語なので引用符('')を必ずつけて使用し、犯罪主体である日本軍をその前に付けることを決議した。 尹美香さんは「25年間の水曜日」の中で、「名称は今も論争を巻き起こしており、生存者の何人かは依然としてこの名称を拒否しています。 (中略)日本軍の蛮行を表して、被害者の傷跡を包んであげる名称は、引き続き探さねばいけない」と述べ、読者も悩むことを求める。
「人は消えても記録は消えない」ということを記憶する必要がある。 記録は我々に責任を求める。 ヤン・ヒョンア・ソウル大法学専門大学院教授(日本軍”慰安婦”研究会会長)は「基本」をまた探そうと提案している。 「スローガン中心の運動ではなく、関連記録と研究を体系化し、整備する必要がある。 することが余りに多い。 こうした基本がきちんとできていないため、(未来世代のための)教育も不十分になる。」
ソウル麻浦区の戦争と女性人権博物館に掲げられたバッジと言葉。
日本軍”慰安婦”問題は、その深刻性に比して、学問的研究が体系的に裏付けされなかった。 文在寅政府は歴代政府の中で初めて、日本軍”慰安婦”研究所設立を100大国政課題の一つ(「実質的な両性平等社会実現」項目)にしており、これは2018年に日本軍”慰安婦”問題研究所の開所につながったが、支援は不十分だった。 韓国女性人権振興院傘下の研究所は、不安定な運営を続けている。
研究者らは1年単位の契約を更新しなければならず、予算は9億ウォン程度に過ぎない。
国内外の主要記録物の体系的な発掘およびデータベース化、保存価値の高い資料を国家記録物に指定、歴史教育推進基盤づくり、日本軍”慰安婦”被害者口述記録集の外国語翻訳及び発行など、どれも容易でない課題なのに、独自的な事業を持続的に推進するのが難い実情だ。
研究所の法的根拠がないことも足を引っ張っている。 ナム・インスン議員(共に民主党)が第20代国会で「日帝下の日本軍慰安婦被害者に対する保護・支援及び記念事業などに関する法律」一部改正案を発議したが、第20代国会の閉会と共に葬られた。 政府は2015年12月28日、韓日日本軍”慰安婦”合意を廃棄、「和解・癒やし財団」を解散したが、後続措置は見えない。
既存運動の成果を尊重するが、失敗した場を振り返り、今後を模索するのは特定団体だけの役割ではない。 社会問題に対する正解は一緒に見つけなければいけない。 日本軍”慰安婦”問題を知っている私たちも、この歴史の「証人」だからだ。
(拙訳:Kitamura Megumi)
<原文は以下から読むことができます>
https://www.sisain.co.kr/news/articleView.html?idxno=42205(拙訳:Kitamura Megumi)
日本軍「慰安婦」運動は被害当事者がいない運動になりつつある。 次世代活動家を育てる方法として、尹美香さんの国会進出が論議された面もある。 既存運動の成果を尊重するが、失敗した場から未来を模索しなければならない。
5月27日、第1441回定期水曜集会。 「ナヌムの家」のハルモニが亡くなり、冥福を祈る椅子が置かれた。
「彼女は毛布を畳んで隅へ片付け,床を手で払う。ホコリや糸くず、フケ、白い髪の毛を手の下に集めて、彼女は低くつぶやく。 ここにもう一人生きている…。」
日本軍”慰安婦”被害者たちの証言をもとに書いたキム・スムの小説〈一人〉(現代文学、2016)は、生存者1人だけの未来を視点にしている。 小説とは言え、316に達する脚注は、2 / 11日本軍”慰安婦”被害者の「言葉」に基づく。 一時隠された過去が活字化されて白い紙の上に広がるとき、それを読む人々も逃げられない「目撃者」になってしまう。 被害を証言する人が居なくなる時は何時か来るが、記録は消えない。
始めたのも1人だった。 1990年1月、尹貞玉(ユン・ジョンオク)前梨花女子大教授が「ハンギョレ新聞」に「挺身隊怨魂のこもった足跡」という文を4回にわたって発表した。 彼女は、植民地支配が終わった後に現れた被害者のうち、自分と同世代の女性の痕跡や声が見つからないのが不思議だったという。 1980年、尹前教授は、噂だけだった日本軍”慰安婦”被害者の裵奉奇(ペ・ポンギ)と日本の沖縄で会った。 それから10年余り、日本はもちろん、中国とタイなどに散在している被害者たちを探し回って証言を収集した。
国内に現れていない被害者が確実にいると考えた。 同年11月16日、日本軍”慰安婦”問題解決に向けて37の女性団体が集まって韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)を作った。 1991年8月14日、国内では初めて金学順さん(1997年死去)が挺対協を通じて公開証言をした。
解放から46年で届いた話だった。 現在よりも家父長的で、いわゆる「純潔」イデオロギーが根強い韓国社会で、性的暴力の被害者が顔と名前を公開した一大事件だった。
金学順さんを皮切りに、「一人」はもう1人ではなくなった。 日本軍”慰安婦”被害者の言葉と生きている身体は、それ自体で強力な「証拠」だった。 過去は変えられないが、未来は変えることができるのではないか。 運動はその信念と変化を動力に30年間続いてきた。 挺対協は最近、議論を呼んでいる「正義記憶連帯」(正義連)の前身だ。
政府は1930~1945年に日本軍”慰安婦”に動員された被害者を約8万~20万人と推定する。
このうち約2万人だけが生きて帰ってきた。 政府登録の被害者はわずか240名だ。 被害者は依然として「無言」で生存しているか、「無名」で死亡したと考えられる。 2016年と2018年に新規登録した被害者を含め、6月4日現在、生存者は17人だ。 平均年齢は91歳。 「時間がない」という言葉は、もはや飾りでなくなった。 被害当事者なしに運動を続ける時期が遠くない。以前とは違う戦略と方向が議論されるべき時期が来ていた。
その方向性についての議論が突然、論争の形で始まった。この5月7日、日本軍”慰安婦”被害生存者の一人である李容洙(イ・ヨンス)さんが記者会見を開いた。 同日の記者会見で、李容洙さんは、正義連の後援金の使途や水曜集会など、従来の運動方式について問題を提起した。
5月25日にも記者会見を開き、「正義連が被害者を利用した」という要旨の発言を行った。
李容洙さんは2015年、「未来韓国」とのインタビューで類似した内容を発言したが、今回は社会的反応が全く違った。 矛先は自然に比例代表国会議員の尹美香さん(共に民主党)に向かった。 挺対協の幹事として日本軍”慰安婦”運動を始めた尹さんは、正義連代表や理事長を務めてきており、その経歴をもとに国会に入った。
昨年6月19日、第2回金福童平和賞授賞式が開かれた。 左から尹美香挺隊協常任代表(当時)、吉元玉さん、
受賞者のバスピエ・クラスニッチ-グッドマン、李容洙さん
韓国社会で特権的地位にある国会議員の座と繋がっているだけに、事案は爆発性を持っている。 日本軍”慰安婦”被害者関連法案が上程される度に足を引っ張った未来統合党は、今回の論議を解決するとして、「慰安婦被害真相究明TF」まで設置した。 ちょうど正義連とは別に、仏教界が設立した日本軍”慰安婦”被害者居住施設である「ナヌムの家」も不正疑惑に包まれた。 日本軍”慰安婦”運動自体の正当性と道徳性が、取り返しのつかない打撃を受けた。
連日、正義連の会計「不正」と運動方式をめぐって報道と政争が続いた。 事態の序盤、自らの立場を「曺国(チョ・グク)事態」に例えた尹美香さんや、正義連を批判する李容洙さんの発言意図や背後を各自が解釈する言葉が加わり、論議は拡大した。 一方で、正義連の後援撤回が相次いだ。 一時、市民社会では「入金は最高の連帯」という言葉が旗印のように使われた。 後援撤回は一種の断罪だった。
実は日本軍”慰安婦”運動は、既に被害当事者なしに運動を続けていた。 高齢や身体の衰えなどを理由に2018年11月頃から、当事者が水曜集会に出席できないことが多かった。 一種の「路線の違い」で正義連とは距離を置いていた李容洙さんが、「もう自分しかいない」という切迫感で、異見を出したのではないかという解釈が出ている理由だ。 市民社会内でも事実、「尹美香一人体制」のような正義連に対する懸念があったという。 運動の持続性のためにも、次世代活動家を育てる必要があった。 ある研究者は、「ポスト尹美香」を作る方法の一つとして、尹美香さんの国会進出が議論された面もあると見ている。
反日感情と民族主義を超えて
いかなる団体であれ、異見と葛藤は宿命だ。 しかし、「生存者」の声は単なる一人の「異見」ではない点から、議論は分裂して空転を繰り返した。 二回目の記者会見から2日後の5月27日、李容洙さんは大邱中区の「2.28民主化運動記念公園」内の平和の少女像の前で開かれた水曜集会に少しの間、参加した。 「記者会見で言うべきことはすべて言った。 その言葉だけ信じてください。 一緒に闘いましょう」という言葉を残した。 6月1日には、金学順さんが埋葬された忠清南道天安の「国立望郷の丘」と京畿道広州市の「ナヌムの家」を訪れた。 この運動の「正当性」が当事者である自分にあることを雄弁する行動だった。
尹美香さんと李容洙さんは30年近く「敵」と言うより、「同志」だった。李容洙さんは水曜集会という運動方式に刃を突き付けたが、この運動を無視ばかりできない責任感を感じたようだ。 水曜集会の参加者は「私のために」苦労する人々として、この論争を「私が乗り出して収拾すべき」問題と受け入れた。 運動の始まりが金学順だったなら、その終りは自分だったはずだ。 しかし、日本軍”慰安婦”運動は尹美香であれ、李容洙であれ、一人が抱えて解決できるレベルを既に超えている。
尹美香当選者が5月27日、国会で記者会見を開き、正義連関連疑惑を釈明した。
日本軍”慰安婦”被害者運動は、即ち「証人」を増やすことだった。 尹美香さんは李容洙さんの証言を聞いた初めての人だった。 正義連は、その言葉の拡声器の役割をした。 言葉が言葉らしくなるには、聞く人が必要だ。 聞くことは、聞く人の積極的解釈と行動を求める。 その意味で、被害者の言葉を初めて耳を傾けて聞いた正義連は、日本軍”慰安婦”被害者問題のもうひとつの当事者でもある。 正義連を当事者のもう一つの軸にしなければ、被害当事者がみな死亡した後、この運動は生命力を失わざるを得ない。
日本軍”慰安婦”被害者の存在と正義連の活動は、戦後の被害者問題に対する認識と態度に一大転換をもたらした。 植民地支配と戦争にまみれた暴力の歴史からすくい上げた声は、個人の不幸に要約できない明白な犯罪だった。 これを戦争性犯罪と規定し、日本の責任を問う正義連の活動は、韓日関係を超えて女性人権全般について問うことになった。 ひいては、全世界の省察と反省を求める活動につながった。
被害当事者は、自分が経験した暴力を自分の経験としてだけに留めなかった。 多様な性的暴力被害女性らと腕を組んで、歩幅を広げて行った。 「民族対民族」の構図を超えた活動は、正義連の中核活動でもあった。 その過程で、当事者たちは被害者やハルモニを越え
て、女性人権活動家と位置づけられた。 韓国政府が管理した在韓米軍基地村の被害女性たちと初期から連帯してきた点はこれをよく示している。 当初国内で”慰安婦”問題が水面に浮上したのも、女性団体が「妓生観光」に問題提起をしてからだったという点を考えると不自然ではない連帯であった。 水曜集会が第1442回(6月3日現在)まで続く間、主催は正義連だったが、多くの女性団体が連帯の意味で集会を主管してきた。
2012年に日本軍”慰安婦”被害者である金福童さん、吉元玉さんの提案で始まったナビ基金は代表的だ。 世界各地で行われている戦争で、性的暴力被害を受けている女性を支援するための募金活動だった。 集まったお金は遠くはコンゴへ、近くはベトナムへ飛んだ。 何よ
り韓国は、ベトナム戦争の加害国でもあった。
2015年、金福童さん(2019年死去)は、ナビ基金3周年の記者会見で、このように述べた。 「韓国によってベトナムの女性たちが被害を受けたので、韓国国民の一人として本当に申し訳なく思っています。 そこで、私たちの力でナビ基金を集めて、被害者たちに少し
でも役立つようにします。」李容洙さんも、韓国軍によるベトナム被害女性たちに韓国大使館の前でデモするよう励まし、「連帯」を約束していた。(〈25年間の水曜日〉2016)。
しかし、正義連の活動で最も目立ち、全面的な支持を受けた主張が、日本の謝罪と賠償要求だったという点も見逃してはならない。 日本軍”慰安婦”の被害問題は、女性の人権問題であるだけでなく、韓日外交と政治までが一か所に括られている。 日本軍”慰安婦”被害者の被害の様相と生活に多様な顔を持っているだけに、「何が真の解決か」をめぐって意見が分かれたのも何ら不思議ではない。
このために日本軍”慰安婦”被害者という一つの名前で括られているが、個人レベルでは解決方法をめぐって多様なレベルの交渉と妥協が行われた。 日本が「道義的」責任を負って1995年から2007年まで施行した「女性のためのアジア平和国民基金」(国民基金)を受領したり、2015年12月28日、韓日、日本軍”慰安婦”合意当時に「補償金」を受けた彼女らも存在する。
その過程で、補償(適法な行為でも損害を負わせる)ではなく、賠償(不法行為に対する損害を負わせる)を要求する「強硬路線」を採択してきた正義連は、交渉の局面ごとに際立つしかなかった。 反日感情と民族主義は正義連の意図とは別に、支持勢力を結集するための運動の多くの局面で「頼みの綱」だった。正義連がして来た全世界の戦争性犯罪被害者支援、「戦争と女性人権博物館」建設など多様な事業と成果は、時にはその影に隠された。
文在寅大統領が2018年8月14日、日本軍”慰安婦”被害者記念日の行事で演説をしている。
反日感情と民族主義は、運動を大衆化するのに貢献した。 しかし、日本軍”慰安婦”被害当事者「個人」らを孤立させる一因になったのではないか、探ってみる必要がある。 文化研究者のオム・ギホさんは「苦痛は分かち合えるか」(ナムヨンピル、2018)で、韓国社会はひたすら苦痛の悲惨さに注目していると指摘する。 「苦痛を強いられ、それを見せる者としてのみ、やっと社会的に可視化される」。しかし、被害者を苦しみに身悶えする存在としてだけ再現するのは、「彼女から言葉も、人生も全て奪う暴力」となり得る。
韓国社会が日本軍”慰安婦”被害者から見ようとした姿も、これから大きく外れていない。
5月27日、記者会見で李容洙さんは「慰安婦は汚れた名前だ。 慰安婦の汚名をはらしたい。」と絶叫した。 数十年の間に生存者として存在し、当事者運動の先頭に立って活動してきた彼女が、依然として被害者に「限定されている」姿は、今後この運動や韓国社会が解決すべき最も重要な宿題になった。
もちろん、活動家たちもこの点で倫理的な悩みを繰り返してきたようだ。 日本軍”慰安婦”被害者たちの苦痛を解決して強調するため、毎回証言させるのは「側」に立つ人たちも、やはり辛いことだった。 ドキュメンタリー映画『金福童』(2019)でアン・ソンミ元正義連国際チーム長はこう語った。 「また言ったことを言わなければならず、そのために辛い記憶を絶えず繰り返し反芻しなければならない。 そしてその話を終えて、群衆が去った後は、また一人残って自分の人生を寂しく振り返らなければならない。」
日本軍”慰安婦”運動が民族主義に寄りかかると批判するのは容易だ。 しかし、民族主義という筋道がなければ、その悲劇的な事件を完全に理解できないのも事実だ。 ユン・ミョンスク博士(日本軍”慰安婦”問題研究所調査チーム長)は〈朝鮮人軍慰安婦と日本軍慰安所制度〉(理学史、2015)で、軍慰安所問題に見逃してはならない点を探る。 「軍慰安所問題は、植民地または占領地という特異な状況下で展開された民族差別という事実がある。 朝鮮人軍慰安婦の徴募は、朝鮮が日本の植民地だったから容易だった。」
この複雑な問題は、名称にもそのまま残っている。 李容洙さんは記者会見で「どうして挺身隊問題を、慰安婦運動と混ぜて使うのか」と批判した。 「挺身隊」とは、男女を問わず、国民を動員した日帝の人力動員政策を意味する言葉だ。 「慰安婦」という言葉が日本軍の文書に登場した時期は1939年で、日帝の強制徴用政策のうち、日本軍の性奴隷制度を意味する言葉である。 実際の被害ケースを収集してみると、「挺身隊」と「慰安婦」が区別されないことが多かった。 女性には強制動員された労役の種類が、性別を理由に「もう一つ」多かっただけだ。 みんなが戦争犯罪の被害者であるのは言うまでもない。 ただし、ジェンダー暴力に対する浅薄な認識のため、「慰安婦」ではなく「挺身隊」を掲げて運動が進められた点まで考慮しなければ、筋道を見逃し易い。
学問的研究は裏付けのない現実
名称に関する合意がある程度実現した時期は1993年10月「強制従軍”慰安婦”問題解決のためのアジア連帯会議」からだった。 もはや通用している「慰安婦」という名称はそのまま使用するが、加害者の用語なので引用符('')を必ずつけて使用し、犯罪主体である日本軍をその前に付けることを決議した。 尹美香さんは「25年間の水曜日」の中で、「名称は今も論争を巻き起こしており、生存者の何人かは依然としてこの名称を拒否しています。 (中略)日本軍の蛮行を表して、被害者の傷跡を包んであげる名称は、引き続き探さねばいけない」と述べ、読者も悩むことを求める。
「人は消えても記録は消えない」ということを記憶する必要がある。 記録は我々に責任を求める。 ヤン・ヒョンア・ソウル大法学専門大学院教授(日本軍”慰安婦”研究会会長)は「基本」をまた探そうと提案している。 「スローガン中心の運動ではなく、関連記録と研究を体系化し、整備する必要がある。 することが余りに多い。 こうした基本がきちんとできていないため、(未来世代のための)教育も不十分になる。」
ソウル麻浦区の戦争と女性人権博物館に掲げられたバッジと言葉。
日本軍”慰安婦”問題は、その深刻性に比して、学問的研究が体系的に裏付けされなかった。 文在寅政府は歴代政府の中で初めて、日本軍”慰安婦”研究所設立を100大国政課題の一つ(「実質的な両性平等社会実現」項目)にしており、これは2018年に日本軍”慰安婦”問題研究所の開所につながったが、支援は不十分だった。 韓国女性人権振興院傘下の研究所は、不安定な運営を続けている。
研究者らは1年単位の契約を更新しなければならず、予算は9億ウォン程度に過ぎない。
国内外の主要記録物の体系的な発掘およびデータベース化、保存価値の高い資料を国家記録物に指定、歴史教育推進基盤づくり、日本軍”慰安婦”被害者口述記録集の外国語翻訳及び発行など、どれも容易でない課題なのに、独自的な事業を持続的に推進するのが難い実情だ。
研究所の法的根拠がないことも足を引っ張っている。 ナム・インスン議員(共に民主党)が第20代国会で「日帝下の日本軍慰安婦被害者に対する保護・支援及び記念事業などに関する法律」一部改正案を発議したが、第20代国会の閉会と共に葬られた。 政府は2015年12月28日、韓日日本軍”慰安婦”合意を廃棄、「和解・癒やし財団」を解散したが、後続措置は見えない。
既存運動の成果を尊重するが、失敗した場を振り返り、今後を模索するのは特定団体だけの役割ではない。 社会問題に対する正解は一緒に見つけなければいけない。 日本軍”慰安婦”問題を知っている私たちも、この歴史の「証人」だからだ。
(拙訳:Kitamura Megumi)
<原文は以下から読むことができます>
https://www.sisain.co.kr/news/articleView.html?idxno=42205(拙訳:Kitamura Megumi)